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「私、馬鹿は嫌いなの。悪く思わないでね」 宵を過ぎ、いよいよ賑わう安酒場の片隅で、がそう吐き捨てた。 冷ややかに投げ付ける眼差しの先には、床に突っ伏した酔っ払いが三人程。皆、屈強な体躯の持ち主ではあるが、膝や腹、股間を押さえて三者三様に呻くその様は、ただただ情けないの一言に尽きる。 一息ついたが、ふと顔を上げると。カウンターの向こう側で、店主が僅かに眉を顰めるのが目に入った。 「………………」 「………………」 ずっと無言を通しているが、目線は割れたグラスや皿の数を数えている。多分、後で賠償請求するつもりなのだろう。 出来ればこの店主から、もっと話を聞いておきたかったのだが、この様子ではもう無理に違いない。 良い仕事に結び付きそうな情報は、未だ何一つ得ていない。が、これ以上この場に長居したところで、頑なになった店主は何も喋ってはくれないだろうし。それに自身、酒臭い息を吐きながら言い寄って来るナンパ野郎には、もういい加減辟易していた。 一度こんな騒ぎが起これば、以後は誰も近寄らなくなるのが普通だが、今夜は少し違うようだ。現に、に迫って張り倒された命知らずは、この連中でもう四組目になる。 昨今の『妖怪たちの狂暴化』という現象は、人間たちの知性をも狂わせていくのだろうか。そんな、憶測とも呼べぬ下らない想像が、の脳裏を一瞬かすめてゆく。 「あ、弁償させるならそっちにお願いね。先に声を掛けたのは、私じゃないんだから」 「………………」 他の客たちが興味本位に見守る中で、がしれっとそう言うと、無言の店主はますます表情を渋くした。 その反応に僅かに苦笑しながら、が店の出口に向かい、くるりと踵を返した――ちょうどその時、 「随分と物騒な女性(ひと)ですねぇ、貴女。見かけに依らずに」 唐突に、甲高い男の声がした。 つ、とが視線を滑らせると、壁際のテーブル席でにこにこと笑う、細身の男と目が合った。 頬の削げた面長な顔に、生気をまるで感じさせぬ白い肌。白い装束に身を包み、得体の知れない笑みをたたえた口元には、細い棒を何本か咥えていた。その席には酒や料理の類は殆ど並んでおらず、空になりかけた小振りなグラスが一つ、申し訳程度に置かれているだけである。 訝しげに見つめ返すに向かい、男は更に話し掛ける。柔和な、しかし掴みどころのない微笑を保ったままで。 「いけませんねぇ。女性はやはり、貞淑で従順でしとやかでなければ。そんなことでは、婚期を逃してしまいますよ?」 男は決して、大声で喋っている訳ではない。席も、そこそこ離れている。 それでも、周囲の喧騒にかき消されることなく、こうしてはっきりと聞き取れてしまうのは、一体何故だろう。 「余計なお世話ね。第一私、結婚になんて興味ないもの」 が返した言葉の内に、強い不快感が滲む。 が、男はまるで意に介することなく、ますます笑みを深くして、 「おや、そうなんですか? それは勿体無いですねぇ。貴女程の器量なら、群がる男も星の数でしょうに」 「…………」 「それとも……やっぱり、過去にめぐり逢ったただ一人の男性(ひと)を、今もずっと忘れずにいるんですか? いやはや、今時珍しく一途な純愛話ですねぇ。お相手が羨ましい限りですよ」 「――ちょっと。貴方、私に喧嘩売ってるの?」 一人でうんうんと頷く男の台詞に、の表情が更に険しくなった。 そして。つかつかと席に近付くと、ばん、とテーブルを叩いて、 「あのねぇ、勝手に人の過去を捏造して、勝手に納得しないで頂戴。 それ以前に、見ず知らずの人間を捕まえて言う台詞じゃないわよ、それ。失礼とは思わないの?」 「おや、違いましたか?」 「違うなんてものじゃないわよ。大体、私の何処をどう見れば、そんなでたらめ話がでっち上げられるのよ?」 「……おかしいですねぇ、我(ワタシ)の看た卦では、確かに……」 憮然と言い募るに、男は僅かに首を傾げながら、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。 その呟きを聞きとがめ、が「卦って?」