― 15 ―
目の前で、無数の火花が散った。 二秒遅れて背中に激痛が走り、自分が、思い切り地に叩きつけられた事を識る。視界が黒く歪み、暫くは、まともに焦点も合わなかった。 が、そんな事はお構いなしに、目の前に大男の第二撃が迫った。今度はギリギリの所でかわし切る。空振った拳が、地面を大きく抉った。 はそのまま地を転がって連中から離れると、ふらつきながらも、何とか自力で起き上がる。と、その時、左肩に刺すような痛みを覚えた。思わず小さなうめきが漏れる。剣も、いつの間にか取り落としてしまっていた。 まずった、と舌打ちしたその背中に、光亮が「大丈夫か?」と声を掛けてきた。 (まだ逃げてなかったのね……)密かに眉間に薄く縦ジワを刻みながら、は取り敢えず「大丈夫よ」と答え、改めて敵勢に目を向ける。 大丈夫、そう、傷も大したものじゃない。自らにもそう言い聞かせながら、目線だけでなくした剣を探す。愛剣は、虫と大男たちが蠢き陣を組む、そのど真ん中に落ちていた。冴え冴えとした月明かりを反射して、剣身が、蒼く澄んだ輝きを放っている。 「…………」 痛む左肩を無意識に庇いながら、は、予備の短刀を懐から抜いた。 こんな物で連中に敵う筈がない。それは自分でも判っている。だが素手で立ち向かうより多少はマシだ。千尋さえ、巧くこの手に取り戻せたなら。 と、その時、光亮がを庇うように前に立ち、青龍刀を晴眼に構えた。切っ先が僅かに震えている。それでも、口先では「俺も男だからな」と懸命に強がっていた。 「……いいから、貴方は下がっていて頂戴」は彼を手で制すると、再び、敵陣めがけて駆け出した。彼女に向かって、虫たちが鋭い爪を振りかざす。大男たちが、競ってその豪腕を振るう。は、それらを巧みにかわし切った。 と、の頭上にまた鉄拳が迫った。避けるついでに身を低く伏せ、頭から一気に地を滑る。目指すは一メートル先に落ちた愛剣。服が汚れるのはこの際気にしない。思惑通り、指先が剣首の房に触れた。 が、 「――あはは。駄目だよ」 房の紐を手繰り、剣の柄を掴もうとした手が、高いヒールに強く踏まれた。先の尖った細いかかとが、手の甲に深く突き刺さる。見上げると、瑞妃が自分を見下ろし微笑んでいた。 一体いつの間に来ていたのだろう。そう思う間もなく、ヒールのつま先がの顎を蹴り上げた。身を伏せたままで抗える筈が無い。は、無様に地を転がる羽目になった。口の中に、じわじわと鉄錆の味が広がる。 更に追撃をかけようとする敵から何とか逃れ、が、何とか立ち上がる。痛めつけられた顎を無意識にさする彼女の目の前で、瑞妃は、至極愉しげに笑いながら、 「綺麗な剣だねぇ。……そうだ。折角だから、これであんたを殺してあげようか」 「! 駄目、それはっ……!」 の制止の声も聞かず、瑞妃が、落ちていた千尋を拾い上げた。 刹那。 空気が、爆ぜた。 千尋を手にした瑞妃を中心に、無形の圧力が、波紋のように広がってゆく。も、光亮も、あの大男や虫たちさえも、圧されて暫し動きを止めた。 皆の見ている目の前で、瑞妃が高く剣を掲げる。肩に掛けていたショールがぱさりと落ちた。白くしなやかな腕が、月明かりの元に晒される。 その手から、突然。植物が根を張り巡らすかのように、細い線状の何かが腕を這い、絡み付く。否、それは肌の上にくっきりと浮き出た、瑞妃自身の血管だった。剣を握ってかざす手から、腕、肩、そして全身へと、幾本もの青く細い筋が、美しい肌の上に醜く浮き上がってゆく。不自然なまでにはっきりと浮かぶそれは、まるで悪趣味な刺青を刻むかのようだ。 斯様な奇態変化の上に、彼女自身の漏らす、苦痛とも悦楽ともつかぬ声が重なる。酷く痛々しげな、しかし官能的な艶やかさを伴った声は、それを聞く側の心をも揺るがす。そんな彼女の手の中で、蒼かったはずの剣は、いつしか赤く色を変えていた。 その場に居る誰もが戦慄を覚える中で――あの人形だけが、変わらず静かに佇んでいる。その黒い双眸で、全てを見届けようとするかの如く。 「あ、あれは、一体……!?」 最早、凡庸な驚きの台詞しか吐けぬ光亮の隣で、が、苦渋に満ちた呟きを漏らす。 現実からは目を逸らさずに、しかし拳をぎゅっと握り締めて。 「貴方が見てる、そのままの事よ」 見えぬ波動の渦に歪まされ、夜気が嗤い声を上げる。草叢のざわめきも、異形の哄笑に聞こえてしまう宵闇。 その真ん中で、瑞妃が、再び高い笑い声を上げ始めた。その顔にも無数の血管が鮮やかに浮かび、表情も、一種の高揚感に満ちている。 そして。静謐に響き渡るその笑い声も、これまでとは、やはりどこか違っていて、 ざんっ! 突然、瑞妃が千尋を横薙ぎに振るう。