― 後編 ―
「湯沸し場はあっちよ。茶葉は揃ってるから、ご自分でどうぞ」 は三蔵の顔を見もせずに、素っ気無くそう切り捨てた。 買ってきた物を整理するその背中にも、何やら妙な空気が漂っている。袋から物を出して置く手付きも、いつになく粗雑だ。 そんな彼女にただならぬものを感じたか、悟空が恐る恐る、どうかしたのか、と尋ねてみる。するとは、ようやくまともに振り返って、いつも通りのにこやかな表情で、 「あ、喋って喉でも乾いちゃった? そうよね、帰って来たばかりだものね。お茶、要る?」 「え? ええと、……うん」 「……おい」 「紅茶と青茶と緑茶があるわよ。あ、さっき買って来た八宝茶でもいいわね。悟空、どれにする?」 「あ、うん。どれでもいいよ。に任せる」 「おい」 「じゃ、私の方で選んじゃうわね。ちょっと待ってて」 「うん」 「おい。てめェ、俺の方は完全無視か!」 こめかみに青筋をくっきり浮き立たせ、三蔵が声を荒げて言った。 その時になって、初めては彼に目を向けた。仕草がいちいちわざとらしくて、何となくだが癪に障る。 何故を考えているかは知らんが、ざけんじゃねぇ。三蔵が湯呑みを突き出すと、はふん、と小さく鼻を鳴らして、 「何処から来たかは知らないけど、その、とかいう女性(ひと)に淹れて貰えば? こんな高そうな薫り物を嗜む女性ですもの。きっとお茶も美味しいわよ」 「てめェ、何訳の分からねぇ事言ってやがる。 無駄口叩く暇があったら、とっとと行ってこい。どうせ猿にもやるんだろうが」 「あーっ、三蔵、また猿って言った!」 「あ、とぼける気ね。 貴方、この部屋の残り香に、私が気付いてないとでも思ってるの?」 ジト目で睨むの問いには、分かり易過ぎる程に棘があった。 相手にするのも馬鹿らしい。三蔵が「気のせいだろ」としらを切ると、事もあろうに、悟空までもが「俺もさっきから気になってたんだ」と彼女に追従した。 一体何なんだ、この反応は。俺を愚弄するとはいい度胸だな。一つ怒鳴りつけてやろうと、三蔵が腰を浮かせかけた。が、は怯まず動じず、ついっとテーブルの上を指差して、 「それも、ね。一種の証拠物件じゃない?」 大袈裟なため息を吐いてが指し示したのは、置きっ放しになっていたあの牡丹の花。水もろくに与えられずに放置され、些か花びらの端がしおれかけてはいたが、安宿には不釣合いな高貴な紫が、美しく咲き誇って存在を主張していた。 「水をやらなきゃ可哀想だよ」と、悟空が至極正しい、しかし場違いな指摘を横から挟む。怒鳴る機を逸して、三蔵は無言のまま椅子に座り直し、また煙草に火を点けた。「三蔵、吸い過ぎじゃねぇの」と嗜める悟空を、煩せぇ、と一喝したのは、ただの八つ当たりというものであろう。 部屋の中に、音の無い不協和音が拡がってゆく。ぎこちない空気に輪をかけるように、が「貴方が誰と何をしようと、私の知った事じゃないけど」と呟いた。三蔵が、ふん、と苛立たしげに鼻を鳴らす。そんな二人に挟まれて、悟空が、椅子の上ですっかり小さくなっていた。 そんな時である。が不意に、ひょいっと何かを投げてよこした。絶妙のタイミングで、悟空がすっと身をかわす。彼女が放り投げたそれは、虚空に悠然と放物線を描いた後、見事に三蔵の膝の上へと収まった。 「……何だこれは」三蔵が、訝しげに眉を寄せる。その眼差しの先には、紫の薔薇を中心に、淡い色や白の小花でまとめた小さな花束。包むのが淡茶のクラフトペーパー一枚という素っ気無さが、却って花本来の美しさを引き立てていた。 また花か。少々辟易もしたが、それ以前に。 「――何だ、この花は」 「あーっ! やっぱり三蔵、すっかり忘れてるっ!」 三蔵の疑問にすかさず大声で突っ込んだのは、悟空だった。見ると、も同じことを思っているらしく、大袈裟に肩を竦めている。 「言いたいことがあるならさっさと言え」三蔵が声を荒げて問い質すと、は些か皮肉っぽい笑みを浮かべて、 「今日は、十一月二十九日なんですけどね。玄奘三蔵法師様?」 「そうだよ。今日は三蔵の誕生日だろ。そんな大切な日、忘れちゃ駄目じゃないか」 二人から同時に指摘され、三蔵はようやく、その事実に気が付いた。 延々と荒野をジープで征く旅路。敵が来たら返り討ちにし、街に着いたら荷を解いて束の間の休息を摂る。日々、ただそれを繰り返すだけ。