Only Oneその日は、街中が熱気に溢れ返っていた。 見かける家の玄関という玄関に深紅色で彩られた護符が貼られ、窓という窓にも門箋(もんせん)や窓花(そうか)の賑やかな色彩が見える。あちこちの店先で威勢の良い掛け声と共に、菓子や縁起物が売られている。それを買う客も、売る店員も、口々に「万事如意」「恭喜発財」と笑いながら、互いに生きて新年を迎えた喜びを分かち合っていた。 街中に吊るされた堤灯の明かりの下、五色の布の装飾が時折吹く風に揺られながら、祝賀の華やぎを醸し出す。ぱんぱんと派手に鳴らされる爆竹の音をBGMに、大勢の人が行き交う。寺院前の通りでは廟会(縁日)が開かれ、客たちのはしゃぐ声があちこちから聞こえてきた。 長安のような大都市には遠く及ばないが、街中が活気に満ち溢れており、この様だけを見ていると、まるであの『異変』さえもが遠い出来事のような錯覚に陥る。 世の憂き事を暫し忘れ、今、生きている喜びを。明日さえ知れぬ毎日だからこそ、せめて一時だけは良い夢を。 典型的な春節であるこの光景は、少し穿った見方をすれば、麻薬中毒的な明るさを帯びていた。 そんな、朱と金と極彩色に溢れる夕暮れの街の中で。 「なぁなぁ、次、これ食いたい!」 悟空が、店頭でほかほかと勢い良く湯気を立てる蒸篭を指差した。 いつもなら悟空がねだる相手は、保護者か保父のどちらかだが、今は二人ともここに居ない。今頃はきっと、祭りの様子を窓越しに眺めながら、渋く茶でもすすっていることだろう。もう一人は、悟空が声を掛けるより先に勝手に出掛けてしまっていた。 という訳で、今日の悟空に付き合っているのは、ただ一人である。出かける際に、青地に金糸の刺繍が入った旗袍(チーパオ:ここではチャイナドレスの意)に着替え、髪を軽く結い簪を挿してめかし込んだのは、ちょっとした洒落というものだ。 がいくらかの小銭を渡し、「程々にしないと、後で怒られるわよ?」と一応はたしなめる言葉を口にすれば、悟空が笑いながら「判ってるって!」と口先だけの返答を返し、ずらりと並ぶ点心を前に目を輝かせた。 焼きそばに大根餅、包子(パオズ:肉まん)、焼売、刈包(クワパオ)、腸詰に焼き豚に月餅に麻花。出る前に皆で(内、一人は非常に煩わしそうな顔をしながら)餃子や魚団子を食べたというのに、毎度のことながら悟空の食欲には際限が無い。 付き合っていると、祭りの間に二、三キロは太りそうだ。密かにそう懸念するの気持ちも知らずに、悟空はたんまり買い込んだ点心の袋の中から、開口笑を一つ取り出し、 「これ、すっごく美味いんだぜ。も食ってみろよ」 こんな風に言われれば、勝てる筈がない。諦めてが受け取れば、悟空が満面の笑みを浮かべた。 そんな調子で露天を覗きながら、ふざけ半分に腕を組んで歩いてみれば、何処かから「仲が良いねぇ、お二人さんっ!」と冷やかす声が飛んできた。囃して持ち上げた後に簪か指輪でも買わせよう、という店側の魂胆は見え見えだが、悟空はその手の冗談を向けられるのには不慣れらしく、赤くなりながら慌てて否定した。 その様を可笑しげに見守りながら、がさり気なく袖を引いて悟空を店から遠ざけ、獅子舞や大道芸の方へと誘導する。連中の商魂逞しい掛け声から巧く逃げおおせたことに、悟空がほっと安堵の息を吐いた。それがまた可愛く思えて、は密かにまた笑みを零す。 街の中央にある広場から、大きな銅鑼の音が響いてくる。獅子舞か龍踊りでも始まったのだろうか。 「行ってみようぜ!」賑やかに打ち鳴らされる太鼓の音や、上がる人々の歓声に誘われるように、今度は悟空がの腕を引いて歩き出した。 新春を祝う祭りの空気は、日々修羅道に明け暮れる者をも、名も無き一介の旅人へと変える。皆も一緒に来れば良かったのに、と小さく呟いた悟空の一言に、も心の底から同意した。 そんな時である。悟空に手を引かれ、人の波を縫うように歩くの肩に、誰かがぶつかった。 「おい姉ちゃん、人にぶつかっておいて何の挨拶もなしかよ」 見るからにむさ苦しい風貌の男が、何とも捻りのない台詞で絡んできた。 やれやれ、とその場に足を止めたにつられて、悟空も訝しげな顔をして立ち止まる。 そんな二人の姿を交互に見比べ、一体何を思ったのか。男は無精髭を生やした口元ににやり、と笑みを浮かべ、頭上から酒臭い息を吐きながら、 「姉ちゃん、ンなガキなんぞ放っておいて、俺たちと一緒に呑もうぜ。折角生きて迎えた春節だ。お互い、存分に楽しもうじゃねぇか。なぁ?」 「お前ら、から手を離せよ!」 「煩せぇ、ガキは黙ってろ! どうだい、悪い思いは絶対させねぇぜ。