空に、闇。
地に、花。
今を盛りに咲く桜の下に在るは、夢か現か幻か。






Say it with flowers.





が、その男――捲簾に出会ったのは、真夜中過ぎのことだった。

「こんな時間にこんなトコに居るんだから、てっきり春の花精かと思ったが――」

やむなく野宿となった山中での夜。
ふと、気が付けば。桜の大樹の下に座り込み、浅い眠りに就いていたを見下ろすように、この男が目の前に立っていた。
闇なお昏き闇の中、捲簾が何処からどうやってこの場所に辿り着いたのか、には全く判らない。
ただ。馴染みのない気配を感じたから、その正体を確かめるより先に剣を突き付けた。
それだけであったのだが。

「桜の根元に咲く野生の花、ってとこか。刺がおっかねーや」
「……花に喩えられて悪い気はしないけど、口説き文句にしてはちょっと捻りが足りないわね」

にべもなく一蹴したの言い様に、捲簾は両手を挙げながら、手厳しいねぇ、と軽く笑った。
頭上で咲き誇る桜の花びらが、その黒髪の上に、身を包む黒い軍服の上に、はらりはらりと舞い降りる。
辺りには、物音一つない静寂な闇。刃を挟んで向かい合うと捲簾の他には、何の気配も感じられない。
少し先では、同行する男たち四人がジープで雑魚寝している筈なのに。

「んでもな、花を愛でながら飲む酒ってのは、また格別に美味いのよ。
 だから、こーやって出て来たんだけど」
「…………」

捲簾は両手を頭上に挙げたまま、目線だけで己が腰を見るようを促した。
見ると。剣帯代わりの皮のベルトにぶら下がっているのは、刀剣ではなく酒瓶が一つあるのみ。
「春の夜のお散歩に、ンな無粋なモンは要らねーだろ?」悪戯っぽく笑った捲簾に、も渋々ながら剣を収める。
ふっと吐き出したため息が、唇から滑り落ちた。

「ま、花の刺は己が身を護るためのモンだかんな。しゃーねぇっつーたら、しゃーねぇか」
「……だから、花に喩えるのは止めて頂戴。私、そういう柄じゃないのよ」

ぷいっとそっぽを向いたの目の前で、捲簾が煙草を出して火を点けた。
はらはら散る花びらに逆らうように、燻る紫煙が天に昇る。
花々の向こうに見え隠れする、暗い空を目指して。

花明かりの下の静寂に、紫煙を吐き出す捲簾の息遣いが、にじむ。
降り止まぬ桜吹雪に紛れるように、ひそやかに。

暫しの間を置いて、

「大体、春の花精なら、もっと優雅に、綺麗に舞い踊っているもんでしょうに。
 こんな泥だらけな花精なんて、何処に居るっていうのよ」
「あン?」

ぽつり、と漏らしたの一言に、捲簾が一瞬目を丸くした。
が、数瞬の間の後に、にやり、と唇の端を軽く吊り上げて、

「地上の花は、命ある限りに咲くのが信条だ。
 見目麗しく永く華やぐのも、色鮮やかに咲き急ぐのも、俺はどっちも好みだぜ」
「そう。でも生憎、私に舞の心得はないから。目の保養にはならないわよ」

出来るとしたら、せいぜい剣舞くらいかしらね。
は素っ気無く言い放ったが、それでも捲簾は引き下がらない。
頭上の花々ととを交互に見やりながら、笑って言う。

「んじゃ、そん時には俺が、横で歌ってやるわ。
 力 山を抜き 気 世を蓋(おお)う、時 利あらず 騅(すい)逝かず。
 騅の逝かざる 奈何(いかん)すべき、虞や 虞や 若(なんじ)を奈何せん――てな」
「……曲がりなりにも軍人の癖に、敗戦の将の歌を口にしてどうするのよ」

