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逗留先である宿に戻り、熱いシャワーをざっと浴びてから。は濡れた髪を拭きつつ、ベッドに腰を下ろし、自身の煙草を一本銜えた。

かちっ。

安いだけが取り柄の一人部屋では、ライターの着火音さえ耳障りに聞こえる。
そんな静寂の中で。は頭からタオルをかぶったまま、胸一杯に紫煙を吸い込み、深くゆっくりと吐き出した。
その合間にも、濡れた洗い髪の先からぽたり、ぽたりと水滴が落ち、衣服やシーツを濡らしてゆく。が、はそれを気に止めずに、黙々と紫煙を燻らせ続けた。
俯き加減なその顔を伺う者は、この部屋には誰も居ない。だから、銜えた煙草の先から灰が落ちても、特に気がねする必要もない。
それが良いのか悪いのかは、また別の問題になるのだろうが。

「………………」

味気なくふかし続ける煙草の煙が、ますます部屋を白く曇らせてゆく。その様は、未だ胸に引っ掛かるあの易者の言葉と相俟って、の気分を複雑に乱していた。
そんな時である。窓際で、かさかさっ、と小さな物音がした。

―― ……?

閉めた筈のガラス窓の傍で、何かが動いている。
微弱な気配から察するに、どうやら襲撃者の類ではないようである。では、一体何だろう?
不思議に思い、が短刀を片手に近付くと――ムカデが一匹、窓の桟で蠢いていた。

――何で、こんな所に?

赤褐色なその姿を眺めつつ、は暫し首を捻った。
街中にムカデが居ること自体は、そう珍しいことではない。こんな安い宿屋では、こういう事もたまにある。こんな事くらいでいちいち騒いでいては、剣客稼業などやっていられない。
ここが繁華街の中の宿屋の、三階にある部屋なのだという点が、多少引っ掛かりはするものの。まあいいや、とばかりには窓のガラス戸を開け、そのムカデを外へと払い落とした。
と、その時、

とんとんっ。

「――さん、ちょっといいかい?」

扉をノックする音に続けて、宿の主人の声が聞こえる。
こんな時間に何の用だろうか。はかぶったままだったタオルをベッドに放り投げ、念のためにと先程の短刀を後ろ手に握り、少しだけ扉を開けた。

「お客さんにこんな話をするのは、こっちも気が退けるんだけどねぇ――」

扉の向こうに居た主人は、妙に暗い表情をしている。
そして。に「あんたを疑ってるとか、そういう訳じゃないんだよ」と前置きした後に、こんな話を始めた。






「あんたがうちの宿に来る、二週間くらい前からかねぇ。あんな事件が起こり始めたのは」

ぽつぽつと語る主人の口調は、客商売とは思えぬ重苦しさがあった。
それもその筈である。主人の話によると――少し前から、この周辺の街や村で、突然怪物が発生して暴れ回るというのだ。
は最初、巷で騒がれる妖怪の狂暴化の影響だろうか、と考えた。が、どうやら少し違うらしい。

「殺された連中は、殆どが街や村の住人だったんだ。
 で、被害者の大半は浮気やら不倫やら家庭内暴力やら、ややこしい問題を抱えてた人でねぇ――」

最初の被害者となったのは、近隣の街でも有名な浮気性の男だった。
外の女に入れ揚げては大金を貢ぎ、家庭には生活費もろくに渡さない。女房に泣かれて手を引いても、またすぐに女性問題を起こす。そんな男だっただけに、周囲の人間はまず最初に、泣き続ける妻へと疑いの目を向けた。
が、しかし。男が死んだその二日後――街の外れの竹林に、男の愛人と女房の遺体が並んで転がっていたらしい。
そのどちらもが、腕や足を何物かに噛みちぎられ、二目と見られない程に無残な姿だったという。

「最初の頃は、『これこそ天罰だ』なんて陰で笑ってる人も居たもんだ。ほら、最近はいろいろ危ないこともあるからねぇ。
 誰が何処でどんな目に遭っても不思議じゃないから、皆も一応は気を付けよう、って言ってたんだ。でも――」

その後も、同様の事件が立て続けに起こった。
まず最初に、近所でも悪評高いろくでなしや浮気性の者が殺され、続けてその連れ合いが死体で発見される。時には、浮気相手と推測される者も一緒に息絶えている。まるで判で押したように繰り返される、痴情で絡み合った者たちの哀れな最期。
そんな被害者たちの中には、少し火遊びを楽しんだだけの旅行者も、少なからず含まれていたらしい。



こんな一方的な調子で話が続く、その最中のことである。
が何気なしに視線を辺りに巡らせていると――廊下の片隅にぽつんと、小さな影が動いていることに気が付いた。

―― ……人形?

