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「……ぜん、金蝉っ……!」 悟空は、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、こちらに向かって歩いて来た。 その姿はまさしく、二人がよく知る悟空と全く同じ。腕や足に重い鉄の枷をぶら下げてはいても、あの鬼神のような威圧感や、青年のような精悍さは微塵もない。小さな子供そのものだった。 明滅する灯りの下、額に嵌められた金鈷がきらりと煌く。ぽうっと灯っては消えるおぼろな水晶の明かりの下、ぺたぺたと裸足で歩く音をさせながら、一歩一歩確実にこちらに近づいて来る。 静まり返った空間の中で、時折、鼻をすすり上げる音がした。 「悟空っ……!」 は、前に一歩足を踏み出して――そのまま、停まった。 ふっと湧き上がる安堵感と共に、近付いて良いのかどうかという迷いが生まれる。この子が、本物という確証がどこにも無いのだ。もし幻影だったらどうしよう、また異なる姿に変貌したら、と思っただけで、前に足を踏み出す気持ちがくじける。 助けを求めるようにが隣を見やると、金蝉が、厳しい顔をして養い子を見つめていた。 出迎えるべく踏み出したその足には、迷いや恐れなど一切無い。靴音が、仄暗い空間に高く響き渡った。 二人が間近で向き合った瞬間、金蝉は、拳を高く振り上げる。三拍分の間を置いて、その拳が、こつんと、小さな頭を軽く叩いた。 「さんざ面倒かけさせやがって、この馬鹿猿が」 「ごめっ……!」 謝罪の言葉が、涙で途切れる。悟空はそのまま、目の前に立つ保護者にぎゅっとしがみ付き、白い装束の裾に顔を埋めた。 腰にしっかと抱きつかれ、金蝉が、怒っているような、困っているような、複雑な表情をしてその場に立ち尽くす。養い子の頭を叩いた拳が、その後の行き場を失い、宙ぶらりんのまま固まった。 静まり返った空間に、悟空の泣く声だけが響く。その様を見つめながら、はほっと胸を撫で下ろした。 だが。 ―― あんな事があっても貴方は、迷わずその子に手を差し伸べるのね ―― 異形の神の面影も、去って行った未来の後ろ姿も、彼にとっては大した事ではなかったらしい。 彼も自分も、この長い長い安寧の時の中を同じように生きてきたはずなのに、何故こんなにはっきりとした差が出来ているのだろう。自分が抱いた畏れや迷いを、この男は持たなかったというのか。 確かに、この男は口で言うよりもずっと、この子を大切に思っている。ずっと身を案じて探し回ったことも、禁域であるこの塔にいの一番に向かおうと決めたことも、その思いが表れた故。何事にも無関心で、何一つ趣味や娯楽もなく、四六時中不機嫌な顔をして時を持て余していただけの男が、随分と変わったものである。 その変貌ぶりは、傍で見ているだけでも微笑ましい。微笑ましいとは思うのだが……。 悟空はまだ、泣いている。 金蝉は、握っていた拳を解き、小さな頭の上に手を添えて、養い子の好きなようにさせている。真っ白な装束が涙でくちゃくちゃになっているが、それも全く気に留めていないようだ。 二人の間には密な空気が満ちみちており、何人たりとも入り込める余地が無い。その様を傍らで見つめながら、は、もう何度目になったかも分からぬため息をつく。 無意識の内にうつむいた頭の上で、簪がしゃらんと鳴った。 「あれ…………?」 その時、ふと。悟空がこちらに視線を向けた。 名を呼ばれ、がはっと我に返る。見ると、涙に濡れた金色の瞳が、心なしか怯えていた。 はふっと小さく笑うと、そんな子供の傍に歩み寄り、膝をつく。そして一呼吸置いてから、にっこりと彼に笑いかけた。 「も、本物だよな? 俺、夢見てるんじゃないよな?」 「ええ、勿論よ。私も、金蝉も、ちゃんとここに居るわ」 が力強く頷くと、小さな手が恐る恐る伸びてくる。