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店の扉から一歩外は、混乱と怒号に満ちていた。 長くぴんと尖った耳に、顔に浮かんだ独特の痣。眼に凶悪な色を孕み、鋭い爪を、あるいは斧や刀といった様々な得物を振り回し、狂った哄笑を上げる妖怪の一団が、我が物顔で街を蹂躙しているのだ。 彼らは人間を捉えるや否や、殺し、または刃で嬲り傷付ける。道すがら、目に付いた家屋や者を気まぐれに壊しながら。時折、何やら大声で喚きながら。高く虚しく響いた声は、陵辱された女の悲痛な呪いか、はたまた死に行く者の恨みの声か。物言わぬ骸が転がる中、略奪物の品定めや取り合いを始める姿も、あちこちで見受けられる。 そんな侵略者たちの暴虐の前に、大勢の人々が怯え、逃げ惑う。そんな中、手に手に銃を握った数人の男たちが、出動した街の警備団の戦列に自ら加わり、共に応戦を試みる。彼らの勇気は、圧され気味であった防衛線の戦意を奮い立たせた。 だが、戦い慣れぬ市井の者たちには、この事態は些か荷が勝ち過ぎているらしい。破壊の嵐は一向に止む事はなく、辺りはどんどんと人の血に染まってゆく。敵の一人が銃弾で倒れる間に、街の人間が三人死ぬ有様だ。 桃源郷全体に、まるで身を蝕む病魔の如く拡がるかの『異変』。その一端がまさに今、この街に牙を剥いていた。 「妖怪に襲われるのは、これが初めてなの?」 そんな混乱の中で、は制服を着た警備団の一人に近付き、そう話し掛けた。 その姿に、同じく飛び出してきた光亮が非難の目を向ける。悠長に喋るその間にも、人が死んでるのに、と。 だがは取り合わず、制服の男への詰問を続ける。相手からは、街の平穏さえ取り戻せれば、敵の生死は問わない、との答えが返った。 それを聞くが早いか、はやおら上着の袖口に手を差し入れた。取り出したのは数個の爆竹。火を点け、敵の真っ只中に向けて放り投げる。 ぱぱぱぱぱぱぱんっ! 派手な爆音が轟くと同時に、自身も駆け出した。その手には、既にピアスから剣へと変じた『千尋』の煌き。呆気に取られる敵の集団の只中に飛び込む。数瞬遅れて、幾人かがばたばたと地に伏した。 「!」 妖怪たちの間に、戦慄が走った。凶行に興じる手が止まり、狂った眼光が一斉にかの方向を見る。その眼差しを受けて立ち、は至極にこやかに微笑んだ。 「集団で弱いものいじめが楽しいだなんて、貴方たち、プライドも一緒に無くしたの?」 小馬鹿にしたようなその台詞に、妖怪たちが瞬時に表情を変える。集う眼差しが一気に殺意へと転じ、殺せ、殺せという呟きが、方々から漏れ聞こえた。 暫し、敵意と敵意が対峙する。一方が浮かべるは憤怒の相、もう一方は余裕の微笑み。無言で睨み合う両者の間で、逃げ遅れていた街の住人が、這い出るように場を離れた。 じりじりと視線の火花が飛び散る中、先に動いたのは侵略者側だ。牽制の応酬にしびれを切らした数人が、雄叫びと共に襲いかかる。迫り来る凶刃の数は幾多、対する側はただ一人。が、は怯まず迎え撃つ。千尋が、虚空に蒼く閃いた。 決着が付いたのは数瞬後。妖怪たちの苦しげなうめきが零れ、地面が見る間に血に染まる。だが千尋は止まらない。次の一人の心臓を刺し貫き、返す刃で背後を斬り捨てる。更なる動揺と憎悪の念が、妖怪たちの中に膨れ上がる。 それを見て取ると、は急に踵を返し、駆け出した。