Amazing Grace
「不妄語戒」 ……
嘘をついてはならない
「おい。ンな所で、いつまで油売ってやがる」 その声は、さほど大きくなかった筈なのに、やけにはっきりと聞き取れた。 が慌てて振り向くと、居並ぶ人と人の向こう側に、至極不機嫌そうな三蔵の顔が見える。腕を組み、眉間に深く縦皺を刻んで、紫暗の瞳がこちらを睨み付けていた。 幾重にも連なる人の輪の中央では、服装も、体格も、年齢性別もバラバラな数人の集団が歌を歌い続けている。楽器一つ手に持たず、声と声だけを重ねて紡ぎ出す陽気で美しいメロディーに、聴く者は皆一様に酔いしれていた。 も、もっと聞き惚れていたかったのだが、呼ばれてしまっては仕方ない。ちょうど歌が終わり、聴衆が盛大な拍手喝采を贈る中、人と人の間をかき分け、何とか三蔵の元へと歩み寄る。すると三蔵は一言、「遅せぇんだよ」と忌々しげに吐き捨てた。 「……三蔵? もしかして、探しに来てくれたの?」 「ンな訳あるか。いつまでも戻って来ねぇ奴を当てにするのが、馬鹿らしくなっただけだ」 言われて、はふと己が手元に目を落とした。そこには、細々とした買い物の数々と共に、マルボロの赤が一カートン収まっている。そう云えば出掛けに、ついでに、と頼まれていたんだっけ。 今頃になってその事を思い出したの目の前で、三蔵は袂から新品の煙草を取り出し、封を切る。これ見よがしに吐き出された煙が、の髪を軽くかすめた。 気まずげな雰囲気が漂うその間に、あちら側では次の一曲が始まっていた。紫煙がくゆる向こうで、また、陽気で美しい歌声が流れる。 三蔵と、二人そろって煙草をふかすその様に、聴衆の内の何人かが気付き、眉を顰めながらちらちらと覗き見ていた。 それもそうだろう。有髪ながらも純然とした法衣に身を包み、一見しただけで僧侶と分かる風体の男が、公衆の面前で堂々と煙草を喫しているのだ。しかも、傍らに若い女性を連れて。 流れる歌声の合間を縫うように、人々の囁く誹謗の言葉が、非難の眼差しが、容赦なく二人に突き刺さる。三蔵の眉間の縦皺が一層深くなった。 そんな外周の動向も知らず、聴衆の輪の中に居る歌い手たちは、首からかけたロザリオを握り締め、ただただ歌い続けている。異国の言葉で綴られた歌詞の中に、生への喜びと、深い信仰の念を込めて。全身全霊をもって。 ふと見ると、彼らの歌う歌に合わせ、聴衆の内の何人かが、同じメロディーを口ずさんでいた。中には、うっすら涙ぐんでいる者も居る。興味本位、娯楽気分で歌を聴く人々の中にちらほらと、祈るような姿が見受けられた。 そう云えば、この街には宗教施設の類は無い、と話に聞かされた。少し前、住人であった妖怪たちが凶暴化して騒ぎを起こした際に、教会も、仏閣も、全て破壊されてしまったのだと。 その事を思いながら深く紫煙を吐き出せば、煙が、やけに目に沁みる。痛い程に。 「――下らねぇ」 その時。ぼそりと、三蔵がそう呟いた。 何が? とが問うよりも早く、三蔵は吸い終えた煙草を足で踏み消し、踵を返す。「行くぞ」問答無用なその言い様に、も仕方なく、咥え煙草で後に付き従う。 が、次に始まった一曲に、の足がふと止まった。ゆったりと、優しく歌い上げるメロディーに惹かれ、再び後ろを振り返る。 その事に気付き、先を行っていた三蔵が、訝しんで肩越しにを見た。ついっと細めた紫暗の瞳が、無言でに問いかける。 「好きな曲なのよ。戻る前に、これだけ聞かせてくれない?」 が、苦笑しながらそう答えた。 流れる歌はAmazing Grace。曲の由来はあまり知られていないが、有名な、とても有名な一曲だ。 立ち止まったまま動こうとしないに、三蔵も不承不承、その場に足を止める。次の煙草に火を点けながら、「馬鹿が」という呟きが投げ捨てられた。 Amazing grace! How sweet the sound, That sav'd a wretch like me! 先程までの盛り上がりはなりを潜め、厳かに、しかし優しく歌声だけが響き渡る。主旋律を担うテノールに、ソプラノ、アルト、バスの副旋律が順に重なり、歌詞に綴られた語句の一つ一つに、生命の息吹を与えてゆく。まるで深い暗闇の中に一筋の光を差し込むように、歌が、声が、聴く者に広く深く沁み渡り、心の奥底まですとんと落ちる。 