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血腥い風の中、清一色の白い長袍の裾が、銀の髪が、ゆったりとたなびいている。 その姿はまさに、夜の闇に仄かに浮かぶ幻のようで。 「男には、心から愛する女性(ひと)が居ました。同じ血を分けた姉弟でありながら男と女として愛し合い、つつましいながらも幸福な生活を送っていたそうです。世間には、姉弟である事実を隠して。 ですが」 「…………」 「ある日突然、その女が妖怪に攫われました。 貴女、聞いたことはありませんか? 女を次々と攫っては好きなだけ弄び、飽きたら食い殺してしまうという、百眼魔王という妖怪の噂を。彼の住んでる街の娘が、その百眼魔王に目を付けられたんです。 困った街の人々は、自分の娘の身代わりに、彼女を差し出したんです。男の居ない隙に、街ぐるみで」 彼の細い目はただ一人を見据え、手元は、常日頃からそうしているように、身体の前で組んで長い袖で覆い隠している。その足元にはあの人形がぴたりと寄り添い、主と同様に、その真っ黒い瞳でをじっと見つめていた。 傍らの遺骸にはまるで目もくれずに、赤黒い血の海の上に平然と立って。 彼は、尚も語り続ける。何処かの誰かの過去の話を。 「事実を知らされた時、男は、まず街の人を皆殺しにしたそうです。 愛する女のお陰で助かった人々の命を、彼は、自らの手で奪ってしまったんですよ」 「………………」 「そして彼は次に、たった一人でその百眼魔王の城に乗り込んで、一族郎党を全てその手にかけました。愛する女の姿だけを求めて、城中の者を手当たり次第に殺してゆくそのさまは、それはもう凄絶なものでしたよ。 どんな修羅や悪鬼でも、あの人のあの時の姿を見れば裸足で逃げ出してしまいそうな。そんな感じがしましたねぇ」 独り語りに興じる彼の口振りが、微妙にすり替っている。伝え聞いたような話から、まるでその目で直に見たかの如く。 訝しむの心中を察したかのように、彼は、細い目を更についっと細めて、 「そして彼は望みどおりに、愛する女性の姿を見つけました。生きたまま地下牢に閉じ込められていたのを、見つけ出したんです。 ――で、ですね。その後、どうなったと思いますか?」 急に矛先を向けてきた彼に、は、いやに勿体ぶった言い方だと不快感を覚えた。 恋人を助けるために男がたった一人で敵地に乗り込み、敵を倒す。彼女が無事であるならば、その後に待っているのはハッピーエンドではないのか。 でも、それとも。相手の真意が測りかね、が黙ったままでいると、清一色はまた、意味ありげににたりと笑って、 「彼女、自ら命を絶ったんですよ。愛する男の目の前で」 「――!」 予想外の展開に、は思わず息を呑んだ。 死んだ? 何故? 何のために? 救いの手が、すぐ目の前にあったのに? 疑問符が幾つも幾つも浮かんで消える。そんなの胸中を見透かしたように、清一色は言葉を続ける。 その足元で、ぴちゃりと、湿った水音がした。 「彼女のお腹の中には、既に百眼魔王の子が出来ていたんですよ。 自分を攫って陵辱した、憎くて憎くてたまらない化け物の子供が」 「………………」 「そしてね、彼女は彼に向かって、こうも言いましたよ。『助けに来るのが遅かった』と」 一体何がそんなに可笑しいのか。清一色はくっくっくっと低い笑い声を上げた。笑った拍子に肩が揺れ、銀色の長い髪が揺れる。 「人間も妖怪も皆殺しにした彼も彼ですけど、彼女も酷いですよねぇ」やっぱり血の繋がった姉弟、どちらも恐い人ですよ、と、清一色は笑いながら、訳知り顔でそう付け足した。 風が一層強くなり、冷たい夜気が頬を掠めてゆく。ぞくり、と背筋が震えたのは、汗が引いて急激に体が冷えたせいか。ますます顔をしかめるを尻目に、彼は尚も声を上げて笑っていた。 そうして暫し沈黙した後に、は、深いため息を一つ吐いて、 「……清一色。貴方、一体何が言いたいのよ」 ようやく、その台詞だけが出せた。 そんなの顔を見ながら、彼は「おや、面白くなかったですか?」と小首を傾げる。その飄々とした口調が、態度が、ささくれたの神経を更に逆撫でした。 他人の不幸話など、何が面白いものか。ますます苛立ちを露わにするに、清一色は、不意にすうっと笑みを消して、 「妖怪を沢山殺してその血を浴びて、自らも妖怪になってしまった男の話ですよ。 貴女にとっても、他人事じゃないと思うんですけどねぇ――」 急に月が翳り、周囲が一気に暗くなった。 視界が漆黒の闇に染まり、ぴんと張り詰めたような静謐が辺り一帯を覆う。吹いていた夜風もぴたりと止んで、漂う血の匂いが一層濃厚になった。 は慌てて周囲を見回すが、彼のあの白装束姿が、気配が、完全に消え失せている。「何処よ、何処に居るのよ、清一色!」