――」 ああ、五月蝿い。馴れ馴れしく肩に回されたごつい手も、ぷんぷんと漂う酒気も何もかもが。 は差していた簪をすっと抜くと、先端を男の脇腹に突きつけて、 「悪いけど私、連れと居る方が楽しいの。さっさと消えて頂戴」 「あぁ?」 の手に握られた簪が、堤灯の光を受けてきらり、と煌いた。 その先端に刃は無い。たかがゴロツキを脅すのに、そんなご大層な得物は必要無いだろう。旗袍(チーパオ)の袖口や太腿に隠した暗器の類は、万が一襲撃を受けた時のために取っておくことにする。 「威勢がいいねぇ、姉ちゃん。ますます好みだぜ」調子付いて笑みを深くした男に、もにっこりと微笑み返して、 「お兄さん、『点穴(てんけつ)』って知ってる? 気功の一種なんだけど」 「あん?」 「最近は治療に使われることが多いんだけどね、本来は武術の一種なの。 突く箇所次第では、相手を麻痺させたり痛めつけたり――殺すことだって出来るわ。刃物無しで」 「…………」 簪の先が、つ、と男の脇腹を軽くなぞった。 湛える微笑みはあくまで穏やかであるが、向ける眼差しは鋭く冷たい。その剣呑さに気圧されて、男がその場に固まった。 「じょ、冗談はよそうぜ姉ちゃん。そんな事、そう簡単に出来る筈が――」笑みを引き攣らせながら喋る声が、僅かに震えている。見かけによらず、随分肝の小さい男だ。 「馬鹿ね。本当に技を会得してるなら、『はい、出来ます』って素直に言う訳無いじゃないの」 「そ、そうだよな。幾ら何でも――」 「出来ます、って答える前に相手を殺してるわよ。元々、暗殺術の一つなんですもの」 「…………」 さらりと答えたの一言に、男が完全に凍り付いた。 勿論、が簪で突付く箇所には、相手を殺せるような点穴は無い。ただのハッタリである。 が、それでも、ただのごろつきには十分な脅しになったようだ。は完全に硬直した男の手をぱっと振り払うと、簪を元通り髪に差し、「命が惜しいなら、もっと行儀良く祭りを楽しむのね!」と、悟空を連れてその場を後にした。 |
そうして暫く歩いた所で――不意に、悟空が足を止めた。 「……何でさぁ、は……」 「え?」 「は何で、一人で何でも片付けるんだよ。俺も傍に居たんだから、頼ってくれたって良かったのに」 俯き加減なその顔に、いつもの明るい笑みは無い。真摯な輝きを帯びた黄金色の瞳が、不満げな色を帯びて揺らいでいた。 背後では大きな銅鑼の音が鳴り、獅子舞の演技に湧き上がる人々の姿がある。ぐるりと取り囲む人々の目の前で、色鮮やかな獅子が華麗に技を披露し、拍手喝采を浴びていた。 が、悟空もも、そちらの賑わいには全く関心を寄せず、無言で立ち尽くすのみである。傍を行き交う通行人が、怪訝な顔をしながら脇を通り過ぎた。 「がめっちゃくちゃ強いのは、俺だってちゃんと知ってるよ。何だって一人で出来るし、敵だって一人で倒せるし。 俺たちと一緒に旅するずっと前から、一人で旅してんだもん。強くて、誰も守らなくても大丈夫だけど」 「………………」 「でも、今日は春節のお祭りで、もお洒落して来たんだろ。こんな時くらい、俺を頼ってくれてもいーじゃん。 ……。俺、ンなに頼りない? やっぱガキだって思ってる?」 至極真剣な訴えに、が返す言葉を失っていた。 先程のような一件など、にとっては些細な面倒事でしかない。だから、さっさと片付けただけである。 が、それが却って、悟空のプライドを傷付けてしまったらしい。その事実に今更に気付き、は自身の失態を悔いる。 と同時に。悟空のその真摯な表情に、(この子も、こんな顔するようになったんだ……)と、深い感慨を覚えた。 遠くからは爆竹の音が派手に響き、立ち止まる二人の頭上から、誰かが投げた紙吹雪がひらひらと舞い降りてきた。 まるで、散りゆく桜の花びらのように。 ごった返す人込みのあちこちから、賑やかな喋り声が聞こえてくる。陽気に笑い合う人々の上にも、紙吹雪は降り注いだ。 その光景を悟空の肩越しに見詰めながら、はふっと小さく溜息をついた。 永久不変のものなんざ、つまらないだけだ。誰かが言ったその言葉が、の脳裏を一瞬掠めて消える。 暫し、沈黙した後に。 「あのさぁ、――欲しい物とか、やって欲しい事とか、何かある?」 「え?」 の顔を伺うようにしながら、悟空がそっと尋ねてきた。 唐突な話題の転換に付いて行けず、が目を丸くすると、彼はにぱっと明るく笑って、 「だってさぁ、今日こうしてお祭りに来れたのって、が『一緒に行く』って言ってくれたお陰だもん。 俺一人だったら多分、三蔵もいいって言わなかったと思うんだ。