呆れ調子で返すに、捲簾は、よくネタ知ってたねぇ、とまた笑った。
そして。数歩前に進み出ると、の顔の真横に手をついて、

「俺としちゃ、戦に負けたおっさんっつーよりは、最後まで女を愛し抜いた男、って解釈して欲しいんだけど」
「どうして」
「気に入ったから。あんたが」

至近距離で即答した捲簾は、やはり口元に笑みを浮かべていた。
が、しかし。間近から見る双眸に宿るは、至極真摯な強い光。

「儚き命の花だからこそ、いつでも手元に置いておきたくなんのよ。
 宮殿でも戦場でも何処ででも、思う存分に愛でてられるように、ってな」

無骨な指が、の頬にそっと触れた。
そのまま滑り落ちるかのように、指がの髪を絡め取る。ぴくり、と反応するに、捲簾は笑みを深くした。
「連れてってやるよ。俺の行くトコ何処へでも」浮かべた笑みの軽さを裏切るように、囁く声はひたすら甘い。
いやに熱を帯びた眼差しが、至近距離で交差した。

ぬばたまの闇に、桜の大樹が揺れ動く。
吹き抜ける夜風に散らされて、無数の花が、彩りが、嵐の如く虚空に舞った。
微動だにせず見詰め合う二人の、それぞれの瞳の内にも、花々が孕む仄かな光が映る。

過ぎ去る時さえ封じるように、後から後から花は舞い降りてきて、闇を桜色に染め上げた。
ひたすらに散る花の彩りが、捲簾の上にも、の上にも降り注ぎ、やがて静かに地に落ちる。
もし少しでも動こうものなら、全てが消えてしまいそうだと。そんな錯覚さえ与えながら。

儚く舞い散る花々が、囚人を見張る看守のように、捲簾を、を静寂の内に閉じ込める。

「――でも、ね」

暫しの沈黙の後に、が再び口を開いた。
髪に絡んだ指をそっと解き、唇に薄い笑みを刷いてみれば、捲簾が訝しげな顔をしながら手を引いた。
そんな彼を、真正面から見つめ返しながら、が更に言葉を続ける。

「野に咲く花を手折って持ち帰っても、そのうち色褪せて枯れるのが関の山よ。
 そうは思わない?」
「違いねぇ」

が返した言葉に、捲簾も肩を竦めて苦笑いする。
それでも欲しくなっちまうのは、男の悲しい性ってやつかね。から数歩身を引きながら、彼は小さくそう呟いた。
くるりと向けた背中には、ほんの少しの見栄と矜持。降り注ぐのは桜の花びら。

「んじゃ、敗戦の将は潔く撤退すっかな」

じゃあな、と片手を挙げて立ち去る後ろ姿に、翻す黒い軍服に、また急に勢いを増した桜吹雪が覆い被さり――
やがて、その気配は完全に消えてしまっていた。






程なくして、同じ方角に、また背の高い人影が現われる。
今度は、誰だかすぐに判った。暗がりに咥え煙草の赤い火を灯し、ポケットに手を突っ込んで歩く仕草。
花明かりの下でも色鮮やかな、紅い髪と紅い瞳。

「――悟浄? どうしたのよ、こんな時間に?」
「んー、何っつーかさぁ」

悟浄がぼりぼりと頭をかきながら、天を見上げる。
それに応えるかのように、花びらが数枚、彼の上に舞い降りた。

「なーんか寝付けねぇんで散歩してたら、この桜が目に入って、な」
「………………」
「たまには夜桜見物ってのも悪くねぇじゃん。だから、こーやって来てみたんだけどよ」

花開く春とはいえ、晩はやはり少々冷え込む。ましてやこんな山奥ともなれば、手や足の先がかじかむ程だ。
そんな冷たい空気の中、今を盛りに咲く花々は、こうして見るとまるで静かに燃える白い炎のようにも見える。
漆黒の闇に浮かび上がるように、風に吹かれてゆらりゆらりと揺れる様は、言うなれば幽玄の世界へと誘う灯火のようでもあり、悟浄もも、微かに身震いさえしていた。

