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「ば、化け物っ……!」

腰を抜かした光亮が、へなへなとその場に座り込んだ。
ただならぬその様子に、も急ぎ堤の上へと取って返し、思わず目を丸くする。

二人の視線の先――野菜畑の向こうに見えたのは、羽の無い昆虫によく似た、黒く巨大な怪物の姿であった。

黒光りするその体は、何メートルあるのだろう。ここからでも、その姿形がはっきり見て取れる。傍に在る木造の農具小屋が、まるで子供の玩具のようだ。
長く節くれ立った前足を絶えずすり合わせ、残る四本の足でずんぐりとした胴体を支えている。口に生えた鋭い突起が、がちがちとせわしなく動いていた。赤く輝く眼で周囲を見回すその様は、まさに獲物を探し求める虫の所作だ。
あの目にもし人間の姿が映ったら、一体どんな惨事が引き起こされるか。そう思ったその瞬間、は走り出していた。翻す長い黒髪の間で、左耳のピアスが黄金色に煌く。
「あ、おい、あんた! ちょっと待てよ!」光亮も慌てて立ち上がり、その後を追いかける。

「あんた、行ってどうするつもりだよ。あんな化け物相手にっ!」
「策ならあるから大丈夫。それより、貴方こそ、無理して付いて来なくて良いわよ?」

あっさり切り返したの台詞に、光亮が「あんた、マジ無茶だよ!」と嘆く。が、は答えず、ひたすら目的地に向かって走った。
その間も、怪物は口を大きく開閉しながら、しきりに辺りの様子を伺っている。こすり合わせる前足の先端が、日の光を反射して、鋭く物騒な輝きを放っていた。
最初に目撃したあの場所からは、直線距離ではそう遠くない位置だ。が、まさか耕作中の畑を荒らす訳にもいかず、脇のあぜ道を進むより他にない。ぐるりと迂回するように続く細く長い道が、体感距離をも長くさせる。
早く、早く。事が起こる前に、早く。走るの表情に、焦りの色が濃くにじみ出る。
が、しかし。

―― !? ――

あともう少しで辿り着ける。その時になって突然、怪物の身に異変が起こった。
蠢く所作はそのままで、まるでテレビ画面にノイズが紛れるように、黒く硬質な体躯の輪郭が乱れ、次第に色や形が失われてゆく。あまりに唐突な出来事に、も光亮もその場に足を停め、呆然と成り行きを見ているしかなかった。
立ち尽くす二人の目の前で、巨大な体が消え去る。咆哮一つ上げる事もなく、跡形もなく。

「な、なぁ、これって一体……!?」
「……お願い。私に訊かないで」

尋ねる光亮も答えるも、表情には困惑の色がありありと表れていた。
取り敢えずあの場所に行ってみて、事実を確かめるだけ確かめてみよう。結局そういう結論に至り、二人は再び、現場を目指して歩き出す。
(一体、何がどうなっているのやら……)胸いっぱいに占める戸惑いが、進む足取りを重くした。



そうして、ようやく辿り着いた農具小屋の傍には――案の定、何も無かった。

「………………」

思わず顔を見合わせた二人の足元で、青々と茂る雑草が風に揺れている。
見上げる先にあるのは、遥か遠くまで広がる青い空と、白い雲が二つ、三つぽっかりと浮かんでいる。少しだけ視線を下に向けてみれば、古ぼけた小屋の屋根の上で、小鳥たちが二、三羽、ちゅんちゅんと鳴きながら戯れていた。
肩透かし半分、安堵半分の気持ちで草叢を踏み分け、小屋周りを調べてみるが、ロクなものが見つからない。錆びた空き缶だの、壊れて捨てられた鍬だのといった、言わばゴミだけである。
あんな巨体が在ったのだから、足型の一つでも残っていて良さそうなのに。嘆息するの心中を他所に、辺り一帯はひたすらに平穏である。如何にも街の郊外、といったこの平和な風景は、本来喜ぶべきことなのだが、釈然としない。
あれを目撃したのは、紛れも無い事実である筈なのに、こうまで何も見つからないと、今度は自分自身を疑ってしまいたくなる。
(物を見る目には、少し自信あったんだけど……)口に出せない弱気な本音が、ため息と共に零れ落ちた。
そうして、二人がかりで暫く辺りを調べていると、背後で不意に、誰かが近付く気配がした。

「こんな所で何をしてるんだい、光亮?」
「……瑞妃姐っ……!」

現われた女の姿に、光亮がげっ、と苦虫を噛み潰したような顔をした。
その女は見たところ、三十代も後半か、もしくは四十代くらいだろうか。切れ長な目が印象的な、綺麗な顔立ちではあるが、目尻や口元にうっすら刻まれた小ジワが、彼女の年齢を暗に示していた。
唇には、紅の一つも挿していない。長く豊かな栗色の髪を整えもせず、身に纏った無地のワンピースも、色褪せ、皺だらけである。肩からかけた薄手のショールの片方が、だらしなく落ちていた。
虚ろな光を宿した褐色の瞳は、を全く見ていない。力無い微笑みを浮かべながら、光亮だけに話し掛ける。

「光亮、あんたも知っている筈だよね? ここは、私とあの人の大切な想い出の場所なの。
 貴方が何がしたいのかは分からないけど、勝手に荒らされちゃ悲しいよ」
「あ、いや、これには訳が……」
「そうだろうね。あんたにも事情が有るんだろううね。だから、ここに居るんだろう?
 ……私の気持ちなんて、悲しみなんて、あんたには全然関係無いだろうね……」