だから、そのお礼」 「…………」 「あんま高い物あげたりは出来ないけど、でも俺、何だってするから。 だって俺、のこと、本当に好きなんだし!」 ひたむきな瞳が、をじっと見据えていた。 その黄金色の輝きはどこまでも澄んでいて、一点の曇りも無い。少年らしい純粋さと、男ならではの力強さを兼ね備えた眼差しが、ただ一人に向けられている。 揺らぐことなく真っ直ぐに。 明るく笑う笑顔の中に、悟空なりの好意が見て取れる。華やかな正月飾りの極彩色と、陽気な笑い声に満ちた雑踏の中で、その笑顔は一際輝いて見える。修羅道にも等しい旅の中、この笑顔にほっと心が和む事は多々有ったが、今日のこの表情はまた一段と澄んでいて眩しくて、は我知らず目を細めていた。 どれだけその手を血に染め抜いても、他者を傷付ける痛みに日々曝されていても、決して失われない優しさと明るさ。 本当の意味で『強い』子だと、は心の中で改めて賞賛する。 だけど。 ―― 何故、私を“好き”だと言ってくれるの? ―― 飼い主とペット。保護者と養い子。兄弟。親子。主従関係。一心同体。二人三脚。etc. 悟空と、一応は『最高僧』の称号を冠するあの男――今日は「騒がしいのは御免だ」と、ずっと宿に閉じ篭っているが――との関係を称するのに、様々な形容詞が思い浮かぶ。そのどれもが当て嵌まっているようで、全てが外れているような、そんな不思議な二人の在り様を、も日々目にしている。微笑ましい、とさえ思っている。 と同時に、その様を素直に見詰めていられない気持ちも、の中に確かに存在していた。 どす黒く澱んだ感情が常に、心の奥底でたゆたっている。 本当は、悟空に好かれる資格なんて無い。こんな汚い自分などには。 そういえば――二人がまだ長安の寺院に居た頃、僧侶たちは常に、悟空を羨望と嫉妬に満ちた目で睨んでいたらしい。 僧侶たちのそんな心理状態は、とても笑えたものじゃなくて――もしかしたら自分も、彼らと同じかも知れないとさえ思う。間に割り込めないと分かるからこそ、余計に焦がれて妬けてしまうのだと、理屈ではなく心で理解出来てしまうのだ。 そして。そんな心境にある自分自身を、は酷く嫌悪していた。 一点の曇りもない純粋な瞳は、まるで磨き上げた鏡のよう。 映る自分の醜い姿が直視出来ずに、は思わず目を逸らす。 「? どうかした?」 「……ううん。何でもないわ」 雑踏の中に、我知らず漏らしたため息が零れ落ちる。 と、その時、不意に北風が街を通り抜けた。 行き交う人々の熱気の中では、流石に寒さを感じることはないが、それでも頬に触れた風はやはり冷たい。見上げる空もすっかり暗くなり、無数に灯された堤灯の投げかける光が、街に溢れ返る朱色と金色の煌きを際立たせる。 街中に溢れる空気はどこまでも陽気で、明日への憂いなど微塵も感じさせない。桃源郷全体に拡がるあの『異変』さえ、何処吹く風といった様相だ。 夜が更けてゆくにつれて、人々の笑う顔に享楽的な趣が加わる。あちこちで響く爆竹の音も、一層大きくなったようだ。 見渡す限りに溢れている飾り付けの金色が、無性に忌々しい。 「本っ当に、何でもいいからさ!」 暫し逡巡するの顔を、悟空がわくわくと期待に満ちた瞳で見詰めている。 その眼差しはやはり、素直な好意だけが存在していて。 ―― 本当に、本当に何でも言っていいの? ―― は心の中だけで、悟空に幾度もそう問い掛ける。 その胸の内に渦巻く感情は、まさに清濁入り乱れると呼ぶにふさわしいかも知れない。 彼に何を願おうか。 彼に何を求めようか。 密かにため息を付くその裏側で、様々な願い事が幾つも浮かんでは消えてゆく。 その足元では、少し前に宙を舞っていた紙吹雪が、歩く人々の足に踏まれ、地面の色に染まっていた。その様を目にし、我知らず苦い笑みを浮かべつつ、がもう一度顔を上げた。 「本当に――何でも聞いてくれるのよね?」 「勿論!」 即答して屈託なく笑う悟空の顔が、限りなく眩しい。 「そうねぇ、じゃあ――」 堤灯の投げかける光が、の髪に差した簪も、纏う旗袍(チーパオ)の刺繍の文様を、金色に煌かせる。 深く息を吐いたその拍子に、胸に描かれた大きな金の花が、揺れた。 こんな事を言ってしまったら、悟空はまた怒るだろうか? 願い事を決めた後にも、些かの不安が脳裏をよぎるけれど。 それでも。 「じゃあ、お願いだから、――悟空、明日も明後日もその先もずっと、そうして笑ってて頂戴」 真に心から願うのは、ただ、それだけ。 街中が刹那な彩りと笑い声にあふれる日に。 |