それはも例外ではなく、ただうっとりと、歌に聞き惚れている。傍らで、三蔵が至極渋い顔をしているのにも気付かずに。 「――馬鹿が」 再び、三蔵がそんなことを呟いた。 二度も言われては無視も出来ず、が露骨に顔をしかめた。まるで子供が拗ねるような、何とも大人気ない口調と表情で、 「何よ、良いものは良い、綺麗なものは綺麗、それを褒めて何が悪いのよ?」 「……ふん。どうせ貴様のことだ、意味なんて大して理解出来てねぇんだろうが」 「失礼ね、半分くらいは分かるわよ!」 全然威張れない事を堂々と言い切って、がぷいっとそっぽを向いた。 「聴くのを邪魔するんなら、さっさと先に帰って頂戴」しっしっと手を振って、まるで犬か猫でも払うような態度を取るに、三蔵がふん、と、また不機嫌に鼻を鳴らす。 の振りかざす手に乱されて、三蔵の吐く紫煙が儚く消える。が、三蔵本人は変わらず憮然としてはいるものの、一向にその場を動く気配は無い。 一体何を考えているのやら、と、は密かに嘆息した。 Tho' many dangers, toils and snares, I have already come; 「大体、貴方もお坊様の端くれなんでしょ。 だったら、街の皆様に有り難いお経でも読んで聞かせて差し上げたらどうなの?」 皮肉たっぷりに言い放ったの台詞に、三蔵の片眉がぴくり、と吊り上がった。 睨み返す紫暗の眼差しに、不快感と、怒気の入り混じった色が加わる。が、も黙ってはいない。 自身の煙草に火を点け、外連見たっぷりに煙を吐き出しながら、 「あの人たちだって、集うべき教会を無くしてるのに、ああして歌いながら神の教えを説いているのよ。 曲がりなりにも最高僧の位を持つ人が、何もしないでここで煙草(ヤニ)ふかしてるだけなんて、職務怠慢もいい所なんじゃない?」 「煩せぇ、黙れ」 「昨日、この街に着いてすぐだったかしら。貴方の元に、街のお坊様が何人か訪ねて来たのは。 貴方ったら、ろくに話も聞かずに追い返したでしょ? 全く、薄情な人よねぇ」 ああ、嫌だ嫌だ。些か芝居じみた振る舞いで、があてつけがましく首を横に振った。 すると三蔵は、 「ふん。“三蔵”の称号だけに縋り付く奴を助ける程、暇でも粋狂でも無ぇんだよ、俺は」 低く抑えた声での呟きに、がはっと三蔵を振り返った。 その鋭い眼差しは、一体何処を見つめているのか。どう見ても、でも、あちらで歌を歌う人々でもないように思われる。 返す言葉も無く黙り込むを他所に、三蔵は更に、 「目の前の現実を見もせずに、称号だけに縋り付く。ンな奴らのことなんざ、俺の知った事じゃねぇ」 「…………」 「経や説法だけで人は救えん。ンなお手軽なもんで全部カタが付くなら、最初から誰も苦しんだりしねぇよ」 その時、ふと。三蔵がうっすら笑ったような気がした。 怒り顔以外、滅多に表情を崩すことのない男が極々稀に見せる、酷薄な、絶対零度の冷たさを孕む微笑。紫暗の眼差しはひたすらに鋭く、まるで血で濡らした凶刃の閃きのような、あるいは暗雲の中に走る稲妻のような煌きを宿す。嘲笑とも、侮蔑とも違う、ただ微笑としか呼べぬその表情に、の背が一瞬ぞくりと震えた。 言葉が、返せない。どんなに耳に良い言葉を並べて体裁を整えたところで、全て上滑りするようで。 恐らく本人にとっては何でもない筈の呟きが、存外な重さを伴って胸に響く。喉にがりがりと爪を立てて空気を求めたくなるような重い窒息感が、言い知れない、何も返せない己への歯痒さが、次第にの中に広がってゆく。 聞き惚れていた筈の歌声も、人々の囁く誹謗の声も、もう耳には入らない。奇妙な仮想的沈黙の中で、ただ三蔵の燻らせる煙草の煙が、が吸わぬまま持って燃やしてしまっている煙草の煙が、薄くたゆたい消えるのみ。 ああ、そうだ――は、不意に気が付いた。 この男は、玄奘三蔵という男は、深い深い矛盾を常に自覚しながら生きているのだ。 尊い経文を肩に掛けながら銃を握り、大慈大悲を説く仏門の頂に在りながら、必要に応じて他者を殺める。 気を抜けば、ずぶずぶと足元から沈み溺れてゆくような深い闇を――募る後悔や罪悪の念を、心を蝕む昏い快楽(けらく)や狂気の感覚を、死にゆく他者が表す無念の相を直視しながら、敢えて愛憎苦楽を諸共に負い、己が信念を高く掲げて歩く。 