― 17 ―



瑞妃の白い手が、ぎりぎりと首を締め上げる。
朧になってゆく意識の向こうで、彼女の笑い声がする。華やいだ、至極愉しげな笑い声が。
「私は、私はねぇ……!」まるで真意の測れない言葉を口走りながら、彼女が、両の手に一層の力を込める。の唇から、小さな呻きが漏れた。
息ができない。
手足から少しずつ力が抜けていく。
目の前がだんだん真っ暗になっていく。
首を締められる痛みも次第に麻痺し、意識そのものが、闇の中へ沈んでゆく。
もうだめか、という思いさえ、そのまま崩れ落ちてゆきそうで――

「――!」

意識が途切れるその寸前、は、渾身の力で千尋を振り上げた。
瑞妃の右手首がすっぱり切断され、辺りに大量の鮮血が飛び散る。彼女の、夜気を裂くような絶叫が響いた。
首に掛かった手の力が一瞬緩む。は即座に、彼女の体を強く突き飛ばした。
げほげほと激しくむせ返りながら、再び両の目を開いてみれば、視界が真っ赤に染まっている。握る千尋の刃だけが蒼い。体中が、返り血でべっとり濡れていた。
振り向くと、瑞妃が失った手の先を押さえ、苦悶の声を上げながらその場にうずくまっている。歯を食いしばり、懸命に痛みを堪えつつ――それでもまだ、生きていた。これだけの血を流していながら。
流れる血は夜気の中に黒く翳り、まるで空の闇が、地をも侵してゆくかのように零れ落ちてゆく。水面に映る月が、赤く妖しく揺れて輝いていた。その中心にうずくまる、否、その赤い闇を作り出している張本人、瑞妃の衣服もまた、元の白さが嘘のように、赤とも黒ともつかぬ色に染め変わっていた。
が、哀しげにつっと目を細める。瑞妃が、狂気の眼差しで睨み返す。両者の間に、一陣の冷たい風が渡った。
瑞妃が、のろのろと立ち上がった。が、改めて剣を構えた。
互いに、掛ける言葉は無い。見えぬ火花が、再び二人の間で散った。

「殺ッーー!」

裂帛の気合いと共に、瑞妃が勢い良く駆け出した。残った方の掌を大きく広げ、白かった筈の赤いドレスを翻して。
はその場に佇んだまま、静かに口の中で咒を唱える。かざした千尋が、一際強く輝いた。

両者がすれ違ったその瞬間。宵闇に、蒼い閃光が走った。

一拍分の空白の後に、瑞妃が、ずるりとその場にくず折れた。
その体が、腰のところで真っ二つに斬られている。切り口からはどくどくと血が滝のように流れ、うつ伏せに倒れこんだその貌を、髪を、四肢を、死の色に染め上げてゆく。かっと見開いたままの眼に、もう生の光は無かった。
その様を無言で見つめながら、が大きく息を吐き、がくりとその場に膝をついた。その手の中で、千尋の放つ輝きが次第に収まってゆく。と同時に、恐ろしい程の静寂が、身に重くのしかかってきた。
一体いつの間に消えたのか、あの人形の姿は何処にも無い。怪訝に思い、注意深く辺りを見回してみるが、目に入るのは無数の瓦礫と、かつての花形女優の骸のみ。

「あ……あ……!」

その時、ふと。背後で別の呻き声が上がった。
振り向くと、光亮が呆然とその場に立ち尽くしている。顔色を無くし、わなわなと身体を震わせて、瞬き一つせずこちらを見つめている。無意識のまま、中途半端に伸ばされた指が、何も掴めぬまま虚空をもがいていた。
だから、ここから離れていて欲しかったのに。ぜぇぜぇと荒く息を吐きながら、は密かに、心の中で呟いた。
再び、左肩と胸元が強く疼き始める。傷が、浅く吐く息に同調してぎりぎりと激しく痛み、のしかかる静寂を更に辛くする。
そんなの目の前を、光亮が無言で横切って行く。おぼつかない足取りで、瑞妃ただ一人を見詰めて。彼は、足元が汚れるのを気にも止めずに、血溜まりの中に入って行き、瑞妃の、力尽きた横顔にそっと触れた。
「瑞妃姐……!」悲しみに満ちた呼び声が、蒼白い貌の上に落とされる。しかし、当然の事ながら返事は無い。彼は、服に血が付くのも構わずに、彼女の骸を抱き上げ――腕の中に抱けたのは上半身だけで、切断された腰から下は変わらず地に横たえられたままであったが――、嗚咽の声を漏らし始めた。