と尋ねると、男は傍らから、す、と一個の麻雀牌を差し出して、 「我の牌は未来を占うんです。場合によっては過去も運命も因業さえも、この我の望むままに、ねぇ」 「占い?」 「ええ。我、清一色の占いはよく当たると、皆さん口を揃えて仰いますよ」 『業』と書かれた牌を示しつつ、笑ってそう答える男――清一色の言葉には、些か自慢げな響きがあった。 言われて改めてよく見れば、彼が身に纏う装束や帽子は確かに、巷の易者が用いるそれである。では、漂うこの得体の知れない雰囲気は、商売柄故のことだろうか。 胡散臭げに見詰めるに、清一色は更に幾つもの牌を取り出しながら「もっと占いましょうか?」と愉快そうに笑った。が、は素っ気無く「要らないわ」と返し、更にこう言葉を続ける。 「悪いけど私、占いの類は嫌いなの。どうせなら、もっと有り難がる相手を選んだらどう?」 「……はぁ。でもまた、どうしてお嫌いなんですか?」 「そんなの決まってるじゃない。運命、なんてのが、思いっきり気に入らないからよ」 一瞬、ふっと視線を逸らしたの表情を、清一色は興味深げにしげしげと見つめ返す。 が、はその眼差しに気が付くと、再び相手を睨めつけて、 「大体貴方、それで商売やってるプロなんでしょ? こんなところでただ見なんかして、一体何の得になるのよ?」 「得にはならなくても、意味は有りますよ。まぁ、ただの暇潰しですけど」 「暇潰し?」 「ええ。我があの人に会えるまで、まだ少し時間があるようですからねぇ」 いきなり、夢見るような顔をした男の様に、は自身の質問が失言だったことに気が付いた。 が、時既に遅し。清一色は頬にそっと手を当てて、ほうっ、と甘ったるいため息までついて、 「焦がれ続けたあの人に、ようやく会える時が来たんですよ。我はずっと、ずっとこの時を待ち続けていました」 「………………」 「こんなにも想い続けているというのに、あの日からずっと、遠くから見ているだけしか出来ませんでした。 ですが、今度こそ、今度こそあの人をこの我の手に――」 「……あー、はいはい。のろけ話なら他所でやってね。私、聞いてられる程お暇じゃないから」 あらぬ方向を向いて、夢見るように勝手に語り始めた清一色に、は軽い脱力感を覚えた。 どうやら、今日は厄日らしい。肝心の仕事にはありつけなかったばかりか、こんな得体の知れない易者に捕まってしまうとは、ツキが無いにも程がある。 その上、そんな腑抜けた惚け話など聞かされようものなら、それこそ気力も何もかもが尽きてしまうだろう。他人の事は勿論、自身の恋愛にすら興味のないにとっては、如何な熱愛話だろうと苦痛にしかならないのだ。 あからさまに嫌な顔をしたに、「付き合いの悪い方ですねぇ」と清一色が小さくぼやく。が、は「私には関係ないもの」とすっぱり切り捨て、さっさとその場を後にする。 出口に向かい、他のテーブル席の合間をすり抜けて歩くに、また酔っ払いたちが誘いの声を掛けてくるが、それらにも完全に無視を決め込んだ。 そう云えば。清一色と話す間、周囲の騒音が殆ど聞こえていなかったような気がするのは。 ただの、思いすごしだろうか。 と、その時、 「――ああ、ちょっとごめんよ」 不意に、一人の女と肩がぶつかった。 年の頃なら三十の半ば、豊満な身体付きに薄めのショールを軽く羽織った、少々化粧の濃い女だった。彼女は、に向かい「悪かったね」と軽く頭を下げると、そのまま清一色の居るテーブルへと向かっていく。 ふと興味を引かれ、が再び振り向くと。その女が、清一色に占いをせがむ様がそこに在った。 ――ま、信じる信じないも、人の勝手でしょうけどね。 えらく真剣な面持ちな女の姿を、はひどく醒めた目で眺めていた。 が、それも束の間のことだけで。彼女らからふっと視線を外すと、はいよいよ賑わう客たちの間を通り抜け、店の出口へと足を進める。 明日こそ、良い仕事の話にめぐり会えるように、と。切なる願いを胸に抱えながら。 扉に手をかけたその瞬間――背中に、刺さるような視線を感じたのだが。それにも、敢えて気付かない振りをした。 これ以上馬鹿の相手をさせられるのは、もう勘弁して欲しい。 |