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虫たちに睨み返しながら、がそっと背後の光亮に囁いた。 「貴方は、ここから早く逃げて頂戴。後は私が何とかするから」 「何とかって、そんな、俺だって――」 光亮が全ての言葉を言い終えぬうちに、虫が一匹、突進して来た。振り上げた前足が禍々しく煌く。と光亮は、咄嗟に左右に分かれて避けた。空振った一撃が、地面を抉り深く突き刺さる。 ほっと息をつく暇も無く、虫たちの軍勢は次々と襲い掛かってきた。が口の中で短い咒を唱える。蒼みを増した千尋の刃が、先鋒の前足一本を薙ぎ切った。バランスを崩したその一匹が地面にへしゃげ、じたばたと無様にもがき暴れる。 一方、光亮も己が得物を振りかざし、彼なりに迎撃を試みていた。が、彼の携える青龍刀ではまるで歯が立たない。気合を込めた一閃も、硬い表皮に阻まれて甲高く虚しい音を立てるばかりだ。どんなに強く斬り付けたところで、相手に傷一つ付けられない。見る間に周囲を取り囲まれた。故意にすぐに手を出さずに、じわじわと包囲網を狭めていく異形の軍勢は、揃って加虐的な輝きで彼を見つめていた。牙の突き出た口をがちがちと鳴らし、ゆっくりとにじり寄るその様が、本能的な恐怖心を煽る。光亮は怯みながらも、せめてとばかりに青龍刀を前にかざして晴眼に構えた。 と、その時、一匹が急にきぃぃぃっ、と奇妙な悲鳴を上げ、地に倒れ伏した。胴に、大きな刀傷を刻まれながら。じたばたと力なくもがくその傍らで、別の一匹が頭を切り落とされる。見ると、虚空に蒼い残像が弧を描いている。光亮を囲んでいた敵意の輪が、見る間に崩れて解けていった。 包囲網を突破した張本人、は、光亮を背後に庇うように立ち、千尋の刃を前にかざす。月光を反射して煌く蒼い刃に、虫たちが一斉に恐れ戦いた。 暫し、場がしんと静まり返った。戦慄に凍りつく虫たちの様に、瑞妃が密かに舌打ちをする。 その隙を見計らって、は改めて背後の光亮に向かい、 「こういう時はね、プロに全部任せなさい。素人の出る幕じゃないわ」 そんなと虫たちの、いや、虫たちの背後に控える瑞妃との、女と女の対立図を――あの人形が、安全圏からじっと見つめている。 何も喋らずに、ぴくりとも動かずに、かぶった中華帽の房と長袍の裾を風になぶらせて佇むその足元に、暗い暗い影が落ちている。小さな人形には不似合いな程に、小さくて大きな深い影が。 表情を持たぬ黒い双眸の先で――瑞妃がまた、ふっと小さく笑みを漏らした。苦いような、呆れているような、酷く複雑な微笑みで、 「本当はね、私もこんな事はしたくないんだよ。あんたも、同じ女だもの」 全く脈絡の無い発言に、がついっと目を細めた。 この女性(ひと)は、一体何を言っているのだろう。今更。 「私があんた位の時には、まだ分からなかった。でも今なら、よく分かるんだよ。 女の本当の幸福はね、愛する人と結ばれて、永遠に共に生きることなんだってね」 「………………」 「夢を追いかけるのも、若い頃はまぁ悪くはないさ。 でもいずれは、愛する人の子を生み育て、幸福な家庭を築いて守る。そこに落ち着くのが、一番幸福なんだよ。女は」 語る瑞妃の瞳に一瞬、正気な苦笑の色が浮かんで消える。 「夢なんて、いつかは潰えて消えるもの。でも、愛する人さえ傍に居れば、本当はそんな事どうでも良いんだ。 あんたも同じ『女』なら、私の言ってる意味が、分かるだろ?」 あんたに、心の底から想えるような男性(ひと)は居ないのかい? 瑞妃の向ける問い掛けに、の片眉が僅かに動いた。 忘れようにも忘れられない男の面影が、脳裏に鮮やかに蘇る。 眩しい金糸の髪の煌きも、射抜くような紫暗の瞳も。語る言葉や声の力強さも。 『俺は嘘はつかん。例え何年かかろうと、絶対にそれを証明してやる。 ……もし、お前に少しでも意地が残ってるんなら、生き延びてそれを見届けてみるんだな』 あの時言われたあの言葉は、三年経った今もなお、深く胸に焼き付いている。 だから。 「――分からないわよ」 が、刃を大きく横に薙いだ。 最前列に居た虫の一匹が、足を一対失い前のめりに倒れる。 どさり、と重い音が立ち、うっすら砂埃が巻き上がった。鬼気迫る一閃を目の当たりにし、敵陣に改めて戦慄が走る。 