その後を妖しの一団が追う。怒号と砂塵が一際高く舞い上がり、やがて街外れへと遠ざかる。 嘆き、絶句して立ち尽くす街の人々と、ずっと参戦し損ねていた光亮を、その場に置き去りにしたままで。 の敵が、残り数人となった頃――無言で睨み合う両者の間に、光亮の叫び声が割って入る。どうやら彼も後を追ってきたらしい。「大丈夫かっ!?」彼の叫ぶ声が、夜のしじまに響き渡る。 それを機に、まず妖怪の一人が動いた。くるりと方向転換し、光亮に襲いかかる。光亮は、慌てて己が得物を抜き放った。 使い込まれた血刀と、真新しい青龍刀がぶつかり合う。鋭い金属音が上がった。第一撃はほぼ互角であったが、光亮の手は重く痺れた。道場での剣技と実戦の違い。初めて実感する相違点に、彼は密かに心怯む。 は、援護の手を差し伸べない。否、手を出せない、と言うべきか。取り囲む敵の殆どを、ただの一撃で斬り伏せてはいたのだが、残る二人――うち片方の大柄な男が、隊長格であるらしい――に、手こずっていたためだ。 ひるがえる千尋の煌きを、太い腕と曲刀とが受け止める。曲刀がうなりを上げて迫れば、千尋が流して斬り返す。柔と剛との鍔迫り合いは、既に長期戦の様相を呈していた。 と、突如、妖怪の一人が、標的を急にをから光亮に変えた。必死に一騎打ちを繰り広げる光亮に、脇から横薙ぎの一撃を繰り出す。青龍刀が、ぎりぎりの所で受け止めた。 そこへが慌てて、飛刺を投げて援護する。が、強敵の隙を伺っての一投は、どうしても狙いが甘くなる。刃は、肩を傷つけただけに留まった。傷付いた肩を庇いながら、妖怪はそのまま走り去る。場に一瞬の空白が生じた。 その機に、光亮が渾身の一撃を放つ。袈裟懸けに斬りつけられ、敵は地に伏し絶命する。光亮は勝利の余韻にひたる間もなく、ぜいぜいと荒く息を吐いてその場に片膝を付いた。 残る敵は隊長格の男ただ一人。妖かしは、捨て鉢の叫びを上げに斬りかかった。怨恨に満ちた凶刃は、それまで以上に重く強い。が密かに舌打ちした。 二撃、三撃と続く攻撃を紙一重でかわし、が口の中で短い咒を唱えた。呼応して剣身が一層蒼い輝きを帯びる。その頭上に、血と恨みにまみれた刃が迫った。 刹那。懐深く飛び込んだの目前で、大きな体躯が凍りつく。振り上げた刃の蒼い残像が、散った血飛沫と共に虚空に消える。 数瞬の間を置いて、大きな体躯がどさり、と音を立てて倒れる。「紅孩児さっ……!」末期の呟きは、たちにはまるで意味不明だった。 事が終わるとほぼ同時に、辺りの暗がりが一気に押し寄せる。静寂が、漂う血の匂いが、風に揺れる麦の擦れる音が、汗ばむ肌をそっと撫でてゆく。溢れる匂いの生臭さに、光亮が今更ながら、顔を歪めて鼻と口を手で覆った。 そんな彼の傍らで、は表情一つ変えず、剣身に付いた血や脂を拭う。輝きを取り戻した長剣は、やがて手を離れて宙に浮き、金の棒状のピアスへと変化して左耳に収まる。浅く吐く息と同じリズムで、ピアスが静かに揺らめいた。 それを横目で見ながら、光亮がよろよろと立ち上がる。青龍刀を杖代わりに、今にも嘔吐しそうな青い顔で、 「……あんた、よく平気で居られるな」 「もう慣れてるから」 いともあっさりそう言い捨てて、は街の方に向かって歩き出す。光亮が慌ててその後を追う。が、と光亮の歩く間隔に、微妙に距離が出来ている。固くなった彼の表情を肩越しに見て、は一瞬僅かに目を細めた。 