「しっかしまぁ……この咲きっぷり。ぞっとしないねぇ」

吸い終えた煙草を踏み消しながら、悟浄がぼそり、と呟いた。
は答えない。木の幹に背をもたせかけ、腕組みしながら彼方の闇を見つめるのみである。
その横顔を訝しげに眺めながら、悟浄はまた煙草に火を点け、盛大に煙を吐き出した。

「ま、でも、桜に誘われて来てみたお陰で、ちゃんとこうして二人きりになれたんだし。
 桜にケチつける訳にはいかねーな」
「……あのね。分かってるとは思うけど、変な真似したらタダじゃ済まないわよ」
「へぇへぇ。わーってますって」

じろり、と睨み付けるの手には、既に短刀が握られている。そんな過剰反応を示す彼女に、悟浄はため息混じりに肩を竦めた。
おどけ半分にふかしたハイライトの煙が、花々の色を、その向こうに見える黒暗の空を一瞬霞ませる。

「……全く、何でこう続け様に……」
「あン?」

ぼそり、と漏れたの呟きに、悟浄が首を傾げる。
「んじゃ何? 他にも、誰か起きて来たのか?」悟浄の問いに、は笑い混じりに、違う、と首を横に振った。

「花が好きな軍人さんだったわよ。どうやってここまで来たのかは、私も知らないけどね。
 散歩の途中で桜に誘われた――って、貴方と全く同じ事言ってたわ」
「はぁ? 今、夜中だぜ? ンな時間にンな森ん中で、軍人が一体何やってたんだよ。
 訳分かんねぇ奴だな」
「でも悟浄、深夜徘徊は貴方も同じでしょ。人の事言えた義理じゃないわよ」

くすり、と小さく笑ったの台詞に、悟浄も「違いねぇ」と苦笑いして同意した。
その間も、振る花びらは止まらない。悟浄の吐き出す紫煙に絡むように、次から次へと落ちてくる。
が、ふと何気なしに掌を広げて差し伸べてみれば、まるで自ら飛び込んで来るかのように、花が一枚降りてきた。
遠目には白く見える花の色も、こうして間近で眺めてみれば、薄い紅色を帯びているというのがよく判る。
ふっと息を吹きかければ、花は呆気なく掌を離れ、ひらひらと虚空を舞った。

儚く潔く美しい色が、ゆっくりと地に落ちてゆく。

その様を目で追いながら、そのまま黙り込むに、悟浄が静かに歩み寄る。
そして。浮かべた笑みはそのままで、吸いかけの咥え煙草を途中で消して、

「んじゃ、さぁ。そいつも……こーやって、ちゃん口説きに来た?」
「? 何でそう思うのよ」
「俺が、そーしたくなったから。今」

が目を丸くしたのにも構わずに、悟浄が覗き込むように顔を近付けた。
華奢な身体の脇に手を付き、少し背を屈めれば、ちょうどの上に覆い被さる形になる。短刀を握っていた手は、木に縫い止めるように掴み抑えて封じ込めた。
「まさか、軍人さんと張り合うつもりじゃないわよね?」が眉を寄せつつそう尋ねたが、悟浄はもう答えない。
口元の笑みはそのままに、真摯な紅い眼差しがを射抜く。

「マジな話。……イイ?」

刹那。散る花びらが、不意に降り止んだ。
風が吹き止んだのだろうか。揺れていた枝々が、花が、一斉にその動きを止め、辺りに再び静寂が満ちみちる。
物音一つ聞こえぬ静寂の中、周囲を取り囲んでいた花灯りも途切れ、互いの表情が闇に翳る。
まるで、何もかもを闇に呑み込ませてしまうかのように。

時は確かに動いている筈なのに、停まったと錯覚するのは何故か。
その理由も掴めないままに、どちらからともなく顔と顔が近付いていく。
遠慮がちに吐き出した吐息が、妙な熱っぽさを帯びながら、至近距離で交じり合う。互いに、言葉は無い。

「――でも、ね」

寄せられる唇が唇に触れる寸前、が悟浄の口元にそっと指を置いた。
そのまま軽く押し返せば、悟浄は案外あっさりと引き下がる。指に込められた力加減よりも、その意図を察してのことらしい。
「やっぱ、駄目なワケ?」尋ねる声は苦笑い混じり。冗談とも本気ともつかない、いつもの口調そのままである。
そんな彼に、もやはり笑いながら、

