― 9 ―



立ち尽くしたのすぐ傍を、家路を急ぐ男たちが数人、怪訝な顔をして通り過ぎてゆく。
その視線に気付き、はふっと小さく苦笑した。

―― あの男が何を考えてようと、私には関係ないわ ――

胸の内だけで呟いた言葉は、自分自身への戒め。
あんな挑発、まともに受けるなんて馬鹿のやる事だ。残された麻雀牌を、は思い切り遠くへと投げ飛ばす。
少しせいせいした所に、背後から、また別の声がかかった。

「あ、こんな所に居たっ。おーい、ちょっと待ってくれよーっ!」

声の主は他でもない、押しかけ相棒(?)の光亮だ。
彼は急ぎ駆け寄って来ると、を恨み半分、安堵半分の目で見つめ返す。浅く息をする度に、肩に担いだ得物も揺れた。

「なぁ、何で今朝は、一人で行っちまったんだよ。少しくらい、待っててくれても良かったのに」
「…………」

飛び出した不満の言葉に、は小さく肩を竦めた。
自分が遅刻した癖に拗ねるなんて、子供じゃあるまいし。そんな事を考えながらも、は取り敢えず詫びを言い、それから、一旦宿に戻る旨を彼に告げた。



宿へと戻る道の途中で、は光亮に、今日自分が見聞きした事を簡潔に説明した。
昨夜、別れた後に聞いた話を元に、何軒かの家を訪ね歩いた事。いずれの家も、例の事件で主人が殺され、既に空家になっていた事。近所の住人たちの評判については、光亮も知っている事が多いらしく、何度も何度も深く頷いていた。
但し。先程、街の裏手で清一色に出会った事については、話の中から省いておいた。たかが占い師の戯言など、この件には何の関係もあるまい。
そうして話をしている間に、二人の足は、の逗留する宿屋の前に行き着いた。が、二人はその場に立ち止まり、そのまま話し続ける事にする。中に入ってしまえば、どうしても中途で話が打ち切られてしまうためだ。


「……でも、変だなぁ」

話が一段落したところで、光亮がぽつりと呟いた。
その真意が分かりかね、が問い返すと、彼はぽりぽりと頬をかきながら、

「いやな、俺、あんたに会うちょっと前に、瑞妃姐に会ってんだよ。
 これから仕事だ、って言ってたから、もう三十分近く前になるかな。丁度、あんたが瑞妃姐を見たのと同じ頃だよ」
「!」

光亮の口にした言葉に、の目が丸くなった。
そんな馬鹿な。驚愕のあまり二の句が継げずにいるに、光亮も「な? 変だろ?」と大きく頭を振った。
己が見たのが幻か、それとも彼が出会ったが偽りか。真実は、確かめねばなるまい。

「……瑞妃さんの所まで、案内して頂戴」

の依頼を、光亮は二つ返事で承諾した。



そうして、が光亮に連れられてやって来た場所は――他でもない、この街に来て最初に立ち寄った、あの酒場だった。
古びたシェードランプの灯りの元、奥のカウンターでは、品の良い黒スーツに身を包んだ店主が、今日もグラスを磨いている。
カウンター席には、静かに酒を楽しむ客が三人程。手前のテーブル席の幾つかでは、カード賭博が催されており、勝敗が決まるその度に、取り巻きの女たちの嬌声が上がっていた。
さして広くもない店の中、やたら空席が目立つのは、昨今のご時世故の事だろうか。まさか、二日前にが起こした(起こさざるを得なかった)、あの喧嘩騒ぎのせいでは無い、と思いたい所である。
そうして店内を見渡していると、一番目立たない壁際の席に、清一色の姿もある事に気付く。テーブルの上に濃色の布を掛け、向かい合って座る客を相手に、もっともらしく点棒を広げて喋っている。こうしていると、ちゃんと占い師に見えるから不思議なものだ。

「ほら、あそこ。あれ、瑞妃姐だよ」

の肩を叩き、光亮が前方を指差した。
にわか造りの舞台に上がり、質の悪い録音テープの伴奏に合わせ、独り歌い続ける瑞妃がそこに居た。さながら胡姫のように艶やかな薄物の衣装を身に纏い、悠然とした微笑みを浮かべて、甘く柔らかい絹のような歌声を店内に響かせている。が、その歌に耳を傾けている者は、客の半分にも満たなかった。
自分に背をむけ、めいめい好き勝手に騒ぐ観客たちの前で、それでも歌い続ける歌姫。真摯であればある程、その姿は切ない。

