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「大体、何で貴方がこんな所に居るのよ?」 「仕事に行く前に、朝食を摂りに来たんですよ。我、何か変ですか?」 何がって、全部が変よ。 そう返してやりたいのを喉元で抑えて、は無言で食後の茶に口を付けた。 店内は客の姿もまばらになり、空いたテーブル席やカウンターを、給仕の若い娘が順に拭いて片付けている。開け放った窓からは、ぼちぼちと営業を始めた他店の物売りの声が聞こえてきた。 ふと向かいの席に視線を戻してみれば、窓から差し込む朝の陽の光の下、清一色が相変わらず呑気に茶を喫している。何時からこの店に居るのかは知らないが、前に並べた茶器一式の他には、料理皿の一つも置かれていない。まさか、朝の混雑時に茶だけで長時間居座っているのではなかろうか。店にとっては、何とも迷惑な客だ。 窓越しに見る街の平穏な風景に、その細い目を更に細めながら、「今日も好い天気ですねぇ」とのほほんと呟く様は、出勤前だと言う割には、随分のんびりし過ぎている。このまま放っておけば、一日中だってそうして過ごしていそうな雰囲気だ。 なのに、この男に対しどうしても警戒心を抱いてしまうのは、やはり昨夜の第一印象が悪かったせいだろうか。別に敵意を感じさせる訳でもないのに、意識の何処かで、常に形にならぬ警告が発せられ続けている。相手は刃物一本、凶器一つ取り出してはいないのに。 「ところで、今朝の事件は……街の人たちにとっても、相当にショックだったでしょうねぇ。 この街に来たばかりの貴女にはお判りにならないでしょうが、賞金額も、毎日高値更新中ですよ」 いっそ席を移ろうか。が思ったその瞬間、清一色が再び口を開いた。 たたえる微笑みもそのままで。こちらの反応を伺うように。 「最初の頃は誰だって、他人事だと思っていた。 それもそうでしょう、殺されていた人たちは皆、それぞれに問題を抱えていらした。脛に傷持つ身ならともかく、普通の人なら誰も、自分自身に重ねては考えない。多少は胸を痛めても、所詮は他人事ですから。それだけで終わっていました」 繰り返された言葉が引っかかる。わざと、その箇所にだけ力を込めたその言い草も。 食後の茶に再び口を付ければ、冷めた中身がやけに渋かった。 「ですが、殺されるのが身内や親しい者となれば、話はまた変わってくる。 正体の見えぬ殺人者を憎むあまり、隣人にさえ嫌疑をかける。何せ、こんな小さな街でのことです。犯人は余所者とは限らない、と考えるのも、まぁ自然な流れでしょう。ぎすぎすした笑顔が、そこかしこに転がってますよ」 男の癖に爪を伸ばした長い指が、戯れにすっと茶壷を撫でる。 丸みを帯びた輪郭をなぞるように、白く細い指がゆっくりと下に滑り降りた。 「人が人の世で生き続ける限り、誰とも関わらずには生きていけない。 ですが人と人とが関わり合えば、その分傷付く事も多くなってしまう。誰かに絶望し、妬み、憎む事もあるでしょうし、己が幸福を守るためだけに、他人を犠牲にする事だってあるかも知れません。 そうして、もし身近な人間が犠牲になったとしたら……募る憎悪も、殊更深くなるでしょうねぇ」 「………………」 「赤の他人が千人命を落とすよりも、身内が一人死ぬ方が悲しい。人間とは、そんな勝手な生き物です。 犠牲にされた誰かを思うあまり、他の全てを、無力な自分をも心から憎み、怨恨の捌け口を破壊行為へと求める。そんな恐い人も、何処かに居るかも知れませんしねぇ」 清一色が、不意にすっと手を上げ、奥の厨房に声をかけた。追加の茶を注文するつもりらしい。 いつまでここで茶を飲んでいる気だ。呆れるを他所に、彼は手元のお品書きへと目を落とし、出て来た従業員に注文を伝えて笑いかけた。 「美味しいお茶を頂くと、交わす会話も弾みますよ」ぬけぬけと言うその台詞がまた、癪に障る。 「だんだん釣り上がっていく懸賞額も、人と人の不協和音に拍車をかけています。 ちょっとした情報提供だけでも、小遣い程度にはなるんですから。