その周囲が暗いのでよく見えないが、どうやらからくり人形の類らしい。
子供を象った丸い頭に中華帽をかぶり、色鮮やかな長袍を身に纏っている。小さな両手をちょこん、と身体の前に差し出し、かたかたと音を立ててこちらに歩み寄ってくる姿は、まさに給仕のそれである。素人目にはよく判らないが、その動作から察するに、精巧な作りであると云えるだろう。

だが。こんな人形が、何故こんな場所にあるのだろうか。

「………………」

人形はぴたり、と動きを止めると、僅かに首を上に上げた。
特に何をするでもなく、ただ。ぱっちりと開いた大きな瞳で、の姿を見つめている。
廊下を占める薄闇の中から、じっと。身動き一つせずに。

無機質なその眼差しが、身に突き刺さる。

「――――ちょっとあんた、聞いてるのかい?」

苛立ったような主人の声に、がはっと我に返った。
慌ててそちらに目を向けると。相手の眉間には、何本もの深い縦ジワが刻まれている。話の途中で余所見されたことが、やはり癪に障ったらしい。
が素知らぬ顔で「どうぞ」と促すと、主人は一瞬ぴくり、とこめかみに青筋を立てる。が、それでも止める気にはならなかったらしく、その話は更に続いた。



「あんたは身持ちが固そうだから、大丈夫とは思ってたんだけど、でもやっぱり心配で――」

いい子だと評判の若い娘も殺されていたから、と、主人は複雑な顔をしてそう付け加えた。
確かに、本人には何の問題もなくても、他人がどう思うかまでは分からない。そんな事も、巷ではまあよく有ることだろう。

「そのうち親子でも兄弟でもお隣同士でも、やっぱり同じような事件が起きてねぇ。お陰で皆、毎日びくびくしながら生活してるよ」

揉め事を起こした人ばかりだけど、と語る主人の口調にも、やはり怯えの色が見え隠れする。
ただでさえ物騒なこのご時世に、そんな事件が身近で多発していては、不安になるのも無理はない。敢えて危ない道を進む者ならいざ知らず、市井の人間はそれが正常な感覚だろう。
だが。主人にえんえんと付き合わされるの方は、その内容はともかく、話の長さに辟易していた。言いたい事が有るのなら、そんな遠回しなことをせずに、もっと単的にお願いしたい。
と、いう訳で。話に間が空く一瞬を狙って、こう切り返してみる。

「――で? どうしてわざわざ、私にそんな話をしに来たの?
 宿泊客へのサービスにしては、ちょっと非常識な時間だとは思わない?」
「あ、いや、それは……」

に逆に尋ねられ、主人がもごもごと口篭もった。
更に問い詰めてみると、どうやら先程の酒場での騒動を人づてに聞いて、つい助けを求めに来たらしいことが判った。成る程、街でこんな猟奇事件が起き続ければ、旅行者が近付かなくなってしまう。宿の主人が危機感を抱くのも、当然と云えば当然のことだろう。
あんな騒ぎを起こしたんだから、あんたも誰かの恨みを買ったかも知れない、他人事では済まない筈だ、と。自己弁護を図る主人の口からは、そんな脅しとも取れる発言さえ飛び出した。
そんな相手に対し、は当てつけに深くため息をついて見せると、

「悪いけど、依頼だったらもう少し時間と言葉を選んで頂戴。気が萎えるわ」
「…………!」

ばたんっ。

主人の返す言葉も待たずに、は勢い良く扉を閉じた。
勿論、閉じた扉の向こうからは、ぶつぶつと文句を言う相手の声が聞こえてきた。が、は敢えて取り合わず、再び煙草を一本銜えて火を点ける。
くゆらせる紫煙が天井を薄く包む頃には、主人の気配はすっかり遠のき、元の静寂が戻ってきた。

そう云えば――話を聞く途中に見かけた、あの妙なからくり人形は、一体何だったのだろう。
かたかたと口を動かす音が、いつの間にか聞こえなくなっている。何処かへ行ってしまったのだろうか。

――まぁ、どうでも良いことよね。

吸い終えた煙草を灰皿に棄て、部屋の明かりを全て消して。は小さく伸びをすると、さっさとベッドに潜り込んだ。
聞かされた事件のことは一応気になるが、今は眠気の方が強い。何より、睡眠不足は美容の敵である。いくら剣で食い扶持を稼ぐ身とはいえ、自分が女性であることも忘れたくない。
そんな訳で。はもうそれ以上は何も考えず、睡魔にゆっくりと身を委ねた。



そんな、灯りの消えた部屋の片隅で、また。ムカデが一匹、ごそごそと床を這っていたのだが。
は、全くその存在に気付いていなかった。









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