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その後、光亮は喋るだけ喋って気が済んだのか、ビールジョッキを一つ空けたところで「じゃ、また明日」と店を出て行った。 来る時には頭上に雨雲でもかぶっていそうな雰囲気だったのが、帰る頃にはすっかり快晴である。随分調子良いのね、と、は密かに呆れ返った。 そして。食後の一服を終えると、宿の主人が居ないのを目で確かめてから、隣の客に話しかけた。 「ねぇ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど。いい?」 「あん?」 赤ら顔で老酒を飲んでいた男の一人が、怪訝そうにを見つめ返した。 そのテーブルには、同じように酔っている中年の男があと二人。日焼けした顔が、揃っての顔をまじまじと見ていた。 如何にも余所者を見る目つきだが、好色めいた様相は無い。急に話しかけられ、戸惑っているという表情だ。 「今朝の事件を追ってるの」役所の方にもその旨申し出ている、とが告げると、男たちはそうか、と一様に頷き、知ってる事で良いのなら、と答えてくれた。 「許の大旦那は、そりゃ金勘定に煩いお人だが、若旦那はとても優しく穏やかなお人でな。 勿論、厳しい時には厳しいんだが、それ以外では俺らにも本当に良くしてくれてたよ」 聞いたところによると、彼らは、被害者の家の雇用人だという事だ。 許の家――今朝の被害者の実家は、幾つも田畑や農場を持っており、何人も人を雇い入れているという。田畑を耕す人々は、所謂小作人ではなく、ちゃんと雇用契約を交わし、充分な給料を貰っているのだと、彼らは念を押すようにそう言った。 だから、だろうか。遠慮がちに話す彼らの口調や表情に、悲しみの色がにじんでいる。 「あんだけ大きな家だし、大旦那がきっついお人だからな。よく知らん人は、若旦那のことも好き放題噂しとる。 あんな事件が起こったから、余計にな」 「………………」 「でも若旦那は、俺らの知ってる限りでは、絶対に人から憎まれるようなお人じゃない。 もし誰かの恨みを買うとしたら、大旦那の方じゃないかねぇ」 雇い主の事だから、大きな声では言えんがな。彼らは小声で、そう付け足した。 元々広い土地を所有しており裕福な家柄だから、と、時には街の住民が金を借りに行く事もあった。が、中には当然、その借金を返し切れず、担保にした土地や家を取られてしまった者もあったという事だ。 今、あの一家が持っている田畑の中には、そうして入手した土地も幾つか有るらしい。 但し。金を貸すのはあくまで相手を思うからで、決して欲絡みでは無かったと。土地や財産を無くした連中は、借りた金を酒や道楽に注ぎ込んでいたせいだ、と。 「大旦那は、金や商売に厳しいからねぇ。堕落し切った人間には、そう甘い顔はしないんだよ」 男たちの一人が、酒盃を弄びながらそう呟いた。 そんな話の途中で、は少々気になるような事も耳にした。 今日の昼間、あの怪物を目にした場所――今は廃屋となった農具小屋も、被害者の家の持ち物だというのだ。 「雨漏りが酷いから、近々立て直す予定だよ」答えた男は、何でそんな事を訊くのか、と不思議そうな顔をした。 まさか、変な怪物があそこに現われた、なんて話は、そう軽々しく言えるものじゃない。は、適当な事を言って追求をはぐらかした。 「――ま、俺たちが話せる事といったら、大体こんなもんかね」 「ありがと。助かるわ」 男衆の話――その大半は仕事や仲間の愚痴や自慢話で、聞くには少々忍耐力を要した――を聞き終え、は軽く頭を下げた。 そして、傍に居た従業員に声を掛けて、瓶ビールを二本追加注文する。謝礼代わりだ、と微笑んで言ってやると、男たちは随分と気を良くしたようで、「農場の他の連中にも、協力するように頼んでやるよ」とまで言ってくれた。 その台詞は、いまいち安請け合いな感は否めないが、真っ黒に日焼けしたその顔に、嘘偽りの色は無い。少なくとも、こうして見る限りには。当てに出来るかどうかは分からないが、まぁ覚えておいても良いだろう。 届いたビールで酌をしてやりながら、更に二つ三つ雑談を交わして、は席を辞す。 「姉さん、頑張ってくれよ」笑顔な男たちの声援が、立ち去る背中に届けられた。 自分の部屋に戻るべく、階段を一段一段登りながら、は暫し思考を巡らせる。 今聞いた話の中にあった、『あの家に恨みを持ちそうな人物』の氏名、数人分。確か、何処かで聞いた覚えがあったような。 こっそり取っていたメモを、今日の昼間、役所に行った時のメモと突き合わせてみよう。もしかして、という思いが、階段を登る足取りを速くさせる。話の中には出なかったが、勿論、あの紙片の事もまだ気に掛かっていた。 明日、また何か手掛かりが見つかりますように。心の底からそう願いながら、は部屋の中へと戻った。 だが――の切なる願いは、どうやら天に聞き入れられなかったようである。 「………………」 とっくに主を失い、朽ち果てた廃屋を目の前にして、は盛大にため息をついた。 明けて今朝、食事もそこそこに伺った家は、どこもこの有様である。昨日、せっかく長い長い愚痴交じりの話に付き合って、ようやく何人かの名前を聞き出せたというのに。その全員が、とっくに亡くなってしまっていたのだ。 しかも。たまたま病気で死んだ一人を除いては、皆があの一連の事件の被害者である。 