Immoral Lady



不邪淫ふじゃいん戒」 …… 妻や夫以外の男女と交わったり、みだらな行為をしてはならない



刃葉木の山に、からからと説法の声が響く。

「さても女人とは業の深きもの 不浄の血で清流を汚し 」 

は顔の見えない誰かに言い返す。

―汚れだって言うンなら、流させなきゃいいじゃないっ―

好きで流したことなど一度もない。血も涙も。

「体の中に千の虫を住まわせ ねたみそねみでこれを飼い 」

山のふもとから吹き付けてくる風は、熱くも冷たくも無くただ生臭い。その風に突き飛ばされるように、は山頂へ向って歩いていた。茂る木々の葉は鋭い刃。体を被う薄衣は引き裂かれ、剥き出しになった肌から血が流れ出す。
険しい山道を歩く足が茂みにつまづき、地面についた掌に尖った石が突き刺さる。
否、貫かれた手の甲から覗くのは刃。この山に生えるものは、草も木も転がる石さえ全て鋭利な刃物でできている。

―痛ぁ…―

は歯を食いしばって、地に縫いとめられた手を引き抜いた。掌から血があふれ、手首を伝って肘から地面へしたたり落ちる。だが、ぱっくり切り開かれた手の痛みは、どこか他人事のようだった。

「いかに金銀珊瑚 玉衣を纏おうと 己が内の醜さは隠せるはずもなし 」

流れる血は黒。落ちた血を吸い込む地も黒。
黒い山、黒い木。
灰の空、灰の衣。
白い刃、白い肌。
色のない世界にはいた。

「清らなる出家を惑わし 修行を妨げ魔道に堕とす その性まさしく邪淫の身なれば 」

―女一人に邪魔されるぐらいなら、いくら修行したって無駄でしょうに―

穴の開いた手よりも、胸の奥の奥が痛い。
立ち尽くすを追い立てるように、また風が吹く。薄い金属の葉がこすれあう音は、の傷ついた肌を粟立たせ、立ち止まることを許さない。

「死後は衆合地獄におち、永劫の果てまで責められようぞ」

―勝手に言ってなさいよ―

歯を食いしばってまた歩き始める。両耳を手で覆う。それを無駄なことだと告げるように、説法が降りそそぐ。

「女人が救われる術など無い 無い 無ぁぁぁぃぃぃぃぃ……」

―いらない、そンなものっ!―

たどり着いた頂上には何もなかった。刃葉木の間を、すすり泣きのような音をたてて風が吹くばかり。

「呵ッ呵ッ呵ッ呵ァーーッ」

天からの大笑が鞭のようにを打ち据える。
風が渦を巻いて方向を変え、今度は下へ向って吹き始める。今登って来た道を下れと言わんばかりに、の体を押し流そうとする。
そして刃の林を抜け下りきったらまた登れと言うのだろう。未来永劫それを繰り返せと。
この無彩色の世界でたった独りで。
痛い。
体を切り刻まれることよりも、嘲笑の限りを受けることよりも。
痛い。
膝をつきかけたの目が、鮮やかな色を捕らえた。
灰色の空から下がる一条の紅い糸。仏が垂らした蜘蛛の糸と言うには、鮮やかで強か。は迷わずそれを掴んで、力いっぱい引寄せた。
宙に浮くかと思った自分の体はそのままで、代わりに腕の中に何かが転がり込んできた。

