Distortional― 1 ― 「悟空が帰って来ない、ですって?」 後宮と外朝をつなぐ朱塗りの門の前で、は頓狂な声を上げた。 柔らかな光降り注ぐ昼下がり、向かい合って立つは金蝉童子。その美しい容貌がにこりともしないのは常のことであるが、今日は、その表情が一段と険しい。 組んだ腕や、眉間に深く刻んだ縦じわが、彼の苛立ちや焦りを、はっきりと表していた。 「案の定、お前のところにも来てねぇ、となると……手掛かりはゼロ、か」 「ちょっと。訪ねて来たのはここが最後なの? 失礼ね」 「他に猿が行きそうな所は、いくらでもあるからな」 機嫌を損ねたが拗ねて見せるが、金蝉はまるで取り合わない。 それきり黙ってしまった二人の間を、嫌味な程に穏やかな風が吹き抜けた。 金蝉の話によると――悟空が最後に目撃されたのは、昨日の夕方頃だったという。 例え保護者と云えど(本人は「飼い主だ」と未だに言い張っているが)、常に職務で忙しい彼のことだ。悟空の相手ばかりもしていられない。故に悟空も、一人で外に出る機会が多くなる。 それでも、どんなに遠くまで遊びに行っていても、お腹が空く頃には必ず戻るそうなのだが、昨日に限っては、一向に帰って来なかったらしい。 単に遊び過ぎて遅くなっただけなら、叱らねばなるまい。そう考え、金蝉はかなり遅い時間まで起きて待っていたそうだが――微妙に目が赤いから、本当は徹夜したのではないだろうか――、結局、朝になっても戻って来なかったということだ。 夜が明けてからは、自身の仕事すら投げ出して、あちこち探し回ったらしい。天蓬元帥の所、捲簾大将の元、城から離れた野原や森や湖のそば、果ては軍の施設内や天帝城の中まで、自分だけではなく何人もの家臣を使って探したのだが――途中からは彼自身の配下だけでなく、天蓬や捲簾の部下も大勢加わったらしい――、どこにも居なかったそうである。 そして今頃になって、彼は、の元を訪れたのだ。 何と云っても後宮は広い。悟空は時々、に会う時以外でも、中でこっそり遊んでいたりするようなのだ。美しい物や珍しい物もたくさんあるし、花咲く庭園や泉や林もあるこの敷地内は、子供の冒険にはうってつけなのである。勿論、見つかったらただでは済まないけれど、そこはそれ、秘密の抜け穴――子供なら難なく通れるが、不埒な男どもはまず通れない大きさの穴なので、植木や茂みなどで隠され放置されている――などを利用して、こっそり忍び入るのが常だ。 (しかもその抜け穴は、金蝉やも幼い頃に利用していたのだから、おかしな偶然である) 金蝉にとって、の力を借りるのは不本意極まりないのだが、何人たりとも無闇には立ち入れぬこの領域は、調べたくとも、他に取れる手段が無い。広い人脈を持つ捲簾や天蓬にも、使えそうなコネが全然無かった。 それで金蝉は、渋々ながら、こうしてを頼ることにしたのだが。 「でもどうして、さっきは『案の定』なんて言ったのよ? ここに来たのも今頃だし。 まるで、はなから私のところに居ないって分かってたみたいじゃないのよ」 気まずい沈黙の後に、は、素朴な疑問を口にした。 すると金蝉は、相変わらずそっぽを向いたままで、 「てめぇがまさか、あいつに無断外泊させるとは思えんからな。 泊めるにしても一言、俺に断りは入れるだろう。違うか?」 と、即座に答えた。当たり前のことを訊くな、と言いたげな顔をして。 その返答に、は小さく肩を竦める。 「当然でしょ。こんなに子煩悩な保護者さんに、無駄に心配させるつもりはないもの。 それに、可愛い子を実力行使で奪い取る程、私も外道ではなくてよ」 「……保護者じゃねぇ、飼い主だって言ってんだろうが。 それより、あいつの行きそうな場所に、少しくらい心当たりは無ぇのか」 の軽口に、金蝉の眉間の皺が一層深くなった。長い前髪の隙間から、こめかみに青筋が立っているのもうっすら見える。 