やっぱり今夜は、何かが変だ。 本気で嫌なら、逃げ切ることも出来た筈だった。現にこれまで、何処の誰に対してもそうしていた。 なのに。今度ばかりは抗う間もなく、気が付けば三蔵の身体にしがみつき、その背に爪を立てていた。 一種の熱病に浮かされるように、激情が素肌を滑り落ちてゆく。 止める手立てもないままに。 翌朝、が目を覚ますと、――まず真っ先に、煙草の匂いが鼻をついた。 「…………?」 顔を上げると。開け放った窓の桟に腰を下ろし、悠然と紫煙を燻らせる三蔵の背中が目に入った。 その身に纏うは普段と同じ、黒のアンダーシャツにはだけた法衣。傍らには、鈍く光る銀色の銃も置かれている。ということは、相手が起きて身支度を整えていたことにも気付かぬ程、自分は深く眠り込んでいたというのか。 気付かされた現実に自己嫌悪しつつ、が一つため息をつくと。その気配に気付いたのか、まだ薄暗い空を眺めていた瞳の紫暗が、こちらに向けられた。 「遅せぇな」 紡がれる言葉には案の定、甘さも罪悪感も存在しない。尤も、そんなものが存在しても、却ってこちらが困るだけなのだが。 相変わらず尊大なその態度に、今更ながらの反発を覚えつつ。はふいっと目を逸らすと、身体に軽くシーツを巻き付け、ゆっくりと起き上がった。 「貴方が、早過ぎるだけでしょ」 身動きする度に、身体の奥に疼痛が走る。その痛みに、密かにが眉を寄せた。 脚の間に覚える妙な違和感と、僅かに膝や腰の関節が軋む嫌な痛み。本当は、身体を動かすこと自体が辛い。 それを認めるのも癪だから、と、は努めて平静を装いながら、床に乱雑に放り投げられた衣服を拾い、身につけてゆく。紅い痕が素肌の至る所に残っているが、服を着てしまえば殆どが隠れて見えなくなった。 床に落とされていた飛刺の小袋や流星錘を上着の内側にしまいつつ、がちらり、と肩越しに背後を振り返ると。三蔵が次の一本に火を点け、燻らせるその後姿が目に入った。 ――ここまで酷い俺様っぷりだと、却って何も言う気が起きないわね。 我知らずこぼした、ため息一つ。それはきっと、当の本人には届かない。 もしも耳に入ったとしても、多分、聞かなかったことにするだろう。言ってもしょうがないなら、言わないに限る。 「おい、何処へ行く」 身支度を全て整え、無言で部屋を出ようとしたの背に、三蔵の声が突き刺さった。 が、はまともに振り返りもせずに、至って素っ気無い口調で、 「顔洗ってくるわ。今日も、もう少ししたら出発するでしょ」 「………………」 「起きるにはまだ早い時間だけど、寝直したら寝坊しそうだもの。それってみっともないじゃない?」 「――」 吸い掛けの煙草を灰皿でもみ消して、三蔵が立ち上がった。 昇る朝陽に背を向けて、つかつかとこちらに歩み寄って来る。戴いた金糸の髪が、昇りつつある陽の光を受けて煌くのに対し、表情は逆光に翳ってよく見えない。が、身に纏う空気は更に棘を増しており、昨夜とはまた違った危うさを感じさせる。 まずい、と思ったは踵を返すが、逃げ切る前に三蔵はその肩を掴んで捉え、昨夜と同じように壁際へ追い詰めて、 「何故、俺を避ける」 「…………」 煙草と硝煙の匂いの染み付いた手で、三蔵がの細い顎を捉え、掬い上げた。 惑う瞳と、捕らえる瞳。絡む視線の内に、形のない感情が交錯する。が、 「避けてなんかないわよ。それこそ、自意識過剰って奴じゃない?」 ほんの少し間を置いて、がきっぱりとそう言い切った。 声が少し掠れていたのは、昨夜、さんざん啼かされたせいだろう。それ以外の理由など、今は考えたくない。 嵐のように過ぎた一夜。身体の芯に覚える疼痛。今も肌に残る、触れた吐息や体温の名残。途切れ途切れな記憶はいまいち当てにならないが、それでも湧き起こる羞恥心には身が震える。 けれど。 「私は、何があっても私なの。間違っても、『自分のモノ』だなんて思わないでね?」 唇に乗せるのは、本心を覆い隠すための微笑み。向ける瞳には精一杯の矜持。 自らが発する言葉が胸に突き刺さるが、耐えられぬ程の苦痛ではない。他人の血を流す痛みに比べれば、多分まだましだ。 ぎゅっと握り締めた拳を背後に隠し、微笑を浮かべたそのままで、は真っ直ぐに三蔵と対峙した。 見つめる瞳の紫暗の中に、自分ただ一人が映っている。 