Flower Storm


― 前編 ―


「何者だ、貴様」
「貴方こそ、誰なのよ?」

穏やかな陽射しが窓越しに差し込む、平和な昼下がりのこと。
ごくごくありふれた街の安宿の一室で、男と女が二人きり。互いをじっと見つめ合い――一種即発の様相を呈していた。
事の始まりは至極単純。皆が買い物や雑用で出払った後の部屋で、三蔵が、独り静かに新聞を読んでいた。そこへ突然、この女性が腕いっぱいに花を抱えて、「――居る?」なんて気楽に笑って入って来たのだ。
ただ、それだけの事だったのだが。

―― 一体何なんだ、こいつは。

三蔵は半ば無意識に眼鏡を外し、新聞をたたむと、改めて目の前に憤然と立っている乱入者に目をやった。
絢爛豪華で時代錯誤な装束は、瑠璃紺の生地に金糸銀糸で花や枝葉を描いた、簡単には値踏みも出来ないような一級品。庶民が手を出せるような代物ではない。もっとも、権威を嵩に着たがる僧侶が、進んでこのような生地で袈裟を仕立てるようだが。
亜麻色の長い髪は先を巻いて整えて下にたらし、結い上げた一部の髪の束の上に、これまた贅を尽くした金細工や珠玉の冠や簪が煌く。唇に薄く紅を差し、華やかで一本筋の通ったような薫香を仄かに纏うその出で立ちは、まさに昔話に語られる宮廷の妃嬪そのものだ。
腕いっぱいに抱えた花束は、牡丹に蘭に百合に蓮。三蔵が名前を知らないような花もたくさん混じっている。まさに百花繚乱と云うようなその彩りが、女の典雅な風体を際立たせていた。
が、顔の美醜云々とは別次元で、兎角可愛くない女である。傲慢不遜で尊大な態度が、いの一番に鼻について。
何が、「貴方が何者かは知らないけど、臣下としての礼も知らないの?」だ。何故自分が、こんな訳のわからない馬鹿女に頭を下げねばならぬ、身分がどうのというのなら、こちらは仏門の頂に立つ三蔵法師だ。寝言なら寝てから言いやがれ。
三蔵の覚える反感は、物理的な殺傷能力を伴わない刃となり、向ける眼差しと一体となって、目の前の相手に突き刺さる。が、不愉快なのはこの女も同じらしく、怯むどころか、無数の針のようなちくちくとした視線で受けて立った。
怪しむような、品定めするような、敵意とも疑念ともつかぬ色を混ぜた表情で、視線が三蔵の頭のてっぺんから顔、黒のアンダーシャツ一枚な上半身、着崩して腰の辺りで留めた法衣、畳んだ新聞を載せたまま組んだ両足、ブーツのつま先までゆっくりと下り、そこで折り返して脚、腰、腹、胸、首元、顔、頭へと這い上がる。両者の目と目がかち合った所で、一瞬、見えない火花が弾けた。
部屋いっぱいに、差し込むうららかな陽射しとは正反対な、険悪そのものの沈黙が満ちる。見詰め合ったまま、二人とも微動だにしない。

「――で、金蝉たちを何処にやったの?」
「あぁ?」

先に口火を切ったのは、女の方だった。
言ってる意味が全然理解出来ない。訝しんで眉を寄せると、「私を天帝直系の公主、と知っての非礼なの」と噛み付いてきた。皇女と名乗る割にはえらく感情的な大声で、腕の中に抱えた花までが揺れた。
天帝? 何処の? まさか、北極星を中心とした十二星で成す紫微宮とやらに居るという、あの天帝とか言うのではあるまいな。三蔵の宗教的知識はどうしても仏教方面に偏ってしまってはいるが、民俗信仰についてもその程度には知識を持っている。尤も、実際に顔を合わせる神など、三仏神か、“慈愛と慈悲の象徴”と云われながら全然そうは見えないあの観世音菩薩くらいしか居ないので、現実での天界での力関係や実態などとんと判らないし、天帝とやらが実在するかどうかも知らないが。
やはりこの女、ただ思い込みが激しいだけの馬鹿か。そんな、居るかどうかも判らない神の娘だなんて。
最初に来た時には、敵かとも思った。旅の旅程も半分を超え、敵たちの策略も襲撃回数も段々鬱陶しくなってきていたからだ。だがその割には、この女はあまりに隙だらけだ。色香で誑かすにしても――男を誘うのに、いきなり喧嘩を吹っかけるのも変である。大体、何処ぞのエロ河童なら兎も角、自分はまるでその方面に興味が無いし、この女にも肝心の色艶や媚が全く無い。
こんな使いようのない馬鹿――敵陣の王子以下約四名も、馬鹿が付く程お人好しな連中ではあるが――を雇い入れる程、牛魔王側も人手に困っては居ないだろう。
「訳分かんねぇ事ばかり言ってんじゃねぇよ」煩せぇ、とっとと消えろ。まともに相手をしてやる気も失せて、三蔵は目の前の女、から視線を離した。
畳んでいた新聞を手に取り、広げて適当に頁をめくる。傍らで、また怒気が膨れ上がる気配がしたが、それも完全に無視してやった。

