おでん。さっき、うちに一本の電話があった。 「今から行くから。悪いけど、夕飯、ちょっとだけ待っててくれる?」 数分後、本当にがやって来た。 ――サンダル履きで、手にでかい鍋を持って。 「すみませんねぇ。わざわざ持って来て頂いて。でも、こんなに頂いていいんですか?」 「いいわよ気にしなくったって。うちも、たまにおすそ分けして貰ってるんだし」 キッチンとダイニングテーブルを挟んで、八戒とのほのぼのとした会話が続いている。 すぐ帰る、と言ったに「せっかくだから、茶でも」と引き止めたのは俺。実際に茶を淹れたのは八戒。 これが夕食前でなかったら、俺は多分、茶菓子でも買いに行かされただろう。 野郎二人のむさい我が家は、女人禁制が大原則。外で誰と会おうが全く自由だが、自宅への連れ込みは一切禁止。 それが、八戒(こいつ)と一緒に住み始めた時に、そう取り決めて(決めさせられて)以来、ずっと厳守されてきたルールだが――唯一の例外が、こいつ、だ。 は俺の向かい側で悠然と茶を飲みながら、台所に立つ八戒の背中を眺めている。いや、火にかけたさっきの鍋を見ているのか。 中身は、おでん。昨日、作り過ぎたそうだ。 「余るのは分かってたんだけどね」何となく食べたくて、つい具材も色々入れてしまったそうだが、案の定一人で食い切れず、こっちに押し付けに来やがった。 まぁ確かに、三日も四日も同じじゃ嫌だろうがな。だが、我侭も大抵にしろ。 「でも、僕たちが頂いて本当に良かったんですか? 三蔵の所に持って行っても――」 「それも考えたんだけどね。でも、それだけじゃ全然足りないと思うのよね。 悟空に食べさせるなら、最初からそのつもりで作らないと」 「……まー、お猿ちゃん満腹にさせんのは、なかなか気合要るわな」 これは以前聞いた話だが――悟空に手料理をたらふく食べさせる時は、その保護者にも、三蔵にもある程度手助けして貰っているらしい。 当然、あの高慢ちきが台所に立つはずがないから、金銭的な意味で、だ。腹を立てずに財布を出す、三蔵の心中はどんなもんか。俺にはよく分からない。 そんな間に、テーブルでは夕食の支度が整った。二人分の茶碗には白い飯。付け合せの小皿と手塩も二人分、行儀良く並べられている。の分が無いのは、「家に夕食の支度がしてある」からだそうだ。 そして。八戒がいよいよ、メインディッシュを運んでくる。用意した卓上コンロの上に、うやうやしく鍋が置かれた。 「ほら悟浄、美味しそうですよ。有り難く頂きましょう」 にこやかな奴の台詞に、も横で満足げに頷いた。 言葉自体はひどく素っ気無いが、それが八戒の最高の賞賛である事は、にもちゃんと判っているらしい。この辺はまさに、長い付き合いがあるからのことだ。 チューブ入りの練り辛子を少しだけ手塩に取り、いよいよ鍋の蓋を取る。が。 「おいこら待て。何で、ンなもんが入ってんだよ」 「あら、美味しいわよ。食べたことない?」 「ある訳ねぇだろ」 「まぁ、確かに……僕もちょっと、これはどうかって思ったんですけどね。実は」 ぐつぐつ煮えてる鍋の中、大根、こんにゃく、玉子、厚揚げ、スジ肉といった定番品に混じって、串に差したタコの足が数本、異様な存在感を放っている。 マジかよこれ。俺がそう呟くと、は「私はいつも入れるわよ」と言い放った。眉間に、少しだけシワを寄せながら。 「あのね二人とも。人を、そんな変な目で見ないでくれる? そりゃ、具としてはちょっとマイナーだけど。 