その事実に――酷く、眩暈がする。 静まり返った部屋の中、遠くからかすかに聞こえる鳥の囀りだけが、耳に届く。 肌に触れるは、凛とした朝独特の冷たい空気。そして―― 「いつまで調子こいてやがる、この馬鹿女が」 「!」 不意に、首筋に唇を落とされ、が声もなく身を震わせた。 肩を掴まれ、壁に押し付けられたそのままで、素肌を強く吸い上げられる。その熱さに一瞬、息が止まった。 唇が離れたその後に残ったのは、一際鮮やかに刻まれた紅い痕。場所が場所だけに、服で隠したくとも隠せない。まさかそんな事をされるとは思わずに、は思わず頭が真っ白になった。 そんなのその様に、三蔵が僅かに笑い声を漏らす。つ、と細めた目は如何にも可笑しげで、底意地が悪い。 「……この、極悪坊主……!」我に返り、が悔しさに身を震わせるが、三蔵はまるでお構いなしで、 「今のでも感じるくせに、ナマ言ってんじゃねぇよ」 「う……煩いわねっ!」 腹立ち紛れに軽く払うと、肩を押さえていた大きな手が、思いの外あっさりと振りほどけた。 そんな事実に些か拍子抜けしながら、は三蔵の腕からするりと抜け出すと、改めてぷいっと背を向ける。 「じゃ、私、顔洗ってくるから。貴方もさっさと部屋に戻って、出る準備でもしたら?」 「――今日は、出発しねぇよ」 「え?」 予想外の答えに目を丸くするを、ちらり、と横目で一瞥しつつ、三蔵がふん、と小さく鼻を鳴らした。 その口調に、先程までのような感情の色はない。いつもの、あの愛想の欠片もない態度そのままである。 「たまにはジープも休ませてやれと、また八戒の奴が煩せぇしな。ここを発つのは二、三日先だ」 「…………」 「ンなに寝てぇなら気が済むまで寝てろ。わざわざ誰も起こしゃしねぇよ」 勝手にしろ。ふいっと逸らしたその横顔に、そんな文字が書かれている。 まさか、そんな答えが返されるとは思わずに、が再び目を丸くした。が、三蔵はそれ以上はもう何も言わず、そのまま部屋を出て行った。 ばたり、と扉が閉じられた後に残るのは、未だ呆然と立ち尽くすの姿のみ。灰皿に残るマルボロの吸殻と、寝乱れて皺になったベッドシーツの他には、昨夜の痕跡など何処にも無い。 別に、証が欲しい訳ではないのだが――部屋いっぱいに満ちる静けさが、寂しい。、 そして。そんな感情に囚われる自分自身にも、また無性に腹が立って。は、もうとっくに扉の向こうに消えた相手に向かい、袖口に仕舞っていた飛刺を取り出し、力いっぱいに投げつけた。 「――いっそどっかで刺し殺されてらっしゃい、この罰当たりクソ坊主っ!」 かかかっ! 軽快な音が響き、抜き放った小さな凶刃が数本、扉に突き刺さった。 悔しい。悔しい。悔しい。ここまで頭に血が昇ったのは、一体いつ以来のことか。少なくともこの数年は、殆どそんな事は無かった筈である。 昨夜、さんざん痴態を晒してしまった恥ずかしさ以上に、怒りが強くこみ上げる。何故にこうも腹が立つのかは、自分でもよく分からないのだが。 ただ、とにかく腹が立った。 ――真剣に迷って悩んだ自分が、馬鹿だった。 あの男にしてみれば、多分、何もかもが何でもない事なのだ。でなければ、あんな真似など出来る筈がない。 ならば自分も、意地でも今まで通りで在り続けてやる。間違っても、『所有』なんかされてやらない。。 例え、募る想いが更に重みを増して、この胸を深く切り刻んでも。 「…………寝よ」 己を落ち着けるために、二、三度深呼吸をして、が再びベッドに戻る。 せっかく朝寝坊が許されたのだ。いつ、また刺客が襲ってくるかも知れないが、それまでは存分に眠らせて貰おう。 身体の火照りはともかくとして、腰の辺りが未だに痛い。半分は自業自得とも言えることだが、身体を動かす度に覚える疼痛もまた、何とも腹立たしくて癪に障る。 熱に浮かされて一夜を過ごした後は、眠って身体を休めるに限る。でなければ、きっといつもの自分に戻れない。 「……この、お子様っ……!」 ベッドにもぐり込み、シーツを頭まですっぽり被り込んだが、心底忌々しげにそう呟いた。 誰宛に発した言葉なのか、自分自身でもよく分からないままに。 目を閉じたその瞬間――扉の向こうで、「ゆっくり休め」と言われたような気がした。 |