「………………」

暫し、沈黙した後に。また、女が動く気配がした。
三蔵が、表向きは無視を貫いたまま広げた新聞の隙間から覗き見ると、が、今頃になってきょろきょろと辺りを見回している姿がある。視線を一つ投げる毎に、その表情に大きな疑問符がくっきりと浮かび上がっていた。
簡素な造りの安宿に、その風体が完璧に浮き上がっている。歩き回る度に淡い青の裾裳が軽やかに翻り、身に焚き染めた薫香がふわりと漂って、腕に抱える生花の放つ瑞々しさと交じり合い、三蔵の鼻をくすぐった。漂う仄かな香りに紛れて、「ここにこんな部屋あったかしら……?」なんて独り言まで聞こえてくる。
全く、何なんだこの女は。無視しようにも、存在そのものが神経に障る。いい加減に消えやがれ。
募る不満を紛らわそうと、三蔵は袂から煙草を取り出して、一本口に咥えて火を点けて――灰皿に、まだ吸いかけがくゆっている事に気が付いた。己自身の迂闊さにも、また腹が立ってくる。
いっそ撃ち殺してやろうか、この女。いやそれでは弾が勿体無い。ただでさえ危険の多い旅路であるし、同行する馬鹿どもが騒ぐせいもあって、弾の減りが早いのだ。ここで更に無駄遣いすることもあるまい。
なら、腕ずくでつまみ出すか――と、三蔵が吸いかけの煙草を灰皿に置き、重い腰を上げた丁度その時、

「どうやら、間違っていたのは私のようね。先程の非礼、心より詫びます」
「………………」

三蔵の出鼻をくじくかのように、がすっと頭を下げた。
頭上に頂いた冠がきらきらと煌き、簪から長く垂れ下がった金細工の細い飾りがしゃらん、と微かな音を立てる。それまでの尊大な態度には些かの変化も見られないが、えらく神妙なその表情に、三蔵は返す言葉を失った。
どこまで調子を崩させる気だ、この女。ただ黙っているだけなのも癪で、三蔵は一言、「遅せぇんだよ、気付くのが」と吐き捨てた。
がゆっくりと顔を上げると、また、まともに眼と眼が合う。だが少なくともの方には、先程のような棘は無くなっていた。

「知人を訪ねてきたのですけど、何か間違いがあったようです。貴方にも不快な思いをさせて、悪い事をしました」
「…………」
「それに免じて、貴方の不敬な態度も全て不問とします。最初に非が合ったのは、私ですから」
「……自分を皇女だと言う割には、随分しおらしいこったな」

返事に僅かばかりの嫌味を混ぜて、三蔵がふん、と鼻を鳴らした。
するとは、ふっと小さくため息を吐いて、

「皇女だから、よ。自分の非を全部他に押し付けては、誰かの首が飛んでしまう。
 そんなのは、ただの横暴でしかありません」

独裁主義は嫌いなのよ。そう呟くの瞳が、一瞬だけ険しくなった。
誰を、何を思い浮かべたのだろうか、三蔵にはまるで見当も付かない。知る気もしない。だが、馬鹿ではあっても物の道理を多少は判っているのかと、三蔵は少しだけ、目の前の女に対する評価を改めた。
女の扱いは面倒くさい事ばかりだ。その基本理念に変更点は無いが。

「ところで貴方、名前は?」

少しだけ表情を和らげて、がそう尋ねてきた。
内心、面倒くさいと思いながら――この女も、名を聞いた途端に態度を豹変させるのだろう――、「玄奘三蔵だ」と答えてやる。
が、は、三蔵の予想に反し、眉一つ動かさずにいた。少し意外な反応である。僅かに微笑んで「覚えておくわ」としか言わない彼女の返答に、却って三蔵の方が戸惑った。

「お前、本当に俺を知らんのか」
「貴方も、私を知らないのでしょう?」

三蔵の問いかけにも、は怪訝そうに首を傾げるばかりだ。
ようやく会話が噛み合うようになったのに、相変わらず意志の疎通が叶わない。貴様なんぞ俺が知るか。三蔵の悪態いっぱいな呟きが、口の中だけで潰れて消えた。
自分の法名を耳にして怯まなかった女は、確かこれで二人目だ。そのもう一人は今、雑用で外に出ているが。
如何にも、修羅場も血の匂いも知らなさそうな、豪奢な装束に身を包んで花を抱えた女。あいつとの共通項など、探す方が難しい。
だが。

「この程度では、詫びにならないでしょうけど……」




>> Go to Next Page <<


>> Return to index <<

Material from "壁紙倶楽部" (with processed)