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「な、何だよこいつっ……!」

とことこと歩み寄ってくる人形に、光亮が驚きの声を上げた。
が、人形は彼には一切目を向けることなく、ただ一人だけを見据え、

「オ姉サン、アノ女性(ヒト)ニ会ッテドウスルノ?」

かたかたと小刻みに動く音が、まるで嘲笑のようにも聞こえる。
この人形、確か以前にも見た覚えがある。この事件の話を宿屋の主人から最初に聞いた時に、廊下に立っていたあの人形だ。
だが、作り物である筈のその瞳の中に、幼子を模して作られたその顔に、今は別の誰かの面影が重なる。こちらの心を無断で覗き見されているような、言い様のない不快感に、は露骨に顔をしかめた。
誰が仕掛けたのかは知らないが、持ち主は相当、いい性格をしているに違いない。会ったら、一発殴っておかねば。
苛立ちも露わなに、人形はけたけたと笑いながら、

「オ姉サン、イツマデ偽善者面ヲシテイルツモリナノ?
 ソノ手ハトックニ血ニ染マッテルノニ、マダソウヤッテ誤魔化スノ?」
「………………」

一切の光を映さぬ黒い双眸が、じっとを見つめて語る。
眼差しが身に絡みつくかのような、この不快感は。確か前にも。
の思惟を遮るように、人形は尚も言葉を続ける。

「アノ女性(ヒト)ハチャント正直ニナッタヨ。自分ノ意志デコッチニ来タヨ。
 ダカラ、オ姉サンモ早クコッチニオイデヨ!」
「――おい、お前、何言ってんだよ!」

ずっと無視され通しだった光亮が怒鳴り声を上げた。
それをそっと手を上げて制止して、今度はの方から話し掛ける。苛立ちはなるべく抑え込んで、努めて冷静な口調で、

「貴方のご主人様はどこに居るの? 私と話がしたいなら、直接出て来て喋ったらどうなのよ」

膝を屈め、まるで子供に話し掛けるようにが問う。
が、人形はやはりの言う事など聞く気はないらしく、小刻みに身体を震わせながら、

「イツマデ偽リノ顔オシテイルノ? オ姉サンモ本当ハ、モット人殺シガシタインデショウ?」
「………………」
「モット自分ニ素直ニナリナヨ。――連レテッテアゲルカラ!」

言うが早いか、人形はふわりと宙に浮き、空中を滑るようにこちらに向かってきた。
迎撃すべく身構えたと光亮の脇をすり抜け、かたかたと乾いた音を立てながら、街の裏手を目指すように進んでゆく。と光亮も慌ててその後を追った。
風を切って進む人形のスピードは、一体どんな術がかけられているというのか、予想よりもずっと速い。油断すると、すぐに見失ってしまいそうだ。
そんなの背後から、同じく必死に走って付いて来ている光亮が、荒い息の下から素朴な疑問を投げかける。

「なあ、あんな人形追っかけて、一体どうするつもりなんだよ!?」
「嫌なら付いて来なくてもいいわよ!」

悪気無く訊いてきたのだろうが、今は親切に答えてやる気になれない。は、吐き捨てるようにそうとだけ返した。
これが罠であることは、自分もとっくに気付いている。誰が、何のために為す事かは分からないが、わざわざ指名してきたのなら、とことんまで付き合ってやろうではないか。
毒を食らわば皿までも。どうせ危険と常に隣り合わせの身の上だ。今更、何を恐れる事があろうか。
我ながら無茶な事だと苦笑しつつ、が肩越しにちらりと背後を振り返れば、光亮が迷い半分、諦め半分といった面持ちで後から付いて来ていた。






そうして一体、どれだけ走った事だろう。
細い細い路地を延々と走る途中で、人形は不意にぴたりと虚空に止まり、そのままゆっくりと地に降り立った。
そして。最初に姿を見せた時と同様に、かたかたと微かな音を立てながら、人気の途絶えた道をゆっくりと歩く。まさに、たち二人を導くように、追跡劇の終焉を告げるかのように。
は左耳のピアスを――千尋を長剣の形へと戻し、利き手にきつく握り締める。つられるように、光亮も担いでいた袋から得物を取り出し、同じく抜刀した。
静まり返った暗がりの中、足音を潜め、気配を殺し、ゆっくりと人形の後に続いて歩く。光亮が、背後でごくり、と喉を鳴らした音が聞こえた。