でも、おでんのタコがゲテモノだったら、三蔵のマヨネーズ入り塩ラーメンはどうなるのよ。あの方が、よっぽど変じゃないの」 「あ、あれは……まぁ、三蔵ですから……」 「延びきった麺にマヨかけて食べるなんてね、あれはゲテ食いなんてもんじゃないわ。食材への冒涜よ冒涜。それに農家の人や料理する人にも、失礼極まりない食べ方よ。美味しいものは美味しく食べるのが一番なのに、わざわざ台無しにするなんて。 おまけにこないだなんか、ちょっと顔をしかめただけなのに、私のにまでマヨ入れようとしたのよ。悟空が庇ってくれたから助かったけど。本当にもう、あのワガママ男。今度、絶対に仕返ししてやるんだからっっ」 「……おい、話が全然逸れてんぞ」 あさっての方向を向き、握り拳で力説するに、俺は思わずそう突っ込んだ。 気を悪くしたらしく、がきっとこちらを睨みつけてくる。その横では八戒が、他人事のようににこにこ笑いながら、既に何品かを手塩に取って食べ始めていた。 「食わず嫌いはいけませんよ、悟浄」口ではそう言っているが、タコにはまだ手を付けていない。 俺は思わず、美味そうにはんぺんを食う奴に恨みの目を向け――止めた。睨んで堪えるような奴じゃないのは、俺が一番良く知っているからだ。 暫くの間、俺と八戒との間に、気まずい沈黙が生まれる。 かちゃかちゃと皿や茶碗が立てる微かな音、鍋のぐつぐつ煮える音が、耳に痛い。 「――じゃ、私、そろそろ帰るわ」 唐突に、がそう言って立ち上がった。 ずっと手に持っていた湯飲みは、もう空になっている。「もう少しゆっくりしていても」引き止める八戒に、は、家に夕飯の支度してあるから、とだけ答えた。 俺も八戒も一旦箸を置き、を玄関先まで送り出す。“家まで送る”と誰も言わないのは、それが互いの暗黙の了解であり、またその必要も無いからだ。実際、送り狼になろうとして返り討ちに遭った奴が、俺の知り合いの中にも何人か居る。 付かず離れず気兼ねなく。それが俺や八戒、、三蔵や悟空の関わり方。 勿論、多少の例外もあるにはあるが、必要以上には求めないし手も出さない。自分のスタイルを保ちながら、都合の良い時だけつるみ合う。互いに何考えてるか分かったもんじゃないが、妙に居心地良いとさえ思える。 だからこの関係が長続きしてるのか――と、俺はふと、らしくもなく少し考えた。 「じゃ、鍋返すのは明日でも良いから。二人とも、残すんじゃないわよ?」 「はいはい。じゃ、お気を付けて」 「おう、またな」 が「じゃあね♪」なんてふざけながら、慌しく玄関から出て行く。 ドアが閉まる音と同時に、俺と八戒の間にまた、奇妙な静けさが訪れた。 「……残り、頂いてしまいましょうか」 「……そだな」 居心地の悪い沈黙は、何分続いていただろうか。 俺もこいつも、何事もなかったような顔をしてダイニングに戻り、再び飯を食い始める。 「メシ、お代わり」「はい」必要最低限の会話だけで、俺らは黙々と――これが、普段通りの我が家の食事風景だが――、夕飯を食っていた。 「――で、タコ、食べないんですか?」 「あン?」 不意に、八戒が俺の手塩の上に、タコの串を一本乗っけた。 「一旦は手元に取ったんですから、鍋に戻しては駄目ですよ?」顔をしかめる俺に、奴がにこやかにそうクギを刺す。 入れたのはお前だろうが。何でてめェは食わねぇんだ。突っ込みたいのをギリギリの所で抑えて、俺は思い切って、タコの串を口に運んだ。 次の瞬間。 俺は明日、に鍋を返しに行く時に、どう謝ればいいもんかと。力いっぱい、悩む羽目になった。 |