その手をそっと掴み、「ほら、私はここに居るでしょ」と自らの頬に触れさせると、子供はやっと安心したような顔をした。 もう片方の手は、金蝉の衣服を握りしめたまま離さない。それがまた、如何にもこの子らしい。 「俺、金蝉が忙しいのを邪魔しちゃいけないって思ったから、那咤の所に遊びに行こうとしたんだ。 そしたら那咤、どっか行ってて居なくって、それからここを見つけて、――」 ある程度落ち着いたところで、悟空は、自らに起こった事を、少しずつ話し始めた。 昨日、いつものように一人で遊びに出た際に、偶然この塔を見つけたこと。 綺麗だと思って近付いたら、突然水晶の壁が光って、気が付いたら中に入ってしまっていたということ。 それでも最初は、恐れよりも子供ならではの好奇心が勝っていて――水晶の回廊や広間が珍しくて美しいので、後で親友であるあの子供も連れて来ようと考えたらしい――、中を冒険していたのだが、そのうちに出口が分からなくなってしまった事などを、彼は、思いつく順に話した。 幼い子供の、しかもしゃくり上げながら喋る言葉を聞いて理解するには、少しばかり根気が要る。だが金蝉も、も、辛抱強く、時に柔らかい言葉を選んで訊き返し、返す言葉に真摯に耳を傾けた。 そうして話を聞いていると――天蓬の、『異端な場所が、異端の子供を招き入れた』という発言が、脳裏に鮮やかに蘇る。 「歩いてる途中で、金蝉が居たのを見つけて、俺、傍に行こうとしたんだ。 だけど振り向いてもらえなくて、一生懸命呼んでも答えてくれなくて、どんどん遠くに行っちゃって、今度は、血だらけの金蝉が倒れてて……!」 あふれる涙で詰まった言葉に、金蝉とが思わず顔を見合わせた。 どうやらこの子も、この塔の中でいろいろ見てしまったらしい。それも大人たちと同様に、あまり良くないものばかりを。もう一度思い出させるのも酷なので、敢えて詳しくは訊かないことにした。 自分たちの、いや金蝉の見た様々な悟空の姿と、悟空の見たという金蝉の幻影とを足して、ここが時の歪みを封じた場所という言い伝えも併せて考えてみれば、嫌な未来予想図が成り立ってしまう。ただでさえ最近、女官たちの口を通じて伝わる宮中の噂や、出かける度に感じる外の空気の微妙な変化に、言い様のないものを感じているというのに。 肩を震わせて泣く子を慰めたいのに、適切な言葉が見つからない。この子の抱える惧れと同じものを、自分自身も抱いているから。どんなに優しい言葉を並べたところで、きっと上滑りしてしまう。 けれど、でも。 「馬鹿が」 その時、こつんと、悟空の頭の上に再び、保護者の拳が振り下ろされた。 がこっそり見上げると、彼は、憮然とした表情で悟空を睨み据えている。恐る恐る顔を上げた悟空が、目と目が合った瞬間に、びくりと体を震わせた。 沈黙で、場の空気が凍りつく。ややあって、金蝉がゆっくりと口を開いた。 「誰が誰を置いて行くってんだ、この馬鹿猿が」 振り下ろした拳をそっと解き、彼は、養い子の頭をくしゃりと撫でた。 言われた方は、大きな金色の眼を更に真ん丸く開いて、保護者の顔をまじまじと見る。その視線に耐え切れなかったか、金蝉は、撫でていた手を止めると、気まずげに顔を背けた。 「こんな大食らいで、馬鹿で、手を焼かせてばっかりの猿、他に面倒見られる奴が居る訳無ぇだろ。 無駄な心配してんじゃねぇよ。だから、……だから、もう泣くんじゃねぇ」 「そうよ。誰が、貴方を独りぼっちにするもんですか」 語尾が小さくなったその言葉を継ぐように、が横から口を挟んだ。 不安げな眼差しが、驚いたようにこちらに移される。臆した金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、は、もう一度にっこり微笑みかける。 「この人ったら何にも言わないけど、貴方のことを、とてもとても心配してたのよ。 夕べからずっとあちこち探し回ってたし、ここに探しに来ようって決めたのも、この人だったしね。 金蝉だけじゃないわ。