「………………」

耳が痛くなるような静謐に、光亮の慟哭が響く。瑞妃の、取り残された下半身が纏う赤黒いドレスの裾が、夜風の中に力なくはためいて、場に満ち満ちる虚無巻を更に際立たせていた。
ふと空を仰ぎ見ると、月が、少しだけ雲に覆われて欠けている。
辺りが少し暗くなったように思えたのは、ただの気のせいではなかったのか。月明かりが弱まったせいで、地上に落ちる翳りが余計に色濃い。嘆き続ける光亮の後ろ姿さえも、足元の、血溜まりの闇の中に半分沈んでいるかのように見える。
風が、止まった。辺りに漂う血臭が一層濃厚になり、それまで以上に強烈に鼻をつく。

「……他に……」

ぽつりと、光亮が呟いた。止まらぬ嗚咽の、その合間に。

「……他に、やり方は無かったのかよ。瑞妃姐が死なずに済むやり方は」
「………………」

恨み憎しみのこもる台詞に、返せる言葉は何も無い。は、固く口をつぐんで俯いた。
左肩と胸元が、更に痛みを増してゆく。

「瑞妃姐があんなになったのだって、あんたのその剣を手に取ったせいだろ?
 なのに、何であんたは全く平気で、瑞妃姐はああなっちまったんだよ!」
「………………」
「何で、おかしくなった剣そのものは止められて、瑞妃姐は止められなかったんだよ。
 瑞妃姐は、言わば被害者じゃないか。それなのに、何で……何で……!」

光亮の訴える言葉の語尾が、彼自身の涙で途切れた。
薄月の投げかけるおぼろな光の元、埃と、血の匂いが辺りに充満する。文字どおり、死の気配が辺り一帯を占めていた。
気を抜けば自らも死の淵に堕ちてゆきそうな、虚しく激しい脱力感の中で、受けた傷の鋭い痛みだけが、辛うじて意識を生者の域に繋ぎ止める。皮肉なものだ、とは小さなため息を漏らした。
千尋の“力”を解放した時はいつもこうだ。自分自身の気力体力はおろか、命そのものまで削られるような錯覚を覚える。
だからこそ、滅多にこの力は使わないのだが――

「――なぁ、黙ってないで何とか言えよ、何とか!」

やり場のない感情を叩きつけるように、光亮が大声でそう怒鳴った。
それでも、は何も答えない。ただ黙って、痛む左肩を押さえているのみだ。きりっと噛んだ唇で、自らの言葉を封じている。
そんな彼女に業を煮やしたか、光亮は瑞妃の亡骸を再び地にそっと横たえると、やおらその場に立ち上がった。落ちていた自らの得物を拾い上げ、激情に満ちた瞳でを見据えて、ゆっくりと歩み寄る。彼の手の中で、折れた青龍刀が鈍く光っていた。
彼はの前に立つと、頭上から見下ろすようにして、

「黙ったままじゃ何も分からねぇよ。何とか言ってみろよ、何とか!」

目前に、鋼の刃が突きつけられた。
切っ先が折れ、刃もところどころ欠けてはいたが、それでも使い方次第では、この刀でも十分に人は殺せる。それを握る光亮自身の顔つきや眼差しにも、殺意にも等しい怒気が溢れていた。
光亮がを睨む。が光亮を見上げる。長いような短いような沈黙が、暫し、二人の間に深い溝を造る。
ちょうどその時、空に滞っていた暗雲が切れ、再び、丸い月が姿を現わした。降り注ぐ光が地を照らし、場にわだかまっていた黒暗を、ほんの少しだけ追い払う。と同時に、僅かに風が吹き始め、埃を、血の匂いを、少しずつ攫ってゆく。
未だ乾ききらない血溜まりが、風にさざめいて微かに波立つ。映る月影が砕けて壊れ、無数の光の破片に変わる。揺れる水面の色は赤。月光の欠片の色も赤。騒乱の幕が引かれ、夜の無彩色ばかりが占める景色の中で、血の色だけが鮮やかだ。
彩りを無くした静謐の中、光亮の握る刀の銀が、の目の前で苛立ち混じりに左右に振られる。
それでもは慌てず怯まず、淡々とした口調で、