「……瑞妃姐は、週二回だけ、ここでこうして歌ってるんだよ。
 それ以外の日は、市場の中で、店の売り子とか呼び込みとかやって生活してる」

が、暫し瑞妃の歌声に聞き惚れていると、不意に光亮がぽつぽつと話し始めた。
その瞳は、舞台上だけを見つめている。他の客の存在も、話し相手である筈のでさえも、全く眼中に収めずに。

「今でこそ、舞台もこんなもんだけどな。昔、瑞妃姐の一座がこの街に来た時は、皆喜んで迎えたらしいぜ。
 そりゃそうだよな。長安とかでも評判の劇団が、こんな田舎町にやって来たんだ。そりゃもう、天地をひっくり返したような大騒ぎだった」
「…………」
「これは後で聞いたんだけど、本当は移動途中に立ち寄っただけで、興行は別の、もっと大きな街でやる予定だったらしい。
 それを、皆が無理に頼み込んでさ。この街でも一日だけ、特別公演をやって貰ったんだって」

流される演奏テープの伴奏は、ところどころで、ぷつぷつと切れたような雑音が入っている。
舞台の脇に控える音声担当者も、時々、あくびを噛み殺しているようだ。歌姫の真剣さとは正反対の、全く仕事意識に欠けた、怠惰そのものを絵に描いたような姿である。
曲が終わっても、客たちの反応はいまいち薄い。まばらな拍手はどこかおざなりで、熱唱を労っているような気配もまるで無い。
それでも歌姫は客席に深々と頭を下げ、次の曲を歌い始める。

「突貫工事の舞台でさ、完璧な状態、とは全然言えなかったと思うんだけど。それでも、音楽は全部生演奏で、街の皆が下げた『歓迎光臨』なんてだっさい垂れ幕の前で、すんげえ楽しそうに演奏してんだよ。
 芝居も、まるで本当にお城とか天国に居るような迫力でさ。俺、今でもはっきり覚えてるよ」
「………………」
「劇団の人皆が凄いんだけどさ、その中でも、瑞妃姉の歌や踊りはもう別格だった。何っつーか、巧く言えないんだけど、舞台にぱっと花が咲いたみたいで。大の男が何人も鼻の下伸ばして、女でもうっとり見蕩れちまって。
 舞台が終わった後でも、まだ夢見てるみたいな気分でさあ。俺、暫く席も立てなかったよ」

淡々と話す光亮の声には、如何な感情も見受けられない。
彼の瞳は今、思い出と目の前の現実のどちらを見ているのか。聞き手であるには、伺い知る術はない。ただ黙って頷くだけである。
その間も、瑞妃の歌は澱みなく滔々と流れている。
異国の言葉に彩られた、甘く優しい睦言のような、あるいは切々と語りかけるような歌声は、内にほろ苦い深みを孕みつつ、胸の奥まで染み入ってきた。

「親父が、その特別公演の後援もしてたせいかな。短い間だけだけど、俺、団員の人たちにも随分可愛がって貰ったよ。瑞妃姉と知り合ったのも、ちょうどその頃だったかな。
 こうして瑞妃姉の歌聞いてると、俺、たまに思うんだ。あの人たち、今、何処でどうしてるんだろうって」
「…………」
「劇団が街を発った後は、俺もよく知らない。団長さんが亡くなった後、皆バラバラになった、って聞いただけだ」

諸行無常は天の定め。栄枯必衰は世の理。
理屈ではそう判っていても、いざ現実として直面すると、誰しも心が揺れるもの。尤も、揺られて沈むか浮き上がるかは、当人次第でもあるのだが。
そんな時――関わり無い外野からの慰めは、言葉を連ねれば連ねる程、鋭く研がれた刃にも成り得る。皮肉な事だが、傷付き疲れてしまった人には、寄せる優しさや想いさえ、時には酷い苦痛ともなるのだ。
そんな事を少しだけ思いながら。薄暗く重い空間の中、が無言で、煙草に火を点ける。
仄かに灯った赤い火が、昇る紫煙と共にちらちらと揺れた。

「なのに、さ。……昨日のあの事件が起こった時、犯人は瑞妃姉だ、って言い出した奴も居たんだぜ。
 ったく、確かに瑞妃姉は元々ここの生まれじゃない余所者だし、昔、許の若旦那との事があったからって――」
「――ちょっと待って。それ、どういう事?」

