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次に目を開けた時――三人は、明るい広間に立っていた。 無色透明の水晶だけで出来た大広間は、右手に北斗七星を刻んだ扉が構えられ、左手には、奥へと続く回廊が、長く長く伸びている。 「もしかして、ここ……」 「元の場所に戻って来たってことか」 の投げかけた問いに、金蝉が、苦虫を噛み潰したような顔をして答えた。その足元では、悟空が、不思議そうに辺りをきょろきょろと見回している。 やや遅れて、背後に新たな気配が現れた。振り返るとそこには、天蓬と捲簾が立っている。満面の笑みを浮かべて、悟空がぱたぱたと駆け寄って抱きついた。 彼らは「無事で良かったですよ」「心配したんだぜ」と、交互に悟空の頭を撫でた後で、奥の回廊へと目をやった。 「首尾よく宝物を見つけたら、自動で出口までご案内ですか。良く出来たゲームですね」 「作った奴のツラが見てみてえな」 悟空が「宝物って何?」と訊くと、天蓬は澄ました顔で微笑みながら、こちらの話ですよ、とはぐらかした。 そして、視線だけを金蝉に向けて、 「でも、手がかりも殆ど無かったのに、ちゃんと見つけられるなんて、流石ですね」 と言った。横では、捲簾が咥え煙草をくゆらせながら、にやにやと如何にも意味ありげに笑っている。 も、うんうんと頷きながら、同じく金蝉に目を向ける。すると彼は、憮然とした顔で「馬鹿言うんじゃねぇ」と突っぱねて、一人、出口に向かって歩き出した。 分厚い扉を押し開くと、夕暮れ時の赤い陽がさあっと差し込んでくる。水晶の放つ淡い光に慣れた目には、少し痛い。 「出来ることなら、もう一度こうして中に入って、じっくりと調べてみたいですね。 今回のようなことはごめんですけど、調査対象としては、大変興味をそそられますよ、ここは」 「冗談じゃねぇ。二度と来るか、こんな所」 今一度、外から見上げる水晶の塔は、西に傾いた陽射しに赤く染まりつつ、静かに佇んでいる。 暮れゆく空を背景に、きらきらと輝く五重の塔は、中で遭遇した出来事が嘘のように、とても美しかった。 そして、数日後。 「悟空、元気にしてる?」 「あ、っ!」 久々にが金蝉の執務室を訪ねると、相変わらず机で書類の山と格闘する部屋の主と、その足元でお絵描き遊びをする悟空の姿があった。 ここに立ち寄る度に目にする、ごくごくありふれた光景。だが、何となくほっとする。彼らと会わなかったのはほんの数日だけなのに、ひどく懐かしく思われた。 因みに観世音菩薩の話によると、あの塔に行く前に金蝉が口にしていた「三日間食事抜きの罰」は、結局は実行されなかったらしい。その代わり彼は、当分は一人で勝手に外に出るなと、悟空に厳しく言い含めたのだそうだ。その様子を語る観世音菩薩は、「厳しいのか甘めぇのか、全然分かんねえだろ」と、至極愉快そうにけらけらと笑っていた。 はその話も思い出しつつ、やっぱり立派なお父さんね、と冷やかしにかかる。金蝉が、山積した書類の間で、悔しそうに舌打ちした。 だが、が優勢だったのも、ほんのわずかだけだった。金蝉が、ふっと何かを思い出したように手を止めて、ぎろりとこちらを睨み上げた。 「お前こそ、謹慎中じゃなかったのか。何でここに来てやがる」 「……嫌なこと知ってるわね。誰に聞いたのよ」 その言葉に、が顔を引きつらせた。 金蝉は、ふん、と軽く鼻を鳴らし、また手元の書類に目を落とす。その横で、悟空が不思議そうに首をかしげていた。 そう。本来ならば、天帝直轄の禁域に無断侵入したかどで、あの場に居た皆に厳罰が下される筈だった。 塔を出るなり、十数人の衛兵が取り囲み、五人全員の捕縛を試みた。が、は、手に手に槍を持ち威嚇する兵士たちに向かい、「興味があったから、彼らに護衛を命じて入ってみたの」と、平然と言い放ったのである。 天帝直系の、しかもわがまま気まぐれと悪評高い公主に、たかが宮仕えの兵ごときが口答えできるはずがない。よく堂々としていられるものだと、金蝉たちが呆れた程だった。 勿論、怪しむ者も居ただろうが、取り敢えずその場では何事もなく、全員が無事に帰路に着けたのである。 その後――天帝より直々に、此度に限り、罪は問わぬとの裁定が下された。 この結末に、あの李塔天は最後まで不服を申し立て、弾劾を続けていたらしい。しかし天帝に「もう良かろう」と取り成され、渋々引き下がったという。今頃は恐らく、邪魔者を廃する好機を逸したと、相当悔しがっているに違いない。 但し。本人は父帝と生母からさんざ叱られて、古株の女官長にもこってり絞られて、金蝉の指摘したとおり、五日間の外出禁止令を食らってしまったのだが。 しかし、自分の処分については公になっていないはずなのに、金蝉が知っているのも変である。内心、おかしいな? と思いつつも、黙っているのも悔しいので、負けるものかと食い下がってみる。 「貴方ね、誰のお陰で無罪放免になったと思ってるの? 後宮まで来いとは言わないけど、知ってるなら、悟空をよこしてくれたっていいじゃない。今だって、お礼くらい言ったらどうなのよ」 「そうしてくれと頼んだ覚えは無ぇな」 「この、恩知らず!」 