― 中編 ―


「この程度では、詫びにならないでしょうけど……」

突然何を思ったか、がふと、抱えていた花束の内から一本を抜き出し、三蔵の手に押し付けた。
有無を言わさず渡されたのは、大きく開いた紫の牡丹。優雅に襞を寄せた花びらは、その上にたっぷりと露を含み、瑞々しい美を掌の上で誇る。無言のまま、ぴくりと片眉を吊り上げた三蔵の反応に、が悪戯っぽく、くすり、と笑った。

「――何のつもりだ」
「言った筈よ。詫び代わりだって」
 この公主が見ず知らずの男に花を下賜するなんて、きっとこれが最初で最後よ。せいぜい自慢になさい」

笑顔で言ったの言葉に、三蔵のこめかみにうっすら青筋が立った。
何様のつもりだ、貴様。三蔵が、殺意そのものにも似た紫の眼差しを振りかざしたが、はそれを微笑みで受け流し、扉の方へと踵を返した。裾裳が軽やかに翻ると共に、金糸を織り込んだ紺瑠璃の衣と金の冠が煌き、身に纏った薫香がふわりと空気を揺らす。
「でも金蝉ったら、一体何処に行ったのかしらね」あの男の仏頂面を、目一杯飾り立ててやろうと思ったのに。のそんな呟きに背を向け、三蔵は燃え尽きて消えてしまった二本の煙草の代わりに、新たな一本を口に咥えた。
どこの誰かは知らないが、災難な男も居たもんだな。腹の中で、らしくもなく同情の念を抱いてもみる。
三蔵のライターの着火音と、が扉を開ける音が重なる。肩越しにちらりと伺い見れば、立ち去ろうとする彼女の後姿が、紫煙の薄い帳に霞んだ。

「全くもう、金蝉ったら……せっかく、悟空にも喜んで貰おうと思ったのに」
「!?」

今、何と言った?
最後の一言を聞き咎め、慌てて振り返った三蔵にも気付かずに、が大きく扉を開いた。
が扉をくぐったその瞬間、外が一瞬かっと光り、一陣の風が部屋の内に吹き込んだ。無数の散華が嵐のように空を舞い、呼び止めようと伸ばした手はおろか、向けた視線さえ阻む。
光が収まり、風が止んだその後に、三蔵は急ぎ扉の方へと駆け寄った。が、そこにはもうの姿は無い。部屋一杯に舞った筈の花びらと同様、忽然と消え失せていた。
その場に残ったのは、狐につままれたような間抜けな表情をして突っ立っている三蔵自身と、掌の上で悠然と咲く紫の牡丹のみ。これも突然消えたりするんじゃないかと思い、三蔵は暫く、しげしげと花を眺めていたが、別段何の変化も起きなかった。
テーブルに置いた灰皿の上には、吸い損ねた煙草の燃えかすが二本。すっかり冷め切った茶の入った湯のみと読みかけの新聞、外した眼鏡が、その横に鎮座している。足元には、知らず取り落とした煙草が一本、火の点けられぬまま転がっていた。
あの女、が訪れるまでと殆ど同じ、何の変哲もない部屋の風景。その中で独り狼狽する自分の様が、急に滑稽に思えて。
とにかく、腹が立った。



「――次に会った時はただじゃ済まさねぇぞ、あの女」



ずっと意味不明な事ばかり喋っていたくせに、何故最後の最後に悟空の名を口にした?
未だ残る疑問を強引に頭から追いやって、三蔵はふん、と小さく鼻をならし、改めて椅子の上にどっかりと腰を下ろした。
眼鏡をかけて新聞を広げ、冷めたまずい茶に口を付ける。改めて取り出した煙草に火を点け、深く息を吸い込んで吐き出せば、静けさを取り戻した部屋いっぱいに煙が拡がった。
少し開けてある窓からは穏やかな風が差し込み、淡い色のカーテンがそよそよと揺れる。
眼鏡越しの視線が、ざっと活字の上を滑り終えたのとほぼ同時に。
再び、部屋の扉が勢い良く開いた。

「三蔵ーーっ、ただいまっ!」

一際元気で喧しい声と共に、買い物袋を抱えた悟空が入って来た。
後ろには、同じく二つ程袋を抱えたの姿もある。どうやら、二人だけ先に戻って来たらしい。
「すっげぇ人がいっぱいで、楽しかったんだぜ!」悟空は三蔵の向かいに座るや否や、別に訊いてもいない事をあれやこれやと喋り出した。街の市場の賑わいや、途中で立ち寄った屋台の饅頭の美味かった事、雑貨屋の店頭に面白い動きをする仕掛け人形が飾られていた事、早くも基督教の降誕祭の飾り付けをしている店があちこちにあった事など、話題が奔流のように溢れ出す。三蔵は読み終えた新聞をまた広げながら、いつものように相槌を打った。
そして。彼の話が一段落ついたところで、三蔵はふと、先程の出来事を思い出し、

「――おい。お前、という女に覚えはあるか」
「へ?」

唐突な質問に、悟空の目が丸くなる。
傍らでは、買い物袋の中身を整理していたが、ぴくりと片眉を吊り上げた。が、悟空はそれに気付かずに、うんうんと唸って首を傾げ、懸命に記憶の糸を辿ろうとしている。
ややあって、彼は至極申し訳なさそうな顔をして、

「……ごめん。やっぱ、思い出せない」
「そうか」

やはり、自分の考え過ぎか。あんな女に、悟空が関わっている筈がない。
三蔵は頭の中でそう結論付けながら、何気なく湯呑みに手を伸ばし――中身が空になっていた事に気が付いて、の方に「おい、茶」と声を掛けた。
普段なら彼女も大して文句を言わず、黙って茶を淹れて来る。だが、今日は、

「湯沸し場はあっちよ。茶葉は揃ってるから、ご自分でどうぞ」




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