「瑞妃さん。貴女は貴女で、私は私よ。同じ女でも」 貴女に、望まぬ死を迎えた人々の無念が、残された人々の悲しみが分からないように。 「貴女が何をどう考えてるか、私には分からない。悪いけど」 「……そうかい。それは残念だねぇ」 きっぱり言い切ったに、瑞妃は憎々しげに笑みを歪めた。 そして、再び右手をすっと挙げ、 「構わないよ。お前たち、殺して、思う存分に喰らっておしまい」 朗々と張り上げた声は、言わば女王の処刑宣告。それに突き動かされ、異形の軍団がまた一丸となって襲いかかる。 太く鋭い爪が空を裂き、前肢の一撃が地を強く叩き抉る。が、はそれらをことごとくかわす。空振ったそれらの攻撃を横目に、はぎっと強く唇を噛み、自ら敵軍の中へと飛び込んで行った。 群れる虫たちの輪の中心で、蒼い剣がしなやかに舞い躍る。数秒遅れで、虫たちがばたばたと倒れ伏した。 くず折れた大きな体躯から、濁った緑の体液がどろどろと流れ落ちる。同時に、腐臭にも似た悪臭が辺り一帯に漂い始め、は慌てて鼻と口とを手で覆った。 だが瑞妃は、顔色一つ変えもせずに、そのままその場に立っている。玲瓏としたその顔を、細い身体を、冷たい夜風が静かになぶる。「瑞妃さん、貴女も――」如何な考えや理由があろうと、犯した罪は償わねばならない。そう示唆するの言葉にも、彼女は眉一つ動かさずに居た。 美しいその面差しから、一切の表情が消えている。彼女が今、何を想うのか。測り知る術が無い。 それでも、と、が一歩足を前に踏み出した、その時、 「――あはははははははははは!」 突然、瑞妃が大声で笑い出した。 彼女の真意が分からずに、が思わず目を丸くして立ち止まる。その目の前を、あの人形がとことこと横切って、彼女の足元にぴたりと付いた。 そして、 「コレデ終ワリト思ッタラ、大間違イダヨ」 瑞妃の狂った哄笑に、人形の不気味な声が重なる。 虫たちの骸が幾つも転がる宵闇の中、月の光を背に受けながら、二つの異様な笑い声が調和する。その様には、修羅場慣れした筈のでさえ、気圧されずにはいられなかった。 光亮は――彼はあの混戦から逃げ出さず、ずっとこの場に留まっていたようだ――、顔から完全に血の気が失せている。「瑞妃姐!」至極悲しげな呼び声が、本人に届かぬまま虚しくかき消える。 やはり、もう――は深く深く息を吐くと、改めて千尋を構え、瑞妃へと刃を向け駆け出した。 「待ってくれよ、瑞妃姐は!」 光亮の絶叫が辺りに響く。だがは停まらない。彼女に、一連の惨劇に引導を渡すべく、一気に間合いを詰めた。 その時、 ひゅっ! 虚空を、鋭く切り裂くものがあった。行く手を阻まれ、が咄嗟に後ろに飛びずさる。 凶刃の如く地に何本も突き刺さったそれは、麻雀で使う白い点棒。だが、誰が、何処から投げたものかは分からない。 攻撃の機を逸したの目と鼻の先で、瑞妃が、羽織ったショールの間から何やら取り出した。彼女は、それらを一瞬ぐっと力を込めて握ると、無造作に地に振り撒いた。 ばらばらと乾いた音を立てて転がる物体に混じり、数枚の呪符が――それに書かれた文字や文様は、数日前、が川原で拾ったあの紙片によく似ていた――、ひらひらと風の中に舞う。 訝しむの周りにも、彼女の撒いた物体が――古びた麻雀牌が転がって止まる。次の瞬間、 ずざざざざざざざ―― 麻雀牌は、地面の土や近くの壁の石材を吸い上げて、人の形に固まった。 見る間に出来上がった土くれの新参兵は、どれもが身の丈二メートルはあろうかという大男。ごつごつとした石の肌に闘気を纏い、眉の無いのっぺりとした顔でを睨み付けている。宙に舞っていた呪符からは、あの虫たちがまた湧いて出てきた。 また、背筋に悪寒が走る。この光景の異様さに。醜悪さに。 絶句して声もないの目の前で、瑞妃は大袈裟なため息を吐いて、 「こいつらはまだ使ったことがないから、どんなものだか判らなくてねぇ。 できれば、もっと後で使おうかと思ってたんだけど――」 後で、とは、本来はいつ使うつもりだったのか。考えたくない。 それよりも、彼女自身にも『どんなものか判らない』とは、一体? 「まぁ、仕方無いか。――お前たち、さぁ、お行き」 風に乱された長い髪をぱっと振り払い、瑞妃が高らかに声を上げる。 刹那。背後から突然殴りつけられ、の身体が大きく吹っ飛ばされた。 |