その事実に目隠しし、「足元の血溜まりに注意しなさいね」と言いながら、煙草に火を点けふかし始める。その様に、彼は「歩き煙草は良くないぜ」と僅かに顔をしかめた。 黙々と歩く道沿いの建物に、暗い影が落ちている。あちらの家もこちらの店も相当な被害を受けた様子で、その奥からは時折、誰かのすすり泣く声が漏れ聞こえてきた。 埃と、血と、硝煙と鉄錆の匂いが鼻をつく。点々と転がる死人の体を、生き延びた人々が悲痛な面持ちで運んでゆく。宵を過ぎても眠りの安らぎは遥か遠く、悲嘆と憎悪ばかりが辺りを満たす。降りかかった災難を、妖怪を、心から憎み蔑む人々の顔が、の傍を多数通り過ぎて行く。 が歩くその後ろで、光亮は終始沈黙を保っている。否、喋れずに居ると称した方が正しいか。顔に浮かべるは逡巡の色、瞳に宿るは憤怒の色。相反する感情による葛藤が全身からにじみ、先を行くにも伝わってくる。 目の当たりにする理想と現実の落差。携える刃の冷たさと重さ。己が此処に在ることの奇跡。全て、気付かずに居られれば楽なのに。尤も、昨今の社会情勢を見る限り、そんな願望は現実逃避にしかならないが。 街の中心部に近付くにつれて、破壊の爪痕はますます深くなってゆく。瓦礫を片付けようとする人、呆然と立ち尽くす人、その間を事後処理に当たる役人たちがせわしなく行き来する。手に手に掲げられた懐中電灯やランプの灯が、薄く辺りを包む闇の中で、ちらちらと揺れて動いていた。 ほんの数時間前まで、誰も予想していなかったであろう惨状。嘆きの声が、絶望が、暗い暗い空へと吸い込まれてゆく。 例の殺人事件だけでも、人々の心は十分ささくれ立っていたのに、と、は我知らずため息を漏らしていた。 そんな時である。は不意に、刺さるような視線を感じた。 敵意ではない。しかし好意的でもない。無機質そのもののような、何の感情も含まない視線。だがにとっては、付き纏われるだけでも十分に不快だ。利き手が、密かに袖口の内側に隠した暗器へと伸びる。 歩みを止めぬそのままで、暫し周囲に視線を巡らせる。すると、 「……………………」 瓦礫の山の傍らに、淡く浮かぶ人影一つ。舞台衣装を着たままの瑞妃が、そこに佇んでいた。 気付いた光亮が、「瑞妃姉、無事だったんだな」と至極嬉しげに声を上げた。が、彼女は彼には目もくれず、一人を見つめている。もまた、瑞妃を見つめ返す。 暫し、その場の時間が停まる。無言で見詰め合う女たちの背後で、光亮が訝しげに首を傾げた。 先に視線を外したのは、瑞妃の方だった。何一つ言葉を発しないまま、暗闇の中へと去って行く。彼女が身を翻したその瞬間、長い髪が、まとっていた紗のきらびやかな衣装がふわりと揺れた。 その後姿を見送りながら、光亮がぽつりと、 「……なぁ。妖怪を手っ取り早く全部ぶち倒す方法って、どっかにないかな」 唐突な話の振りに、が怪訝な顔をして彼を見る。すると彼は、暫し逡巡した後に、意を決したかのように、 「さっきの連中が何だか知らないけどさ、けど、凶暴化した妖怪なんて、単に暴れ回って人を殺すだけだろ。 いっそ全部、殺しちまえばいいんだ。もう、人間を殺せないように」 「………………」 「妖怪が好き勝手して暴れてなけりゃ、今日のことだって、あの事件だって、全部起こらずに済んだんじゃないか? 所詮、妖怪は妖怪、化け物さ。人間とうまくやっていける訳がない。それに――」 語る言葉が、段々と熱を帯びてくる。