何故あの水晶塔の中では、この男に見蕩れたりしたのだろう? いつものように憎まれ口を叩き合いながら、はふとそんなことを思う。こんな無愛想で、可愛げがなくて、礼の一つも満足に言えないような男に、惹かれる理由など何処にもないのに。 いや、塔の中で起きたこと、遭遇した物の全てが、謎のままで終わっている。 あの時、未来の光景だと確信した事柄も、振り返ってみれば、何一つ確固たる裏付けのない、曖昧模糊とした物ばかり。見せられた過去が正確だったからと云って、未来までそうだと断定出来るはずがないのに。 けれど、思い出してみる度に、どうしようもない胸騒ぎも覚える。 それもまた、打ち消しようのない事実で。 「……ねえ、金蝉」 口喧嘩が一段落付いた所で、は改めて問いかけた。 主語も無ければ述語も無い、およそ質問とは呼べぬ言葉。だが何故か、はっきり口にするのが躊躇われた。 そう、あの塔の中で見た不吉な光景は、今でも鮮明に覚えている。自室謹慎を言い渡されていた間も、どれだけ心惑わされ、悪夢に悩まされたか。 もし「時間」や「運命」がより上位に在るならば、自分たち「神」は何なのだろう。六道輪廻の最上に位置したこの天界で、永遠の命と平穏とを約束されたこの身は、一体何のために存在するのか。 不変の常楽を謳う世界に疑問を持つことは、禁忌なのかも知れないが――自問を繰り返しても答えは見出せず、ただ気分だけが重く沈むだけだった。我ながら、かなり情けないけれど。 それきり口をつぐんだを、金蝉はしばし眺めた後に、ぼそりと、 「馬鹿馬鹿しい。考えるまでも無ぇな」 とだけ言った。 書類に印を押すその横顔には、「下らねぇ」とはっきり書いてある。その傍では、悟空が無垢な金色の目を瞠って、訝しげに首を傾げていた。 差し込む陽射しは柔らかく、戸口から見える空はどこまでも青く澄み渡っている。庭で咲き誇る桜の花びらが、風に吹かれてはらはらと舞い落ちて、とても美しい。 二人の在り様と、そんな外の平和な風景とを見ているうちに、段々、悩むのが馬鹿らしくなってくる。彼の言ったとおりに。 確証の無い「未来」など、まどろみの中で見る夢と同じ。ならば。 はほうっと一つ息を吐くと、くるりと身を翻し、悟空の傍らにしゃがみ込んだ。 勿論、見せるのは精一杯の笑顔だけ。不安や畏れの残滓など、自らの胸の内にだけ収めて。 「ねえ悟空、そろそろ、部屋の中で遊ぶのも飽きたでしょ。久し振りに外に出てみない?」 「え? でも……」 急に話を持ちかけられ、当惑した子供は、養い親の顔をそっと伺い見た。 ちょうどの背後になるため、直接その表情は見られないが、悟空の反応から察するに、あまりいい顔はしていないらしい。じろりと睨み付けるような視線が、背中越しにも感じられた。 が、は、完全無視を決め込み、にわかに表情を曇らせた幼子に、とっておきの笑顔で語りかけた。 「金蝉は、一人で外に出ちゃいけないって言ったんでしょ? 今日は私が一緒だから、心配しなくていいわ。夕方にはちゃんと、ここまで送って来てあげるし」 「うん、でも……」 「城からちょっと離れたところにね、とっても綺麗なお花畑があるの。 勿論、お茶やお菓子も用意してあるわ。お饅頭とか、月餅とか、果物の砂糖漬けとか、悟空の好きなのをいっぱいね」 「本当っ!?」 「……悟空」 がぜん元気を取り戻した悟空に、金蝉が静かに呼びかけた。 ただその一声だけで、子供はまたしゅんと萎んでしまう。よく躾けたものだと、妙なところで感心させられる。 だがも譲らない。「ちゃんといい子にするわよね?」と改めて問うてから、背後の保護者を顧みた。 「何なら、貴方も一緒に行く?」 「忙しい。付き合えるか」 彼は眉間に皺を寄せ、忌々しげにそう吐き捨てる。 予想通りの答えに苦笑いしながら、は悟空の方へと向き直る。そして、にやりと悪戯っぽく笑って、「行くなと言わなかったから大丈夫よ」と言った。 本当にいいの? と、ぱっと顔を明るくした悟空の後ろで、血相を変えた金蝉が、慌てて席から立ち上がる。 「おいこら待て。誰がいいと言った。勝手に話決めてんじゃねぇっ」 「駄目とも言ってないわよ。さ、悟空、行きましょ。 お天気は良いし、花は綺麗だし、外で食べるおやつもきっと美味しいわよ。久し振りに、いっぱい遊びましょうね」 「うんっ!」 「勝手に行くなっつってんだろうが。おい、てめェ、どういうつもりだ!」 「悟空をお散歩に誘っただけよ。じゃ、お父さん、お仕事頑張ってね」 はしゃぐ悟空と手と手を繋いで、がにっと笑いかける。金蝉のこめかみに、くっきりと青筋が立った。 今にも飛び出しそうな罵声を避けるべく、子供の手を引き、さっさと部屋を後にする。悟空の「んトコのお菓子も、俺、すっげぇ好きなんだ!」という台詞が、廊下いっぱいに響き渡った。 降り注ぐ陽の光が、暖かくて心地よい。今日は、久々に楽しい一日になりそうだ。 「今日は、何して遊ぶ?」 「えーっと、んーっと、鬼ごっことか、かくれんぼとか、――」 和気あいあいと話す二人の背後で、慌しく駆け寄って来る靴音が響いた。 続いて、怒気いっぱいの大声が、廊下中にこだまする。 「――てめェ、俺を置いて行くんじゃねぇっ!」 |