その剣圧だけで、偶々近くに居た虫たちが数匹倒された。 切っ先はかすってもいない筈なのに、倒れた虫たちの体には、どれも、深い切り傷が刻まれている。予想以上なその威力を目にし、瑞妃は、うっとりと表情を蕩けさせて、 「いいね、この剣。凄くいいよ。気に入ったよ」 言いながら、彼女は更にでたらめに剣を振り回した。その度に周囲に見えぬ衝撃波が走る。忠実だったはずの下僕たちが、斬られ、或いは弾き飛ばされ、次々と地に倒れ伏してゆく。呆気ない程あっさりと。 「本当に、凄くいいよ」 唸る衝撃波が嵐の如く、触れる全てを、無差別に壊してゆく。地が抉れ、砂埃が巻き起こる。あの哀れな妖怪の遺骨や首も、あえなく砕かれ、塵と化した。 ひたすらに昏い狂乱の中から、と光亮は何とか逃げ切った。近くの建物の影に身を隠し、息を潜めながら様子を伺う。 状況をそっと覗き見ながら、光亮は、衝撃覚めやらぬといった口調で、 「なぁ。瑞妃姐、一体どうしちまったんだよ。何が起こってるんだよ?」 だがは答えない。痛めた肩を無意識の内に押さえながら、ぎゅっと唇を噛み締めて。 光亮と同じように、瑞妃を、瑞妃の振り回す赤い剣を、見ている。 「なぁ、答えてくれよ!」 その右肩を、光亮が強く揺さぶった。一瞬、が痛みに顔を歪める。それでようやく我に返ったか、は、やっと彼の方にまともに目を向けた。 先程、肩を強打した時よりも更に痛々しげな、悲しげな顔をした上に、身を潜める壁面が暗い影を落とす。 「――狂って、いるのよ」 何が、とは言わない。誰が、とも言わない。 出来る事なら、何も訊かないで欲しい。硬く口をつぐむ様が、言葉以上に強く心情を述べる。 が、それだけで光亮が得心できる筈もなく、 「あれ、あんたの剣なんだろ!? 何とか出来ないのかよ! えぇ!?」 「……さっきから考えてるのよ。その方法を、ずっと」 それが、貴方の望む結末を呼べるとは思えないけれど。言いかけた言葉の後半部分は、胸の内だけに仕舞い込んだ。 そして、改めて瑞妃の方を見る。彼女が剣を振るう度に、あの大男たちや虫たちが骸と化してゆく。力尽き、地に倒れたその後も、剣の起こす衝撃波が容赦なく叩き切り、骸を更に細かく刻む。 「――私、確か貴方にも言ったわよね。あの剣は、一切人に貸せないものだって」 「え? あ、ああ……」 唐突に話を切り出したに、光亮は、戸惑いも露わに首を傾げる。 が、はお構い無しに言葉を続ける。己が感情を限界まで抑えた低い声で、一言。 「ああいう剣だからよ」 事実そのままの一言に、光亮は返す言葉も無く押し黙った。 は、言葉を続けるその代わりに、また深く深くため息を吐いた。剣を取り落とした失態への後悔の念に、肩の疼痛が加わり、ひたすらに自分を責め立てる。 そう。瑞妃の心の内にはずっと、深くて昏い闇が巣食っていた。彼女自身が言ったとおり、一連の事件が起こるずっと前から。 悲哀、絶望、憎悪、怨恨、執着、喪失感――それらの言葉のどれもが当て嵌まり、またそのどれもが、真実を表すには役者不足でもある感情の渦。そこに、千尋が今まで刃に溜め込んできた血の呪詛を、命絶たれた者たちの恨みつらみの念を、まるで地に穿った穴に水を注ぎ込むがごとく、一気に流し込んだのだろう。 人間が妖怪を千人殺すと、自らも妖怪へと変化する――その呪詛より、持ち主の身を護る剣、千尋。だがそれは、単に、本来持ち主が受けるべき呪詛を、剣が肩代わりしているだけに過ぎない。持ち主が心得を誤れば、剣は加護を止めるどころか、その刃に受け容れ続けた無形の闇を、持ち主の身へと跳ね返す。まさに、今の瑞妃の狂態のように。 刀剣が刀剣である限り、その刃は他者の血に塗れ、大なり小なり怨恨の念をまとうものではある。だが、千尋は。 「……始末は、付けるわよ。ちゃんと。持ち主として責任あるし」 ふぅ、と再び深く息を吐いて、がぽつりと呟いた。 「始末? どうやって?」 「どうにかして。……光亮、悪いけど、その刀ちょっと貸してくれない?」 はそう言って、彼の持つ青龍刀をついっと指差した。 「こんなんで何とか出来るのか?」彼が得物を差し出しながら、心底疑わしげに問い掛ける。は、「素手よりはマシよ」とだけ答えた。 刀の柄をぎりっと握り、二、三度大きく息を吸って吐く。肩の痛みも意識の外へと追いやる。 そして、災禍の方角へと――瑞妃へと真っ直ぐに目を向けた。 瑞妃の振り回す凶刃が、かざす篝火のように赤く強く輝いている。その切っ先が、ぴたりと街の方角を差していた。 それはまさに、無言の宣戦布告を為すが如く。 そして、そんな彼女を――あの人形が、やはりずっと見つめ続けている。 作り物の笑みを浮かべながら。 |