「いだだだっ、何しやがる」

わめく声。仏や天の使いにしては品がない。

「……悟浄?」

握りしめた手には、見慣れた赤い髪。

「あ?他の男のが良かった?」

悟浄は硬く握ったの手を解きほぐすと、そこから自分の髪を引っ張り出した。

「勘弁してくれよ」

ぼやきながら悟浄は起こしていた半身をベッドに横たえた。枕を胸に抱え込んで目を閉じる。

「あ…」

夢、だったのか。は深く息を吐いた。

「魘されてたぜ」

目を閉じたまま悟浄が言う。

「ちょっと、ね。嫌な夢みちゃって」
「どんな」

地獄の夢。
理由は分かっている。最近、が市に店を出すと、決まってその近くで説法を始める僧がいた。その説法というのが決まって、女の罪深さやそれに騙されることの愚かさを、延々と語り続けるもので。おまけに邪な行いをした者が落ちる地獄を、実に親切丁寧に説いてくれる。
流浪の女の身、しかも香玉などという怪しげな物を扱っているの店は、お陰でこのところ商売あがったりだった。だが仮にも僧侶に向って「あっちに行け」と言う訳にもいかない。仕方なく別の場所に移っても、僧がなぜか後からついてくる。そして声高にまた説法を続けるのだ。
自分では聞き流していたつもりだったが、あんな夢を見たということは、胸の中に少しずつ滓のように溜まっていたのだろうか。罪悪感が。
自分の手が綺麗だとは言わない。自分の血、他人の血。自分の涙、他人の涙。流した量をはかることも、元に戻すこともできはしない。
は毛布を肩までたくし上げて体を包み込んだ。つま先が冷たい。そろそろと足を動かして、悟浄の足に押し付けてみる。悟浄の少し汗ばんだ肌の感触と体温が、を温めていく。

「悟浄、あのね…」

返事がない。
横を見ると悟浄の寝顔があった。枕の上に乱れる髪も、目蓋におちる睫毛も紅。規則正しい寝息がやけに耳につく。
はベッドから抜け出すと、床に落ちていた自分の枕を拾い上げて、悟浄の顔に叩きつけた。

「ひとりで寝てないでっ」
「わぁーった、わぁーった」

枕の向こうからくぐもった声がした。と思ったら、腕が伸びて抱きすくめられる。ふれあった素肌のぬくもりに、不安と怒りが溶けていく。それを感じ取ってしまう自分と、あっさり溶かした相手にまた腹が立つ。

「離して頂戴な」
「しねぇの?」
「そういうンじゃないの」

両腕を突いて体を起こせば、背中にまわされていた腕はあっさりと解ける。纏わりつかれれば鬱陶しいが、放っておかれるのは寂しい。
ずり落ちた枕の下からは、赤い瞳が片方だけのぞいている。

「惚れてんだろ、俺に」
「どうかしらねぇ」
「俺はあんたに惚れてるぜ」

困った。
顔と心が緩んでしまう。

「好きだよ。愛してる。もーベタ惚れ」

軽く口にするその言葉に、どれだけ自分が迷わされるか。確かに邪な行いをしたとして、地獄に落とされても文句は言えない。だが原因の半分はこの男にある。
共犯者同士、同じところに落ちるなら、それはそれでいいかもしれない。

「大っ嫌い」

薄く笑っては身体を預けた。
二人で落ちる地獄は、きっと極彩色をしているから。






「さても数ある地獄の中で、女の落ちる地獄こそ悲惨きわまれる 」

が店を開いた真正面で、今日も僧侶が声を張り上げて説法を始めた。昨日までは視線を合わせないように顔を伏せていただったが、今日はゆっくりとその姿を眺めた。
剃り上げた頭と墨染めの衣が、いかにも生真面目そうな僧。年は悟浄と同じぐらいか。まるで違う二人を頭の中で比べてみると、くっと笑いがこみ上げてくる。
それを見咎めたように僧はいっそう声を張り上げた。太い眉の下の黒い目が、を睨むように見据える。は笑みをひっこめ懐に手をやると、すたすたと僧に歩み寄った。
説法を中断し訝しげな顔をする僧に、は神妙に頭を下げる。

「いつも有りがたいお話を聞かせてくださるお礼でございます」

懐から紙包みを取り出し、そっと差し出す。

「そのような物は受け取れん。そなたのような…」

断りかけた僧に向い、首をかるく傾げ、が微笑む。

「貧者の一灯、どうぞ…」

唇を花のようにほころばせ、胸元からは甘い香りをほんのりと立ちのぼらせて。

「お受け取りくださいな」
「う、うむ。では」

若い僧は顔に朱を染めて紙包みを受け取った。
は慎ましく頭を下げると、自分の店へ戻った。

「あ…うむ…。そもそも衆合地獄とは…その…」

自信たっぷりだった僧の説法は、今はしどろもどろ。その前に足を止める人々もなくなり、やがて僧は足早にその場を立ち去っていった。
市のざわめきの上を、の艶のある声が渡っていく。

「地獄の沙汰も金次第 浮世の沙汰は恋次第
 一夜(ひとよ) 人夜(ひとよ)の憂いを晴らす
 香玉 香玉 香玉はいかがァ・・・・・」








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Material from "篝火幻燈"