その事実は、昨夜自室でメモを整理していた時に、一応は気が付いていたのだが――こうして目の前に現実として突きつけられると、やはり少々気が滅入る。 もし、同姓同名の別人であったなら。万に一つの儚い望みも、これで全て潰えてしまった。 住む者も無く、荒れるがままになっている家は、街の裏手という立地条件も手伝ってか、酷く寂れた印象を受けた。 表札も外され、新聞受には書簡や宣伝チラシの類がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。それらは長い間風雨にさらされたのだろう、既に色褪せ黄ばんでおり、見るからに汚らしい様相を呈していた。 玄関に鍵がかかっていなかったので、思い切って中に入ってみる。 誰も出入りしない空間だけに、中の空気は澱んでいるのかと思いきや、窓枠が壊れていたために、乾ききった外の風が幾らでも入ってくる。僅かに残されていた箪笥やテーブルの上は、外から入り込んできた砂や誇りが大量に降り積もっていた。 注意深く、部屋の奥へと足を進めてみる。足元で鼠が二、三匹走っていく。他には、何の気配もない。 ふと壁面に手を触れた拍子に、剥き出しの土壁のがぽろぽろとこぼれ落ちる。長い年月を経て、すっかり表面が脆くなっていた壁に、所謂壁紙の類は一切貼られておらず、ただ古びたポスターが一枚貼りつけてあるだけだった。 腰をかがめて床を調べ、箪笥の中まで開けて調べてみるついでに、ポスターにも目を向けてみる。 すっかり黄ばんだ紙面の向こうで、色艶やかな薄物の衣装を身にまとう美女が、さながら胡姫の如く嫣然と微笑んでいた。 『愛我就了解我』(私を愛してくれれば私がわかる) 画面を彩る花々の上には、紅色の典雅な文字が書かれている。他には、特に変わったところはない。 安っぽい印刷から察するに、これは歌手か女優のピンナップポスターのようである。が、見たとおり相当古いものらしく、には写っている人物がさっぱり分からなかった。 ――借金で首が回らなかったって評判なのに、ね。 そう云えばこの家の元主人は、あの事件で殺される前に、他所の奥方に手を出してもめていたらしい。金勘定には疎くとも、色恋沙汰には大いに励んでいたということか。 更に部屋の中を調べ回ってみるが、大した物は何も出てこない。古着が数着と破れた靴下が三組、空になった煙草のパッケージが一つ、見つかっただけである。 折角ここまで出向いてきたのに、無駄足を踏んでしまったか。が諦めてここを出ようとした――その時、 がさがさっ。 不意に、台所で何かが動く気配がした。 急ぎそちらを振り返って見るが、半開きになっていた戸が邪魔をして、中の様子は伺えない。 利き手に短刀を握り締め、そろりそろりと近付いてみる。戸口の壁に背を付けて、開いた戸の間から中の様子を覗き見て――は絶句した。 「!」 かまどに置かれた鉄鍋の、割れた木蓋の間から――ムカデが、後から後から這い出てきていた。 こんな小さな鍋の中に、一体どうやって入っていたのか。窓から差し込む埃っぽい日差しの下、黒光りする小さな体が、鍋を、かまどを覆い尽くすかのように、無数に蠢いていた。 さながら、鍋が煮立ち溢れ返るかのように。黒い大群はどんどん勢いを増し、やがて床の上にまで広がってゆく。見る間に、台所はムカデの巣窟と成り果てた。 はっと気が付けば、一匹が台所から這い出てきて、足元へと寄ってきている。数瞬置いて、他の個体も一斉に体の向きを変えた。 ゆっくりと押し寄せてくる大群の姿に、全身が泡立つ。は慌ててぴしゃり、と戸を閉め切った。 「………………」 一息ついて、ふと床の上へと視線を落としてみると。目の前を、一匹のムカデが這い回っている。 台所の大群は完全に封じ込めたものの、先を進んでいた一匹だけが、ちゃっかりこちら側に紛れ込んでいたらしい。は躊躇う事無く踏み潰した。 ぐしゃり、という微かな音と共に、にじみ出る体液が床に染みる。潰れた体を改めて見据え、は深く、ため息を付いた。 (この街には、ムカデの大将でも棲みついてるの?)思い返してみればこの数日、ムカデばかり見ているような気がする。 今日一日だけでも――朝、宿の自室で一匹見かけたし、ここまで来る途中にも四匹見かけた。昨夜も、休もうと部屋に戻ってみたら、テーブルの下に一匹紛れ込んでいて、そのせいで宿の主人と言い争いする羽目になった。 そして、今。偶然、と言い切るには、あまりに続き過ぎてはいないだろうか。 ――いっそ、火をかけてやろうかしら。 火種なら、いつでも持ち歩いている。後々面倒な事になりそうだが、このまま放っておく訳にもいくまい。あの大群が外に漏れ出たら、どれだけの被害が出る事か。 幸い、隣家とはそこそこの距離がある。ボヤ程度で収めておけば、まぁ延焼は避けられるだろう。多分。 あれこれと思考を巡らせるその間も、戸の向こう側からはがさがさと不快な音が聞こえている。 は懐からライターを取り出し、タイミングを計って――再び、一気に戸を開いた。 が、 ――!? 台所を占めていた筈の大群が、忽然と姿を消している。は思わず、呆然と立ち尽くした。 床の上も、かまども、発生源となっていたあの鍋の中からも、ただの一匹たりとも見つからない。戸を締め切る直前まで、あれだけの数が蠢いていたのに。 先程、が踏み潰したあの一匹も。無残に潰れた体だけでなく、染み出た体液の痕跡すら残っていない。 もう何が何だか訳が分からず、は思わず天を仰いだ。 「……ったく、何なのよ一体」 |