―― いっそ黒幕さんが登場して、自分の悪事を洗いざらい白状してくれないかしら。

一瞬、愚ともつかぬ考えが、の脳裏をかすめて消える。
人形は、あれ以来ずっと黙ったままで、相変わらず乾いた不快な音を立てながら、二人を先導するようにとことこと歩いている。こちらを振り返ることも一切無く、暗い夜道を躊躇もせずに、ただただ歩を進めるのみ。人気の全く無い狭い路地を、人形の立てる音だけが無気味に響き渡る。
は乱れた呼吸を整えながら、静かに、なるべく足音を立てぬようにしてその後を付いて歩く。何処からどんな攻撃を受けても迎撃出来るように、絶えず周囲を警戒しながら。
そうこうしているうちに、少し開けた場所に出た。街の中心部から外れた空き地の傍、申し訳程度に石畳が敷かれた道の上で、人形はぴたりと足を止める。
冴え冴えとした月明かりに照らされて、そこに、一人の人物が佇んでいた。長く豊かな髪を夜風になぶらせて、微動だにせず立っている、白一色のワンピースドレスをまとった美女。己が目の前だけをじっと見詰め、静かな、しかしひどく冷たい微笑みを口元に刷いている。
彼女の眼差しの先にあるは、人の背丈ほどもありそうな大きな虫たち――寸法こそ全く違うが、その姿は、いつか街外れの川原で見たあの“虫”に酷似していた――と、今まさに身を引き千切られ、肉を食い荒らされている一人の男のなれの果て。流れ出る血は既に池となり、辺りに生臭い匂いを振り撒いていた。

「…………!」

その光景の凄絶さに、光亮が思わず目を背けた。
妖怪独特の、尖った耳と刺青のような痣を備えた被害者の顔には、言い様のない苦悶の相が浮かんでいる。恐怖に目を見開き、苦痛に顔を強張らせた男の亡骸を、虫たちが寄ってたかって貪り食う。くちゃり、くちゃりと肉を咀嚼する湿った音が、いやに非現実的な色合いを孕みせながら、夜のしじまに響いていた。

『……腕や足なんか、食い千切られたようにもぎ取られててね。辺り一面も血の海で……』

数日前の朝、宿屋の食堂で色々聞かせてくれた初老の男の言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。その後、役場で見せて貰った資料のあれこれや、現場で撮影された写真の数々も。パズルのピースが組み合わさるように、頭の中で様々な事項が繋がってゆく。
被害者たちも、こうして殺されていたのだろうか。こんなふうに、得体の知れない化け物たちに体を貪り食われて。
だとすれば、ここでこうして佇んでいるこの人物は、一体。

「――瑞妃さん。これは、どういう事ですか?」

のその問い掛けに、彼女は、瑞妃はゆっくりとこちらに顔を向けた。
その足元へ、例の人形がかたかたと音を立てながら歩み寄る。その小さな体をそっと抱き上げながら、彼女は至極嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。

「やっと来たね。ずっと待ってたよ、あんたが来るのを」
「……どうしてです?」
「あんたに、ここに来て欲しかったから」

一見噛み合っているような、しかし全く意味不明な答えを返しながら、瑞妃は腕の中の人形を慈しむように撫でる。
その傍らでは、虫たちがまだ肉を貪っている。ずるり、と音を立てながら長い腸が引きずり出され、辺りに一層濃い血臭を撒き散らす。男の体は最早原型を留めてはおらず、食い残された腕が、当てもない救いを求めるかのように虚空を掴んでいた。
意外なのは、首から上の部分が一切口を付けられていない事である。が一目で、妖怪だ、と気付く事が出来たのも、頭部が丸々無事だったためだ。耳、唇、舌、脳味噌、思い付くだけでも柔らかい箇所が沢山あるのに、全く食われていないのは、一体何故か。
の背後で、光亮がとうとう耐え切れず、道の端で激しく嘔吐した。得物を握ったままで傍の壁に手を付き、苦しげに背を屈めてうずくまっている。
彼はぜえぜえと荒い息を吐きながら、それでも何とか、体勢を立て直そうと試みる。そんな彼の背後に、瑞妃が人形を腕に抱えたまま、そっと近付いて、

「大丈夫かい、光亮? そんな無理する事もないのに」
「……もう平気だって……って、それより、」

口元を袖で拭いながら、光亮はようやっと立ち上がり、瑞妃の方を振り返る。
そして、

「それより瑞妃姐、あれは、何なんだよ」

彼が群がる虫たちを指差すと、瑞妃は、そんな事か、とばかりに小さく頭を振った。
「別に、大したことじゃあないよ」いいからあんたは、何処か安全な場所へ行ってなさい。そうたしなめる彼女の口調は、嘘偽り無い気遣いに満ちていた。
それでも、と追い縋る光亮の声を、瑞妃は背を向けることで切り捨てて、今度はに向かって口を開く。

「あんたに、お礼がしたくてね」









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