酔ひなきするし まさりたるらし
「不飲酒戒」 ……
放逸の原因となる酒類、麻薬などを嗜んではならない
重い木の中はひんやりと冷たく、特有の、古びた芳しい香りがした。温度や湿度、容器の状況まで丁寧に管理された棚に、ずらりと並んでいるのは――。 「ねぇ、ご主人。彼が勝ったら、一本下さるって仰いましたわよね」 「はっはっはっ。学者の姐さんは誤魔化せんなぁ。樽以外なら、何でも好きなのを選んでくれ」 「え〜。樽は駄目なんですか?」 「姐さん、本気かい?」 「ほほほほ。冗談ですわ、ご安心を」 は、揃えた指先を口にあててにこやかに笑った。店主は肩を竦めると八戒に「この姐さんの相手は大変だろう?」と言ってにんまりとし、八戒は頭をかきながら「ええ、まぁ…」曖昧に笑い返した。 「何にせよ、兄さんが勝ったんだから、好きな酒を一本進呈するよ。ゆっくり選んでいってくれ」 店主はまたわっはっはと豪快に笑い、持っていた灯りを八戒に渡して酒蔵を出て行った。このご時世に珍しい、大雑把な大人物だ。 八戒は、灯りを持ったまま、既に夢中になってラベルを読んでいるに言った。 「いいんですか。」 「何が?」 「僕が、あんな輩に勝っただけで、ここのお酒戴いちゃってもいいんですか?。どれも相当良い物ばかりですよ」 「いいのよ。ここのご主人、本当のお酒好きだから、お店で騒いだり喧嘩したり賭け事なんかして欲しくなかったのよ。ほとほと困ってたみたいだったから、貴方を呼んだの。あんな頭悪そうな奴ら、貴方なら一捻りだったでしょ?」 「当然ですね」 八戒は怖いほど優しげに、にっこりと笑った。どこの町にでも居そうなチンピラであった。まず始めにカードで叩き潰し、次に破れかぶれでかかって来たのを返す刀で蹴り出す事など、彼にとっては児戯に等しい。 「ああ、面白かったわ。さて、やっと美味しいお酒が飲める」 「飲みながら観ていて下さっても良かったんですよ」 「駄目よ。馬鹿な酔っ払いが窮地に陥っていくのを見る時は、自分は素面で、隅々まできっちり観察出来るようにしておかなくちゃ」 「容赦が無いですねぇ」 「貴方に言われるとは心外ねぇ」 んふふふふふと楽しそうに笑うと、または棚に並ぶ瓶を選び始めた。高価そうなワインの棚の前で一度立ち止まったが、「でも、開けたら一晩で飲み切らなくちゃならないのよねぇ」と呟いて、あっさりと目を転じた。彼女は、暫く無言で棚の間を縫っていたが、モルトウィスキーの瓶の並ぶ辺りに来た時、ふと、口を開いた。 「大体、お酒を飲まないと悪い事も出来ないなんて、不甲斐ないわよね」 やはり無言で彼女に付き従っていた八戒は、灯りを掲げて、彼女の後ろから棚を覗き込んだ。 「悟浄は、僕はどれだけ飲んでも普段の『悪さ』と全然変わんない、とか言うんですよ」 「あ。本当にそうねぇ」 「心外だなぁ」 「あら、どこもちっとも悪くない男なんかに、私は惚れないわよ」 は八戒に笑いかけ、そして、紹興酒の壷を覗き込みながら、朗々と講じ始めた。 「――大智度論に曰く。二人の男が酒を飲んで、隣家の鶏を盗み、殺して食べてしまった。更に罪を隠そうと、鶏を探しに来た隣家の妻に嘘を吐き、挙句、それを犯してしまった。つまり飲酒によって五戒全てを一度に破ったのである――」 酒壷の底に真顔で言っても……と思っている間に、彼女は顔を上げた。 「と、言う訳で、飲酒の破戒が一番悪いって言う話があるの」 「お酒が全ての罪のもと、って訳ですか」 八戒も結局真顔で返す。は答えずに、また酒精ただよう空気の中を歩き出し、彼もまた黙って彼女の後ろを歩き続けた。暫くの間、石壁に反響する2人の足音だけが、断続的に響いていた。 高い位置に掲げるのに疲れたのか、八戒は持った灯りを自分の腹の辺りまで下げた。下から照らされて、彼の顔に、濃く隈が出来る。 は振り返らず、只管、並んだ瓶を選んでいる。その背中を見ながら、彼はぼそりと言った。 「妖怪を千人殺した時、僕は素面でしたよ」 はちらと振り返った。 「そうでしょうね」 あっさりと言い放つと、彼女は手に持ったビンを八戒に見せ、「これに決めたわ」と言ってにっこり笑った。彼女の手にあったのは、ウォッカ――元の名は、かの国の言葉で『命の水』。 「アルコールに溺れるような弱い人間は、本当に大きくて重い罪なんて犯せないわ」 そして、腕に抱いた瓶に向かって「とんだとばっちりよねぇ」と語りかけ、けらけらと笑った。八戒の肩から、かくんと力が抜ける。 「以前にも言いましたけど、やっぱりかないませんねぇ、貴女には」 「でしょ?。さ、貴方の部屋で飲みましょ飲みましょ」 上機嫌のは、八戒の持つ灯りを取ると、逆に持っていたウォッカを彼に押し付けた。瓶のラベルを見た瞬間、八戒の顔に些か呆れ気味の微笑が浮かんだ。 「そしたら僕達、更に『不邪淫戒』に障るんじゃないですか?」 「気にするもんじゃないわ」 は、八戒の手を引いてさっさと歩き出した。 「私達はもう既に、罪びとなんだから」 再び高く掲げられた灯火を見上げて八戒は目を細めた。 そして、自分の腕に納まった瓶を見て、八戒はもう一度にっこりと笑って言った。 「ところで。流石にスピリタスはよしませんか?」 「え〜、好きなんだけどなぁ」 「こんなもの、不用意にバイクで持ち歩いたら引火しますよ」 「貴方が居れば一晩で飲めるんじゃないの?」 「嫌だなぁ。僕を殺す気ですか♪」 一度、扉を出かけた灯火は、再び楽しそうに酒蔵の中に戻って行った。 |