やんわりとした口調で咎められ、光亮が口篭もる。がその脇腹をそっと突付き、「この人誰?」と問いかける。
その間も、は油断無く彼女を見つめていたのだが、当の本人はまるで気にかけてない様子である。完全無視なその態度が、悪意あってのものなのか、それとも本当に見えていないのかは、うっすら浮かべた微笑みが邪魔をして見分けが付かない。

「ま、いいわ。今回だけは許してあげる。でも、次に見つけた時は、父さんに言いつけるよ」
「……分かった。悪かったよ」

光亮が説明するところによると、この女性、名を瑞妃というらしい。
若い頃は旅の一座の花形女優だったそうだが、座長が亡くなった後この街に流れ着き、そのまま住んでいるとのことだ。今は、市場にある店の一つで働きながら、時々酒場や宴席で歌ったり踊ったりして生計を立てているらしい。

「ここに来るとね、あの人との想い出がいつでも蘇ってくるんだよ。まるで、昨日の事みたいに。
 だからね。ここは、荒らさないで欲しいんだ。いつまでも、大事にしていたいから」

瑞妃の浮かべた柔らかな笑みに、光亮がほっと胸を撫で下ろした。
そんな彼と彼女の間に割って入るように、が尋ねる。

「済みませんけど――さっき、ここで何か見ませんでしたか?」

我ながら、えらく単刀直入な質問だと思う。が、他に言葉が思い付かなかった。
声を掛けられて、瑞妃は初めての存在に気付いたかのように、小首を傾げながらこう答える。

「さあ? 私、ずっとここに居たけど、何も無かったよ?」
「……そうですか。有り難うございます」

が軽く一礼すると、瑞妃はふう、と小さく息を吐いた。眉を顰め、如何にも不機嫌だと言わんばかりである。
そして。再び光亮一人だけに目を向けると、ゆっくりと歩み寄り、

「でもねぇ、光亮。こうして見ると、あんたも段々いい男になってきたねぇ。
 あの人にはまだ全然届いてないけど、でも、放って置くにはちょっと惜しい気がするよ」
「え、あ、はぁ!? 瑞妃姐!?」
「やだねぇ、いい男がうろたえるんじゃないよ。もう、子供じゃないだろ?」

瑞妃が嫣然と微笑みつつ、光亮の首元に白く細い腕を絡めた。
「あ、ちょ、よせってば!」光亮が慌てるのも構わずに、くすくすと笑いながらしなだれかかる。の存在は、すっかり忘れ去られてしまったようだ。
は仕方ない、とばかりに小さく肩を竦め、黙って踵を返した。

「あ、お、おい、待ってくれよ!」
「どうしたんだい、光亮? あんたまさか、この私に恥をかかせる気かい?」
「いや、そうじゃなくてさ。あ、おい! だから、待ってくれってば!」

瑞妃に泣きつかれながら、光亮が追い縋るように大声で叫ぶ。
これではまるで、愁嘆場のようではないか。そう思い、は思わず小さく吹き出した。
と同時に、全く違う考えも浮かぶ。

そういえば、瑞妃というこの女性――昨夜にも会った覚えがある。
すぐに分からなかったのは、多分、少し雰囲気が異なっていたからだろう。あの時はもっと歳若く見えたのも、きっと、会った場所が夜の酒場だったせいだ。

―― 全く、性質の悪い女性(ひと)ね ――

後方では、迫る瑞妃と逃げ腰な光亮の攻防戦が、まだ続いている。
その気配を背中で感じながら。は歩きがてら、上着のポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火を点ける。深く吸い込んで吐き出した紫煙が、黄昏に染まりつつある空に昇って消えた。
こんなのどかな夕暮れの光景を眺めながらふかす煙草は、格別に美味い。
これから、街に戻ってまた遺族に会ったり聞き込みしたりと、情報収集にかかるのだが、今だけ、少しゆっくり歩いて行こうか。不真面目だと自分でも思いつつ、はゆっくりと紫煙を燻らせ、視界に広がる平和な風景を堪能していた。
が、ふと、急に足元に妙な違和感を覚える。何事かと思い、一旦その場に立ち止まった。

「………………」

脚を伝う違和感の正体を知り、は思い切り顔をしかめた。
ジーンズの上にへばり付いていたのは、少し大きめな一匹のムカデ。一体いつの間にくっついていたのか、ふくらはぎの辺りで蠢きつつ、少しずつ上へと這い上がっていた。幸い、毒はジーンズの布地に阻まれて、肌までは届かなかったようだ。
気持ち悪い。がぱっと払い落とすと、ムカデはあっさりと地に落ちた。暗くなった地面の上で、それでもまだ動いている。
踏み潰してやろうか。は一瞬、訳もなくそんな事を思ったのだが、結局止める。例え相手が虫であれ、無益な殺生はどうも後味が悪いからだ。
ふっと紫煙を勢い良く吐き出し、は歩くスピードを速める。やっぱり、のんびりしている場合じゃない。
川原で拾ったあの紙片も気になるし、もしかしたら、事件を追い始めた同業者も他に居るかも知れない。ぼやぼやしていたら、それこそ足元を掬われる羽目になってしまう。
(この辺、そんなにムカデが多いのかしら?)そんな、どうでも良い事も考えながら、はひたすら、街を目指して歩を進めた。

急ぐその背を押すように。あぜ道の脇に茂る竹林の方から、烏が一羽、カア、と大きく鳴きながら空を横切っていった。









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