儚く絶える命の軽さと重さを知り、自ら命を、苦しみを絶とうと図りながら、寸でのところで踏み切れずにいた臆病さも、暗中模索を続ける不安定さも、己が信念を貫くための過程だと意地で割り切って。 だからこの男は、ひどく強くて脆くて、でも強い。自身の弱さを密かに苛みながら、それでも前に進む事を止めないから。 Yes, when this flesh and heart shall fail, And mortal life shall cease; 今、流れているこの歌とは対極に、甘くも優しくも無いけれど。その代わり、耳に心地好いだけの嘘は一切口にしない男。 だから。暗翳の中に突如差し込む光のように。凛と立つその在り様が、迷う者にも、迷う事にすら倦み疲れた者にも、行くべき先をすっと照らして示す。いつか自分が掬い上げられたように、その眼差しが、その一言が、本人も知らぬ間に誰かを救う。 自ら深い深い闇の奥底に陥り、這い上がってきた男だからこそ持ち得る、その強い強い輝きで導くように。 それは、まさに驚くばかりの―― ――最初に出会ったあの時には、あんな眼をしていたのにね。 その玲瓏たる横顔を、鋭い紫暗の瞳を窺い見ながら、は密かに苦笑する。 かつて自分も迷いの泥沼に嵌り、この男に叱咤呵責された事があるのも思い返しながら。 「……何が可笑しい」 「ううん、別に」 そうこうする合間にも、歌は終わっていたようだ。聴衆が、歌い手たちに惜しみない拍手を贈っている。 待ってましたと言わんばかりに、三蔵が再び歩き出す。一言の断りもなく、背後を振り返ることもせずさっさと先を行くその様は、傍若無人をそのまま形にしたようなもので、これこそがこの男の常態なのだ。 相手が付いて来ようが来るまいが、この男にとっては本当はどうでも良いのかも知れない。が、何故か逆らえない。 それが、悔しくて、悔しくて、どうしようもなくて。 「ねぇ、一つだけ訊いても宜しいかしら、玄奘三蔵法師様?」 笑い混じりに尋ねるの言葉に、三蔵のこめかみに青筋が立った。 じろりと睨み付ける眼差しは、予想通りに怒気満々。「殺すぞ、てめェ」低く呟いた一言にも、苛立ちが存分ににじみ出ていた。 が、今度はも怯まない。笑う顔はそのままに、真っ直ぐに眼を見つめて問い掛ける。 「玄奘三蔵法師様。では貴方は、“救い”とは一体何だとお考えですの?」 「………………」 「お経や説法が、神様の教えが誰も救わないのなら、『何が』人を救うんですの?」 一瞬、奇妙な間が空いた。 三蔵の歩みがぴたりと止まり、を真正面から見つめ返す。傍らを行き交う通行人の存在も、ここが路頭である事実すらも念頭から消え、互いが互いのみを凝視する。 ややあって、三蔵がぷいっとそっぽを向いて、 「俺が知るか」 吐き捨てられたその一言に、が再びくすっと笑った。 何て、この男らしい答えだろう。気に入らないなら無視すればいいだけなのに、変なところで律儀で、几帳面で。 どうしようもなく、莫迦で。 ――せめてもう少し、肩の力を抜ければ楽なのに。 自分のことは棚に上げて、はふとそんな事を思う。 三蔵の発言や行動の基準が何処にあるのか、勿論に知る術は無い。けれど、ずっと見ていれば判る事もある。 それが何かと問われても、言葉だけでは表現し切れないから、巧く答えられないのだが。 そう思うと、何だか無性に可笑しくて、気分が良くて、は小声で歌を口ずさみ始めた。 曲が曲であるだけに、三蔵が先程と同様に、至極嫌そうな目でこちらを顧みる。が、特に文句を言う事も無く、ふん、と小さく鼻を鳴らしてまた前方に視線を戻した。 法衣を翻し歩く背中に、「勝手にしろ」という文字が見える。だから、勝手に歌わせて貰おう。 先へ進むことにばかり必死なこの男に向けて。自分の好きな、この歌を。 この曲の歌詞を書いた人物も、かつて悪逆非道の日々を送りながら、後に改心して信仰の道に入り、彼なりの『救い』を見出したといういきさつがあるらしい。で、その喜びを吐露した言葉こそが、このAmazing Graceの詞であるのだと。 そして。その男が『救い』を見出す奇蹟を得たのは――奇しくも今の三蔵と同じ、23歳の時であったという。 そんな歌の由来など、きっと三蔵は知らないだろうけど。 Amazing Grace |