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「お礼?」
「そう」

眉を顰めて問うたに、瑞妃はにこやかにそう答えた。
一点の曇りも澱みもない、純粋で嫣然とした笑み。傍らでは、絶えずあの虫たちの肉を喰らう湿った音が立ち、濃厚な血の匂いが辺りに漂い流れ、彼女の昏い美しさを際立たせる。天高く輝く月の光が、彼女の足元に黒い影を落としていた。
瑞妃は、二の句が継げずに居るから一旦視線を外し、足元に転がる男の首をつま先で軽く蹴って、

「全く、だらしない男だよねぇ。
 あんな大勢で踏み込んで来た癖に、人間の、それも女のあんた一人にやられちまうんだから」
「………………」
「どうせなら、もっと大勢の仲間を呼んで来れば良かったのにねぇ。
 何が怖いんだか知らないけど、それもしないで、怯えっ面で街の傍をうろうろしてるだけだったもの。全く、不甲斐ないったらありゃしない」
「……瑞妃さん。それ、どういう意味ですか?」

彼女の何気ない呟きを聞き咎め、が改めて問い掛けた。
いや、答えは既に見当が付いている。だからこれは、質問というよりは確認に等しい。それでも、もしかしたら、と、心の何処かで否定の言葉を望む気持ちがある。甘い考えだと判っていながら、それでも。
だが、

「ああ、この連中が、必死になって誰かを探してたみたいなんでね。殺す、殺す、なんて言いながら。
 だから、言ってやったんだよ。探す相手は、この街に居るって」

ああ、やっぱり。街の人々が囁いていた噂は事実だったのだ。
嘆息するの後ろ側で、光亮が絶句していた。

「何とか法師って言ったかねぇ。
 名前は忘れちまったけど、偉いお坊さんなんだってねぇ。で、主人の命令は絶対だ、って言ったから、」

語る彼女の腕の中で、あの人形が不気味に目を光らせていた。
いや、ただ単に月明かりを反射しているだけなのだろうが、瞬き一つしない大きな黒い双眸が、やけに神経を逆撫でする。
ただの人形でしかない筈なのに。

「そのお坊さんを街ぐるみで隠してるからと言って、ついでに裏道や抜け道も教えてやって、」

虫たちの立てる咀嚼音に、硬い響きが加わり始めた。
青ざめた首の傍らで、虫たちが、肉のこびりついた骨をしゃぶり、貪っている。ばきり、と鈍い音を立てて、骨の一本が噛み砕かれた。

「でも結局はあの様さ。匿った奴も皆殺しだなんて息巻いてた癖に、期待外れもいい所だよ」
「……瑞妃姐、何で、何でそんな事を!」

光亮が、悲鳴にも似た絶叫を上げた。
そんな彼に、彼女は少しだけ悲しげに「あんたは本当に優しい子だねぇ」と呟き、抱いていた人形にそっと頬を寄せた。その際、人形の口が動いたようであったが、一体何と喋ったのか、ここからでは聞き取れなかった。
ややあって、屍を喰らっていた虫たちが、再びわさわさと動き出した。殆ど骨ばかりとなった骸から離れ、瑞妃の後ろにずらりと並ぶ。不気味に光る幾つもの目が、一斉にを睥睨する。も、負けじとばかりに千尋をかざして身構える。
両者が火花を散らす中、瑞非はゆっくりと歩き出し、あの哀れな妖怪の首を拾い上げた。
髪を掴んで持ち上げれば、切り口から、血が二、三滴滴り落ちる。苦悶に喘ぐ男の首をぶら下げ、ふっと蠱惑的な笑みを覗かせる彼女の様は、歴史に語られる血塗れの女帝・則天武后を連想させた。

「その首、どうするんですか?」
「ああ、これかい? 街の外れに吊るすんだよ。こいつの仲間によく見えるように。
 そうすりゃ、今度はもっと沢山殺しに来るだろう? だから」

右手に生首、左手に人形。背後に怪奇な虫たちを従え、瑞妃が笑みを深くする。
その様は、ただただ異様と称するより他は無く。

「こんな街なんかもう要らない。誰も、私を愛してくれないから。そう、あの人でさえ――」

静かに、しかし熱っぽく語るその様は、まさに彼女の一人舞台だ。
ぴんと張った声が宵闇に響き、白いドレスの裾が風を孕んで揺れる。ぶら下げた首から零れ落ちる血の滴りは、言わば主役を飾る紅い花。月光のスポットライトを一身に浴び、背後に虫たちの軍勢を従えての、一世一代の晴れ舞台。
ああ、そうか。いつか被害者の家に行った時に見た古いポスターの女優は、かつての瑞妃だったのか。些か呑気に過ぎるなと思いながらも、は頭の片隅で、少しだけそんなことを考えた。