天蓬元帥も、捲簾大将も、皆、貴方のことを大切に思ってる。勿論、私も」 「本当?」 「ええ」 頭上から刺すような視線が降ってきたが、は完全に無視をした。 この男は、養い子への情は深い癖に、肝心なところで言葉が足りない。空気を読める大人同士ならばいざ知らず、子供には、はっきり口に出して伝えるべき時も有るというのに。もっとも、彼の感情表現下手は、今に始まったことではないのだが。 は、小さな肩にそっと手を乗せると、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いた。少し間が空いて、また、金色の瞳から涙がぽろぽろとあふれ出て、丸い頬をつっと伝う。 冷たい水晶の床の上に、涙の雫が、ぽたり、ぽたりとこぼれ落ちた。 「本当に、俺を置いて行ったりしない?」 「当たり前でしょ。金蝉も、私も、ずっとずっと傍に居るわ」 貴方がもっと大きくなって、自ら巣立って行くまで、ずっと貴方のことを見ているわ。 返す答えの後半部分は、声に出さずに胸の奥にしまった。 そうして幼い顔を見ているうちに、ふっと、先頃であったあの異形の神の禍々しい笑みが、大きく育った青年の面影が、ふっと二重写しになる。 どこの誰かも分からぬけれど、何者かが、自分たちを愚かだと嘲笑っていた。悪意ばかりのあの視線を、あの言葉を、そのまま鵜呑みにする訳ではないけれど――あの時に見たことが何を意味するのか、計りかねているのもまた事実。あれは、この子供の内に眠る別の性なのか、それともただの幻想なのか。もし現実になるものならば、自分たちは一体どうすればいいのか、それも全く分からない。 密かに思い悩みながら隣をちらりと見ると、無愛想な仏頂面がそっぽを向いている。眉間にしわは寄っているが、迷っている様子は微塵もなかった。 もしこの子に何かあったら、この男はどうするだろう。不器用で、密かに情の深いこの保護者が、その時にどういう行動を取るか、考えてみたが、ちっとも想像がつかなかった。 (今でもこうなんだから……)の顔に自然と、笑みが戻ってくる。それをどう思ったか、金蝉が、ぎろりと睨みつけてきた。それがまた妙におかしい。のそのくすくす笑いに、悟空が、怪訝そうに首をかしげた。 「あのな、本当は、」頬を伝う涙をごしごしっと手で拭って、悟空がすうっと大きく息を吸う。 そしてを見て、それから金蝉を見上げて、にぱっと明るい笑みを浮かべた。 「また一人になって、歩いてた時に、金蝉の呼ぶ声が聞こえたんだ。 何だか怖い声も一緒に聞こえて、そいつらが、俺の事いろいろ言ってたみたいだったけど」 「………………」 「でも金蝉は、そいつらに『返せ』って言ってから、また俺の名前を呼んでくれた。 それが、すっげえ嬉しかったんだ!」 悟空のたたえる笑顔には、もう一点の曇りも存在しない。まさに、雨上がりの青空のように晴れやか。 その表情を確かめてから、再度金蝉の様子を伺うと、彼はやっぱり眉間に皺を寄せて、あらぬ方を向いていた。 「訳分かんねぇ事言ってねぇで、ちゃんと人語を喋れ、猿」 「ちゃんと喋ってるよ! 分かってねぇのは金蝉の方だろっ!」 保護者の無粋な返答に、悟空が力一杯抗議の声を上げた。 だが、分かる。それが、この男の照れ隠しであると。本当に、何て不器用な男だろう。 がぷっと吹き出すと、「笑うんじゃねぇ」と怒気いっぱいの言葉が飛んできた。その様もまた大人気なくて、いつまでも笑いが止まらない。のくすくす笑う声に、金蝉はますます渋い顔をした。 段々、胸につかえていたものが融けてゆく。時折覚えた刺すような痛みも、いつの間にか消え失せていた。 代わりに、心がほんわりと暖かくなっている。それは、触れ合う手と同じだけの暖かさ。 「なあ金蝉、、俺、すっげー腹減った。だから、もう帰ろう!」 大人二人の手を引いて、悟空が言ったその瞬間。 仄暗い水晶の回廊は、急に、目も開けられぬ程の光に包まれた。 |