話そのものの辻褄さえ合わせれば、勝手に何処かの誰かを犯人に仕立て上げる事だって出来てしまう訳です。もっとも、成功した方は居ないようですがね」 「………………」 「いつ自分や身内が被害者になっても不思議ではありませんし、逆に加害者としてでっち上げられるかも知れない。皆さん、毎日戦々恐々としておられますよ。本当に、お気の毒なことです」 「――あのねぇ。貴方、実は楽しんでたりしない?」 次第に俯き加減になった彼に、が眉を顰めつつそう言った。 質問、というよりは、殆ど意思確認に近い。その真意が伝わったらしく、清一色もまた、くっくっくっと低い声で笑った。 「おや、そんなつもりは無かったんですけどねぇ。そう見えましたか?」 「ええ、とっても」 「心外ですねぇ」 が憮然と燻らせる紫煙の向こうで、清一色は尚も笑っていた。 暫し、会話に間が出来る。黙々と煙草をふかすと、ただただのんびりと茶を楽しむ清一色との対比に、拭き掃除中の若い従業員が怪訝な顔をしながら傍を通り過ぎた。 無言で銜えた煙草の先から、細い線を描くように煙が立ち昇る。ふっと息を吐き出せば、たゆたう煙が一瞬大きく揺れ、爽やかな朝の空気の中ににじんで消えた。 そうして、が一本を吸い終わり、食後の茶にもう一度手を伸ばそうとしたのを見て、清一色が再び口を開く。 「折角お仕事も決まったことですから。また、占って差し上げますよ」 勿論、お代は要りませんよ。にこにこと笑う彼の申し出に、は露骨に顔をしかめた。 「占いは嫌いだって言ったでしょ?」が言うのもお構いなしで、彼は自身の服の袖口に手を突っ込み、ごそごそと中を探り始める。じっくりと探るその様が、如何にも、という感じで気分が悪い。 一体何を考えているのか。半ば無意識に身構えたの目の前に、彼は一個の小さな物体を取り出した。昨日と同じ、少し古びた麻雀牌だ。見せられたのは裏の面なので、何が書かれているのかは分からない。 「さて、我の牌が告げる貴女の未来は……」彼が、ゆっくりと表面を向けようとしたその時、 「ごめんごめん、遅くなっちまって。家で親父にとっ捕まってさぁ、えらく手間取って――」 店の扉が勢い良く開き、背の高い人影が現われた。あの青年、光亮である。 謝りながら歩み寄ってくる彼の手には、少し大きめで細長い布袋が握られている。その形状から、中身は大体だが察しが付いた。どんな業物かは不明だが、どうやらそれが彼の自慢の一品らしい。紺地に金龍の刺繍が入った袋の布地には、目立った破れや汚れはどこにも無く、彼が普段どれだけ大切に扱っているかが伺い知れる。 「もしかして、俺、邪魔だった?」と清一色とを交互に見やり、光亮は居心地悪そうにぽりぽりと頬を掻く。朴素で子供みたいなその雰囲気が、今だけは無性に有り難く思えた。 喋る機を失い、清一色が黙っているこの隙を見計うように。が自身の茶を一気に飲み干し、席を立った。 「おや、我の占いの結果は、聞かれないのですか?」 追いすがるように、清一色が訝しげな顔をして声を掛ける。が、はまともに振り返りもしなかった。 出てきた従業員に自身の注文伝票を渡し、「宿代と一緒につけといて頂戴」と言い残して歩き出す。向けた背中に、はっきりと拒絶の意を示しながら。あまりにあまりなその態度に、光亮は訳も分からず目を丸くした。 その様を苦笑いで見届けながら、清一色はやれやれ、とでも言いたげに肩を竦めてため息をつく。 そして、 「貴方も、あの女性(ひと)と一緒に行かれるんですよね?」 清一色は、今度はその微笑みを光亮に向けた。 「え? あ、ああ…」戸惑いながらも光亮が応じれば、清一色は満足げに深く頷いて、 「ですが、貴方がたの行く手には、幾多もの災難が待ち受けています。油断すると、一体どんな目に遭うか。 我の牌が告げていますよ。生半可な気持ちでは、命を落とすことにもなると」 「………………」 「我の牌は、誰かの心を映してもいます。笑顔の内にあるものが、喜びや好意だけとは限りません。 人の心は深くて暗い。