「あの頃は本当に良かったよ。劇団の皆が桃源郷一を目指していて、夢は必ず叶うと信じてられて。
 辛いことも苦しいことも、舞台に立てば全部忘れられた。あの人と別れて悲しい時でも、お客の拍手がずっと私を支えてくれたよ」
「………………」
「それが今はどうだい、夢はとっくに無くなって、愛した人の所に戻りたくても、その人はもう別の女と所帯持ち。
 団長が死んで劇団が解散になって、女一人、やっとの思いでここに辿り着いたのに、街の誰も、あの人でさえ、もう私に見向きもしない。寧ろ、居て迷惑だって顔してさ。たまに舞台に上がったって、飛んでくるのは下品な野次ばっかり。
 全く、やってられないねぇ……」

瑞妃は不意に、その場にゆっくりと膝をついた。
白いドレスの裾が汚れるのも構わずに、彼女は優しく、まるで人間の幼子を扱うように、抱いていた人形をそっと地に下ろした。人形はかたかたと音を立てて少し歩き、また止まってくるりとこちらを向いた。その顔に、瑞妃は「また力を貸しておくれよ」と小声で呟いた。
人形が力を貸す? 首を傾げたが問うより先に、彼女は再び顔を上げ、

「でもまぁ、愚痴を言うのはもうよそうか。
 あの人が力を貸してくれたお陰で、あの人は永遠に私のモノになった。そう、永遠にね」
「……あの人? 誰のこと?」

交錯した言葉を聞き咎め、が更に首を傾げた。
が、瑞妃はそれには答えを返さず、ふっと真横に視線を移して、

「ほうら、今はこの人も私の隣で笑っててくれてる。私の、ためだけに。
 もう二度と、他の女に目を移すことも、抱いたりする事も無い。私だけのもの――」

瑞妃が指先で示す先には――誰も、居なかった。
だが彼女の瞳には、愛する男の姿が映っているらしい。愛して、自らが死に追いやった男の姿が。残された家族の悲嘆も、憤りも、多分彼女の心には届いていない。その前に殺された人々のことも、昨夜の襲撃騒ぎで命を落とした人々の事も。
うっとりと虚空を見つめ、「愛してるよ」と囁く彼女の恍惚とした笑みは、まさに恋の幸福に溢れていて、それ故に背筋がぞっとなる。瑞妃本人はすぐ目の前に居るのに、その心が遥か遠い。は、ただただ絶句するより他になかった。
一人微笑む彼女の様を、例の人形が無言で見つめ続けている。一瞬、その眼がきらりと光ったのは、の気のせいだろうか。
「瑞妃姐、あんた、一体どうしちまったんだよ!? えぇ!?」光亮がまた大声で叫ぶが、瑞妃はもう一瞥もくれない。ただただ、どことも知れぬ一点を見つめるのみ。

「もう、すぐだから。もうすぐしたら、邪魔者は誰も居なくなるよ。
 私からあんたを奪ったあの泥棒猫も、煩いだけの親族も、街中の皆も居なくなる。誰も、私たちの邪魔をしなくなるよ」
「………………」
「今度こそ、今度こそ幸せになろうね。私も、もう何処にも行かないから。
 だから、だからもう少しだけ待ってておくれよ。……愛してるよ」

甘やかな妄言を囁きながら、瑞妃はそっと夜風に口付けた。
誰が、何が彼女を狂わせたというのだろう。現実を器用にねじ曲げて、その両手を罪で汚し、他者の悲嘆を踏みにじる程に。夢破れ、恋を無くし、千々に乱れた心に入り込んだ昏い闇は、彼女自身が望んだことか。
が、ぎりっと無意識に唇を強く噛んだ。切れた唇の端から、血が一筋、流れ落ちる。

彼女の境遇に同情しないと言えば、きっと嘘になってしまう。
だが、今、彼女の求める幸福は、他者の悲しみや憎しみしか呼び招かない。
ならば。

がぎゅっと千尋を握り締める。
と同時に、瑞妃がふっとを見やって、

「夕べ、私の邪魔をしてくれた御礼に――あんたを、一番最初に殺してあげるよ。私の手で」

瑞妃の宣言に合わせるように、虫たちが、一斉にを睥み付けた。









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Material from "Blue Moon"