車上や逗留先で繰り広げられる同行者たちの騒動も、多少は癇に障りもするが、心を大きく揺さぶる程でもない。傍目には酷く波乱万丈な、しかし自分にとってはただ慌しいだけの日常の中で、思えば日付の感覚さえすっぽり抜け落ちていた。 なのに、こいつらは。 「――ふん、ガキじゃあるめぇし。誕生日なんざ別にめでたくも何ともねぇよ」 「うっわー、可愛くないー」 三蔵がそう嘯くと、と悟空、二人が同時に顔をしかめた。 せっかく二人で選んだのに、悟浄や八戒もお祝いの準備に掛かってるのに、と、口々に非難の言葉を喚く。 花なんざ貰って何が嬉しい。三蔵が言い返すと、はすかさず「花はね、贈ること自体にも意味があるのよ」と切り返した。が、三蔵には、その意味がいまいち分からない。 問い質すと、彼女は「説法が本業のお坊様に物を説く程、私も身の程知らずじゃないわ」と突っぱねる。 そして、 「ま、三蔵さまは、民草よりも牡丹のお姫様の方が宜しいようだから。 行きましょ、悟空。そろそろ八戒と悟浄も帰って来るわ」 三蔵の心中も知らず、が扉の方へと踵を返した。 「あ、でも……」悟空はちらりと三蔵の顔を伺い、躊躇するような様子を見せたが、 「八戒、久々に腕が振るえるって張り切ってたわよ。厨房が借りられるよう話を付けたんですって。 私たちが帰る時にも、悟浄を荷物持ちに残させた位なんだし。夕食、期待していいんじゃない?」 「え、マジ!? 行く行くっっ」 にっこり笑って言うの台詞に、悟空はいともあっさりと陥落した。 「何だったら、誰かさんの分も食べちゃっていいわよ」部屋の扉に手を掛けたが、肩越しに三蔵の方を伺い見た。その目が微妙に笑っている。 この女、わざとやってやがる。少し見直してやろうとも思ったが、その必要なんざ全く無ぇ。 三蔵は思い切り睨み付けてやったが、は一瞬ぺっと舌を出して応じただけで、一向に堪えた様子が無い。後は完全に素知らぬ顔だ。悟空は、何も気付かずに「ご馳走ご馳走っ」と単純にはしゃいでいる。 誕生日なんざ別にどうでも良いが、ここまでコケにされてただで済ませられるか。三蔵がすっと立ち上がる。それとほぼ同時に、が改めてこちらの方を振り向いて、 「歳の数と同じだけのダイヤ、なーんて非道いことは言わないけど。お返し、忘れない程度に期待してるわ」 「煩せぇ。誰がやるか」 「あ、俺、歳と同じ数の肉まんがいいっ!」 「喧しい。ちったぁ黙れ、この馬鹿どもがっっ!」 すぱぱああんっっ! 三蔵の振るったハリセンが、二人の頭上に炸裂した。 頭を抑えて涙目になった二人の口からは、暴力坊主だの外道だの人非人だの、ありとあらゆる悪口罵倒の言葉が愚痴となって出て来る。が、三蔵はくるりと背を向けて、ふん、と鼻を鳴らすだけで断ち切った。 やがて、随分静かになった――と思って振り返ると、そこには既に二人の姿は無くなっていた。代わりに、階下がやたら賑やかになったような気がする。本当に俺を置いて行きやがったか、あいつら。 三蔵は、ちっと小さく舌打ちして、また椅子に座り直した。と、床の上に、あの花束が落ちている事にも同時に気付く。 さっき立ち上がった弾みで、膝から落ちてしまったのか。一瞬、そのまま捨て置こうかとも思ったが、考えてみれば花には別に罪は無い。暫し逡巡した後に、三蔵は花束を拾い上げ、茎を縛っていた紐をそっと解くと、適当なグラスに水を入れて突っ込んだ。ついでに、あの牡丹の花も一緒に挿してやる。 花を誰かに贈ること。その意味なんざ知らないし、わざわざ知ろうとも思わない。誕生日を祝う意味も然り。 あの女、が誰かに――確か金蝉とか言っていたか――花を届けようとしていた真意なんざ、それこそ自分の知った事じゃない。 だが。紫の牡丹と薔薇の花が、それぞれの色を誇りながら、同じグラスの中で美しく咲いている様を目にし、何も感じないと言えばきっと嘘になってしまう。かと言って、口が裂けてもそれを言葉で言い表す気は無いが。 そんなことを思いながら見つめる花びらの上に、不意に、それぞれの女の面影が重なって。 何となく、頭が痛くなってきた。 「……ったく、面倒くせぇ……」 何が公主の下賜だ。誕生日祝いだ。いちいち俺の手を焼かせるな。振り回すな。猿までしっかり巻き込みやがって。 三蔵は花を眺めながら、腹の内で、思い付く限りの悪態を吐きまくった。 |