「何となく、気が落ち着かないのよね。どっかから銃弾とか気孔波とか如意棒とか飛んで来そうな気がして。
 貴方一人がどうにかなる分は、別にどうだって良いんだけど」
「うっわ、冷てーの」
「だって当然じゃない。私まで巻き込まれるのは御免だもの」

何とも薄情な言い草に、悟浄が露骨に嫌そうな顔をした。
その表情を横目で見ながら、はふと笑みを消して、

「それに、ね。悟浄、貴方、遊び人のくせして情が深過ぎるのよ。いろんな意味で。
 危なっかしくてしょうがないったら」
「…………」
「うっかり深入りして泣いたり泣かせたりするだけで済むなら、まだ良いんだけどね。
 それ以上の事になったら、やっぱりまずいじゃない? だから悪いけど、遠慮しておくわ」

ふっと浮かべた薄い笑みは、先程までとは些か色が違う。
その真意を知ってか知らずか、悟浄は再びにやり、と唇の端を軽く吊り上げて、

「女が恋焦がれて心乱れて、ってのも、可愛いって思うけど。ダメな訳?」
「……まぁ確かに、そちら側にしてみれば、男冥利に尽きるって事でしょうけどね」

はぐらかすようなの微笑みに、悟浄が更に首を傾げた。
ちゃんらしい台詞だねぇ」言いながら、悟浄がふっと紫煙を吐き出せば、まるで間合いを計ったかのように、再び花が舞い散り始めた。
そして。足元をすっと通り抜ける風に攫われて、落ちていた花びらが地を滑る。
音もなく、ひそやかに。虚空に踊り出すかのように。

闇の中、再び命得たように風に舞う無数の花は、殊のほか美しく幻想的で――今、自分がここに在る事が、現実なのか夢なのか。その認識さえ曖昧にさせる。
尤も、今この時が夢であっても。一体誰が見ている夢なのか、いまいち不明ではあるが。

ふと目の前に視線を戻してみれば、一際鮮やかな紅が目に入る。
闇と花とに包まれながらも、まさに今此処に在りと無言で主張するが如く。燻らせるハイライトの薄い煙が、こちら側まで流れてきた。
の元に辿り着くまでに、煙そのものは消えてしまうのだが、漂う匂いはしっかり嗅ぎ取れる。
そう云えば、先程出会ったあの男の煙草は、ここまで匂っていただろうか。はふと、そんな事を考えた。

無言で佇む二人を見下ろすように、花はただただ咲いている。
暗い暗い空に枝を伸ばし、美しい色を惜しげもなく散らせながら。

そうして暫し沈黙した後に、が小さくため息をついた。
凭れていた木の幹から身を離し、組んでいた腕をそっと解いて、

「――ねぇ、ついでだから、言ってもいい?」
「あン?」

の声に、悟浄が訝しげな顔をしながら振り向いた。
「どうせなら、もちっと艶っぽい台詞が聞きたいねぇ」茶化す言葉を聞き流しながら、くるりと身体の向きを変えれば、ちょうど暗闇と桜吹雪を背に負う格好になる。
桜の幹にぱん、と手をつき、空いた方の手で髪を振り払い、は至極にこやかな笑みを浮かべた。
今、目の前に居るこの男と、闇の向こうに消えた男。図らずも口説き合戦を展開した二人に向かい、改めて裁定を下すように。

「本気で口説いてくれた事には、私もそう悪い気はしてないのよ。
 一緒に行くのも落ちるのも、一夜の夢に浸るのも、それなりに良いとも思うしね」
「………………」
「でもやっぱり、私は誰のモノにもならないつもりなの。だから遊びでも、誰にも応える気は無い。
 そういう事だから、恨みっこなしよ?」

優しく無慈悲な審判者の講評に、「敵わねぇな」という愚痴が二重に響いた。









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