くれぐれも、お気を付け下さいねぇ」 言いながら、清一色はくっくっと低い笑い声を漏らした。 表向けられた牌に書かれていたのは、『募』という墨の一文字。単純に考えるなら、そう悪い意味には思えないが、何故か無性に不安をかき立てられる。絶句した光亮のその様に、清一色は更に笑みを深くした。 そこに、が横から口を挟む。 「商売柄とはいえ、よくもまぁべらべらと無駄口ばかり叩けるものね。全く、大したものだわ」 「お、おい、あんた……」 「でもね、清一色。 占いが本職なら本職らしく、さっさと仕事に行きなさい。こんな所で、いつまでも油売ってるんじゃないわよ」 は苛立ちも露わにそう吐き捨てると、しっかりしなさい、と光亮の背をばん、と叩いた。 ついでに、清一色の顔をもう一度睨み付ける。剣呑な眼差しに、傍らの光亮は再び驚いたような顔をしたが、清一色はそれでも全く怯みもせず、ただにこにこと笑っていた。 「おや、やっぱりお気に召しませんか」いけしゃあしゃあと言ってのける台詞が、更にの神経を逆撫でする。 判っているんなら言うんじゃない。蹴り飛ばしたい衝動をぐっとこらえ、はさっさと店を後にした。 「で、現場は、ここで間違いないのね?」 「ああ。役所の連中が片付けた後だから、もう何も残ってないかも知れないけどな」 その後、二人で街の役所に行き、いろいろ話を聞いた後で――は街外れの川原へと足を運んだ。 先に役人たちから聞かされていた通り、確かにこの一帯にはまるで人気が無い。まだ昼下がりであるというのに、誰一人として傍を通る者が居なかった。 ぐるりと見渡す景色の中にあるのは、堤のすぐ傍に生い茂る竹林――以前に何度か、ここでも死体が見つかったらしい――と、川向こうに見えるだだっ広い畑のみ。何を植えているかは分からないが、さんさんと降り注ぐ日差しの下、すくすくと育つ葉野菜の緑が目に眩しかった。 振り返ってみれば、遠くに建物の影が幾つも見える。自分が泊まっている宿屋も、このうちのどれか一つだ。自分の足で歩いてみて実感したのだが、この場所は市街地から結構離れている。言葉通り、「街の外れ」と呼ぶべき場所だ。 目の前の川は、さして幅は広くない。今、と光亮が立っている堤の下は砂砂利だらけで、その間を縫うように水が流れている。聞いた話では、街の水源はもう少し大きな別の川だそうで、ここに用の有る人間はそう居ないらしい。 「ちょっと、ここで待ってて頂戴。傍まで行ってみるから」 光亮をその場に残し、は堤の下まで降りてみた。草が茂る斜面を滑り降り、水際まで近付いてゆく。 変死体が見つかったというその場所は、既にあらかた洗い清められていたが、よく見れば方々にチョークで印を付けた跡がある。もしも時間が時間なら、今降り立ったこの地点は、まさに血の海のど真ん中であっただろう。半日も経たぬうちに掃除したという事は、それだけ現場の状況が陰惨だったという事か。目を凝らしてみれば、未だ血痕が点々と残っている。 こんな辺鄙な場所であるにも関わらず、死体発見が早かったのも、その後の処理が迅速であるのも、やはり似たような事件が頻発している故だ。聞いた話では、街の人たちが持ち回りで巡回してもいるらしい。 でもやっぱり、もう少しだけ現場を保存しておいて欲しかった。がそんな事を思いながら、暫く辺りを探っていると、 ―― ? ―― 足元に、紙切れが一片落ちていた。 砂にまみれた小さなその紙には、墨で何か書かれているのだが、字の下半分が破り取られてしまっている。文字自体も、まるで記号か暗号のような訳の分からない形をしており、内容などさっぱり理解出来なかった。 が、しかし。例えその意味が分からなくとも、このような紙自体には覚えがある。多分これは、呪符だ。 「……この事件には無関係、だったら、ちょっと笑えるかもね」 は、自虐めいた笑みをこぼしながら、その紙片を拾い上げ、丁寧に折りたたんだ。 なくさないようにと気遣いながら、ジーンズのポケットにそっと入れる。その時、不意に、 「――お、おい、あれ!」 堤の上で、光亮が大きな声を上げた。 |