その心を高ぶらせるは、先程の戦闘による興奮の余韻か、それとも深い嫌悪の念か。 「気を悪くしたらマジごめんな」口でそう謝りながら、光亮がぼりぼりと頭をかき、二、三度深く息を吸って吐く。何をそんなに躊躇っているのか、は気付かぬふりでついっと視線を先に逸らした。 そんな時、暗く静まり返った表通りで一箇所、ぱっと看板に明かりが灯る。が逗留するあの宿だ。 その灯にまともに向き合うように、光亮は真正面からを見据えて、 「あんたのその剣、一体何なんだ? それに、さっきのあれは一体……?」 「………………」 「あの最後の一撃は、大したもんだったよ。あんな妖怪を一刀で倒すんだもんな。 どうせならさ、いっそのことその剣で妖怪を一人残らず全滅させちまっても――」 嬉々と喋る光亮の眼がを、否、の左耳を見つめている。そこにあるのは、仮初の姿を取る魔剣の煌き。 が先程、躊躇せず妖怪を殺す姿を、彼はその目でしかと見ている。見ているからこそ、こんな発言をしているのだろう。熱心に語るその言葉は、妖怪への憎悪を内包しているように聞こえた。 だから。 「――銘は『千尋』。作者は不詳。今の主はこの私。都合で、他人には一切貸せない。 答えられるのは、それだけよ」 「それだけって……」 の発した言葉に、光亮が訝しげに小首を傾げた。 先程の戦いで、例え一人でも侵略者を倒せた事については、素直に賞賛に値しよう。実戦に慣れてないとはいえ、腕自慢は伊達ではなかったようだ。大したものね、とは胸の内でそう呟いた。 が、しかし。 「貴方がどう思ったかは分からないけど、剣は所詮剣でしかないわ。間違っても万能なんかじゃない。 ……って、最初にそう言ったのは、私の古い知り合いだけどね」 言いながら、は小さく肩を竦めて苦笑した。 宿の看板の投げかける光が、の表情に影を落とす。笑みも、眼差しも、相手の目から覆い隠すかのように。 「知り合い?」 「そ。銃と煙草が標準装備の、性格も口も悪いお坊様」 「何だよそりゃ」 の返した答えを、洒落か冗談と解したのか。光亮が憮然と「真面目に答えろよ」と抗議した。 が、は再び前に向き直り、宿の方へと歩き出す。その背に追い縋るように、光亮は尚も「妖怪なんて、全部消えちまえばいいんだよ。そうだろ!?」と訴えかけた。 その問いに、は宿屋の扉に手をかけながら、 「世の中には、もっと凄い力を持つ物がたくさんあるわ。例えば天地開元経文とか」 「…………」 「それに貴方、妖怪がどうこう言ってるけど、現実はそんなに単純じゃないのよ。妖怪ばかりが悪い訳じゃないし、人間だって善人ばかりとは限らない。寧ろ“異変”なんて目に見える原因が無い分、人間の方が厄介かもよ。 妖怪が人間を殺すように、人間が人間を殺すこともあるわ。私の両親も、殺したのは人間だったしね」 「!」 振り返りもせずに言った言葉に、背後で、光亮が言葉を失ったのが分かった。だが、は今度こそ完全に無視を決め込み、宿の中へと入って行く。 ばたりと戸を閉める音が、やけに大きく響いて聞こえた。 が門をくぐった宿屋の一階、食堂兼酒場の中は、あの妖怪の襲撃騒ぎのせいだろうか、それとも単に時間が遅いせいか。客は勿論、店員の姿さえろくに見当たらなかった。 ただ一人。真ん中のテーブル席に勝手に座を占める、白い装束の男を除いては。 「お疲れ様でした。いやあ、大活躍でしたねぇ」 「清一色……!」 |