「言い訳はしないわ。恨むなら、私を恨んでくれていい」
「…………」
「どんな奇麗事を言ったって、剣は所詮、人殺しの道具ですもの。それを持ってる私自身も同じ。
 それ相応の覚悟が無きゃ、最初から、この事件も追いかけていないわ」

の言葉に、光亮の片眉がぴくりと吊り上がった。
語られる言葉の中に、何か思うところがあったのだろう。突きつける刃が、僅かに震えている。
その輝きにひたりと目を止め、は、やはり落ち着き払った表情と口調で、

「私を殺して気が済むなら、そうしてくれて構わない。覚悟は、出来てるわよ」
「…………」
「人を殺すなら、殺されるだけの覚悟が要るわ。……これも、知り合いからの受け売りだけどね」

至って静かなの眼差しの前に、光亮が、怯むような素振りを見せた。
握る刃の震えが、更に大きくなっている。怒りや恨みに染まっていた筈の瞳にも、激しい動揺の色が見え隠れしていた。
やがて、からん、と硬い音を立てて、刀が地に投げ捨てられる。「そう言われて、はいそうですかって出来る訳無いだろ」吐き捨てられた呟きには、言いようのないやるせなさがにじんでいた。
瑞妃がさんざ繰り返していた悲しい言葉と、の静かな言葉との対比に、彼自身、迷っているのだろうか。
いや、理屈では、判っているのかも知れないが。

「……でも。街の連中には、瑞妃姐のことは黙っててくれないか。
 勝手な言い分で、悪いけどさ」

光亮はくるりと背を向けると、小さな声でそう言った。月夜の空を振り仰ぎ、そのまま暫し動きを止める。
彼が今、どんな表情をしているのか。向けた背中に阻まれて、の目からは全く見えない。が、その後姿にはもう、殺意の影は無くなっていた。

「明日役所に行って、瑞妃姐もちゃんと弔って貰えるよう、頼んでみるよ。
 だからあんたも、うまく口裏合わせてくれよ。やっぱりこれは全部、妖怪の仕業だったって」
「……分かってるわ」

の返した答えに、光亮が一瞬こちらを振り向いて微かに笑った。
「また明日な」と告げて立ち去る背中が、声を出さずに泣き続けている。その後姿を見送るの心も、強く痛んだ。

「………………」

光亮の後ろ姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、は改めて、深い深いため息を吐いた。
独りきりになって、少々気が抜けたせいだろう。左肩や胸元の疼きが辛くなってきたし、うっかり顎に手をやれば、蹴られた箇所もやっぱり痛む。あの時、よくぞ舌を噛まずに済んだものだ。
だが――まだ、事が全て済んだと思えない。根拠など何も無い、ただの直感ではあるが。
ふと傍らに視線を移せば、彼女の、物言わぬ骸が目に入る。見開いていた筈の瞳が閉じられているのは、きっと光亮が抱き上げた時、そうさせたのだろう。目を閉じ、血の海の上に横たわる彼女の貌が少し穏やかになったように見えるのが、ちょっとだけ気を楽にした。
敵として戦った相手とは云え、死んだ後まで憎むつもりは無い。もし経の一つでも覚えていれば、手向けることも出来たのに、と、は少しだけそう考えた。尤も、何処ぞの破戒坊主に言わせれば、経は死者に聞かせるものでは無いらしいのだが。
と同時に。突然現れて消えたあの不気味な人形や、その他諸々の事柄についても、改めて思惟を巡らせる。

―― やっぱり、他人の掌の上で踊らされてる気分だわ ――

傷の痛みが邪魔をして、思考が巧く形にならない。
だが、もしかして――と、が深いため息を吐いた、ちょうどその時、

たんっ。

静まり返った薄闇の中に、固い物音が小さく響く。
続いて。くっくっと喉の奥から湧き上がるような笑い声が、の耳に届いた。









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