光亮の話を聞き咎め、が問い返した。
語調の勢いに圧されてか、光亮が驚いたような顔をする。それまで、どこか遠くを見ていたような瞳も、今はの所で焦点が定まっていた。
「あれ? あんた、知らなかったのか?」戸惑う彼に、は一から説明するように詰め寄る。そのやり取りに、流れる歌さえ二人の耳から遠ざかった。
ややあって、光亮は「実は俺も、詳しくは知らないんだけど」と前置きした上で語り始める。
一座の滞在期間中に、瑞妃と許の若当主――当時はまだ、家督は継いでなかったそうだが――が、恋に陥った事。旅立つ直前、彼女が、ここに留まるよう彼に望まれた事、等々。殆どが、余所者であるの知らない過去の出来事である。
だが、瑞妃がこの街に住み着いた経緯については、「誰もよく知らない」と述べるだけに留まった。それこそ、真実は当人にしか分かるまい。件の嫌疑に関しても、光亮は「馬鹿馬鹿しい言い掛かりさ」と切り捨てた。
過去に惚れていた相手を、彼女が殺す筈がない。それ以前に、あれは人間の手による所業じゃない、というのが彼の言い分である。

「瑞妃姉と許の若旦那との事は全部、もう終わった事なんだよ。
 それを、今更むし返すなんてさ。それなりの考えや主張があるにしても、ちょっと無神経過ぎやしないか?」
「………………」
「過去は消せるもんじゃない。けど、いつまでも縛られてなきゃなんないもんか?
 瑞妃姉も若旦那も、もう別々に幸せを見つけてたのに。それを、いつまでもいつまでも――」

光亮の熱弁に、は密かにため息をついていた。
気持ちは判らなくもないが、少々熱くなり過ぎてはいないか。尤も、彼女が直接手を下したという容疑については、も流石にどうかと考えたし、事実、すぐにその訴えは却下されたらしいが。
そんな、誰にとっても後味の悪い事柄が、今のこの舞台にも反映されたのだろうか――がそんな事を考えるその間に、瑞妃の舞台は、最後の一曲を迎えていた。
彼女が慇懃に礼を述べ、前奏が始まるとほぼ同じ時に、テーブル席の一角から、舞台に向けて罵声が飛んだ。

「気取ってねぇで、たまには脱げよ、たまには。
 あんたももういい歳なんだ、もちっと客にサービス良くしろよ」
「どうせ、許の若造にも見せてたんだろ。俺たちにもちったあ拝ませろや。ほら、金ならあるぜ!」

中年男のグループが、げらげらと下品な笑い声を上げた。
それをきっかけに、聞くに堪えぬ罵声や冷やかし、煽るような口笛が、方々から飛び始める。場は一気に騒然となり、流れていた伴奏の音楽もぷつりと切れた。恐らく、音声担当が現場判断で中止を決めたのだろう。
調子付いた酔っ払いの一人が、土足で舞台に上がろうとする。それを見るや否や、駆け寄った光亮が後ろから掴みかかった。

「このっ、分からずやがっ……!」

光亮の右ストレートが、見事に相手の顔面に決まる。それを合図に、他の客たちも一気になだれ込んで来た。
そのまま殴り合う光亮と男を中心に、乱闘騒ぎの輪が出来る。グラスや瓶の割れる音に、女たちの上げる甲高い悲鳴。重く床に響いたのは、テーブルが倒れた衝撃音か。誰が味方で誰が敵か。訳も分からぬ騒動に、店主がカウンターの中でこめかみを押さえていた。
舞台上からは、既に瑞妃の姿が消えている。多分、誰かが避難させたのだろう。
騒ぎは、まだまだ止みそうにない。争いを避け、が店の奥へと移動すると、清一色もこちらにやって来た。

「止めなくて、良いんですか?」
「……気が済んだら、勝手に止めるでしょ。それまで放っておきなさい」

興がるような清一色の問いを、が無碍に切り捨てる。ふかす紫煙の向こう側で、店主がまたため息をついた。
と、その時、

がしゃがしゃん!

別方向で、派手にガラスの砕ける音がした。
続けて、外で発砲音が響き渡る。突然の事に、店内は水を打ったように静まり返った。
一体何が起こったのか。全員が、割れたガラス窓の向こう――表の通りへと、意識を向ける。そこへ、中年の男が一人、ぜいぜいと息を切らせて駆け込んで来た。

「よ、妖怪がっ……! 皆、逃げろっ……!」

場内が再び混乱に陥る。と同時に、は出口に向かって駆け出した。









>> Go to Next Page <<

>> Back to Last Page <<


>> Return to index <<

Material from "Blue Moon"