そんな彼に、は「残念ながら思いつかないわ」と言いながら、後方に控えていた侍女たちをそばに呼びつけた。 何をする気だと訝る金蝉の目の前で、部下たちに悟空の捜索を命じる。次々と臣下に指示を下すその様は、いつもの享楽的で悪ふざけも多いその横顔からは想像出来ぬ程、てきぱきとしていて要領も良い。その場に佇むばかりの金蝉よりもずっと、人を使うことに慣れている。 そして、命を受ける侍女らにも、余計な口を挟む者は一人もいない。彼女らは、二人に改めて跪拝してから、命を受けた順に速やかに任に就く。いかにも天帝直系の公主らしいと思うと同時に、いちいちうろたえる自分の家臣たちとは大違いだと、金蝉は密かに舌を打った。 が、残る二人の侍女に留守番役を命じたところで、金蝉が「随分範囲が広いな」と、渋い顔をしながら口を挟んだ。 それもそのはず、その捜索範囲は後宮内に留まらず、宮殿近辺の各施設や附属の各庭園、天帝城の本宮内にまで及んでいたのだ。中には、誰でも出入りできるような場所もある。金蝉の方は、後宮内だけで良い、と考えていたのに。 無駄に事を大きくするんじゃねぇ。そうこぼした彼に、は諌めるように言葉を返す。 「そう言ったってね、子供の行動範囲は案外広いのよ。何処かに迷い込んでるってことも有り得るし、城の中には、慣れてる者にしか分からないような場所も結構あるの。あの抜け穴みたいにね。 それに、お父様のお傍近くは、貴方たちでは大っぴらには歩けもしないでしょう?」 「………………」 「まさかとは思うんだけど、もしかしてって事も無いとは云えないし……」 語尾を濁したの言葉に、金蝉も更に表情を険しくした。 悟空と当代の闘神太子が仲良い事は、二人ともよく知っている。その闘神の父・李塔天が、近頃不審な動きをしているという噂も。 優雅な微笑みの下で、どろどろと醜い勢力争いや権謀術数が常に渦巻く宮廷の中でも、あの男のぎらついた野心家っぷりは一際よく目立つ。腕利きの絵師が、どれだけ丹精に「成り上がり者」の図を描いても、あれ程分かりやすい姿は制作出来まい。金蝉もも、少なくとも今のところ直接的な縁はないが、出来ればこのまま永遠に無関係でいたいと思っている。 悟空は、下天の大地の精気が凝って生まれ落ちた「異端の子供」。不吉の証とも言い伝えられる金晴眼を持ち、多くの天界人に忌み嫌われながらも、観世音菩薩やこの金蝉童子の庇護の下、この世界に住み続けている。 そんな子供を、あの野心家がどう捉えているかは定かではない。が、考え方によっては、彼の息子の戴く闘神太子の地位や存在意義を、彼が手に入れた権力や名誉を、根底から揺るがしかねないのである。その危険性に気付いたのは、つい最近のことなのだが。 金蝉は、つい先日も天蓬から、よくよく注意するようにと忠告されたばかり。はで「我欲が見え見えで品がない」と、はなから嫌っていたりする。父帝の傍に何故あの男が居るのかと、不快感を覚えている程だ。 が、しかし。せっかく出来た親友を、悟空から奪いたくはない。そう考えるのもまた本心。故に、二人にとってはかなり頭が痛い問題である。 苛立たしげに髪をかきむしる金蝉の隣で、がはあっと大きなため息をつく。空気が、にわかに重くなった。 「ったく、あの馬鹿猿が。面倒かけさせやがって」 「文句言ってる場合じゃないでしょ、金蝉。何かあったらすぐに知らせるわ。だから、貴方も」 「偉そうに指図するんじゃねぇよ」 如何にも不満げに吐き捨てて、金蝉がくるりと踵を返した。 その反応に、も一瞬、むっと顔をしかめる。が、敢えて何も言わず、一旦自身の住まいへ戻るべく、侍女二人を従えて、門の内へと足を向けた。朱塗りの大きな門を挟んで、二人が左右対称で遠ざかって行く。 かつんかつんと響く早足な靴音と、しゃらしゃらとしきりに鳴る花簪の音が、その主の焦りや不安を代弁していた。 悟空が、西の果てで目撃されたという情報が、彼らの元に寄せられたのは。 それから、およそ一時間後のことである。 |