静寂に負けじとは声を張り上げたが、答えは返って来なかった。 肩と胸元の傷が、またずきずきと強く疼き出す。ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。 「――おや、恐いもの知らずな貴女でも、この闇は恐ろしいんですか?」 からかうような清一色の声が、何処からともなく聞こえてきた。 は声のした方へと剣を向け、力いっぱい斬りつけた。が、切っ先は相手を掠めもしない。空振った剣が、虚空に蒼い残像を描くのみである。悔しくて小さく舌打ちした。 そんなを嘲笑うように、暗闇に、彼の甲高い声が響く。 「おやおや、本当に物騒ですねぇ、貴女って人は。 そうやってすぐに剣を振り回して、貴女、これまで一体何人殺してきたんですか?」 声と共に、暗闇に白い影が仄かに浮かび上がった。 その人影は、清一色は、口に軽く点棒を咥え、嫌味な笑みを浮かべている。それまでと全く同じように。いや、その耳は長く尖り、薄く開いた目に、加虐的な光をたたえていた。 明かり一つ無いぬばたまの闇の中、彼のまとう不気味な妖気が、白い装束が、ゆらゆらと揺らめいている。静かに佇むその姿は、まるで冥界より訪れた白い幽鬼のようにも見えた。 が切っ先を向けるより早く、彼は袖口に手を差し入れ、何やら取り出しては固く握り締めた。 反射的に、がその場で身構える。そんな彼女の目の前で、彼は、手中にあったものを無造作にばら撒いた。幾つもの硬い物音が、昏い静謐の中に響き渡る。 その音から察するに、投げられたのは麻雀牌だろうか。暗くてよく見えない。が、彼の手の中にあったものだ、ただの牌ではあるまい。剣を握り締める手に、我知らず力がこもる。 そんなをじっと見据え、彼は尚も言葉を続ける。口上を述べる講談師の如く、言葉を黒暗に流し込むように。 「貴女、以前、我にこう言いましたよねぇ。『腕一本で生きる以上、綺麗事で全て済む筈が無い』と。 ですが――」 語る彼に呼応するかのように、暗がりに、幾つもの黒い影が浮かび上がった。 始めは不定形であったそれは、見る間に人の形に凝り、むくりとその場で頭をもたげる。そして、その光を宿さぬ虚ろな目を、一斉にの方に向けた。 「ですが貴女、心の何処かで、深い罪悪感を覚えている。他人を傷つけ殺める度に、自分も深く傷付いている。 自らの心の奥底に押し込めて、固く蓋をして、気付かないような顔をして」 屈強な体つきの若者も居れば、顔面に深い皺を何本も刻んだ老人も居る。男も女も、子供も大人も、人間も妖怪も居る。見覚えのある顔もあれば、まるで記憶にない顔もあった。 その誰もが無念の相を浮かべ、一切の感情を宿さぬ声で、恨みつらみの言葉を呟いている。その台詞の一つ一つを聞き取る事までは出来なかったが、彼らが、自分に対し、悪意を抱いている事は何となく感じ取れる。 彼らは、今まで自分が手に掛けてきた者たちだ。根拠は無いが、直感でそう判った。 「どんなにしっかり隠しても、心に固く蓋をしても、我にはちゃんと判りますよ。 ……だって貴女、罪人の眼をしているじゃありませんか」 まるで、あの人のようですよ。長く爪を伸ばした指が、すっとを指差した。 返せる言葉が見つからず、がそのまま口篭もる。目を逸らし、きりっと噛み締めた唇の端から、血が一筋、細く流れ落ちた。 酷く、耳鳴りがする。肩と胸元の傷がますます疼く。その場に立ち尽くしたままのを、死者たちの群れが瞬き一つせず見つめている。無意識に、足が二、三歩後ろに下がった。 そんな彼女を見やって、また、清一色がうっすらと嗤う。 「妖怪を千人殺しても妖怪にならない。 その剣で体は護られていても、心の方は、一体どうなんでしょうねぇ――」 その言葉を最後に、清一色の姿が闇に融けて消えた。 気配を完全に絶たれ、慌てて周囲を見回すを目掛けて、死者たちの群れが一斉に動き出す。殺せ、殺せと声にならない無言の叫びが、憎悪の大波となって押し寄せてきた。 次々と伸ばされた無数の手が、大きく開いてに掴みかかろうとする。考えている暇は無い。は千尋で迎え撃った。蒼い魔剣の閃きが、凝る闇を切り裂いて輝く。 剣を振りかざすその度に、受けた傷がひどく痛む。体も鉛のように重い。が、それでも、は迫り来る死霊の群れを睨み据え、果敢に応戦を試みる。光一つ無い暗闇の中、蒼い剣自体が放つ仄かな煌きだけが、虚空に鮮やかな軌跡を描いた。 斬り伏せられた死者たちは、倒れると同時に塵と化して消え失せる。骸が倒れる物音も、断末魔の声さえ上がらない。耳に届くのは、自らの吐く荒い息ばかり。激戦には似つかわしくない静謐が、辺り一帯を覆っていた。 戦ううちに目が慣れて、少しずつ周囲の様子が見えてきた。が、やはりその中に清一色の姿は無い。見えるのは、襲い来る敵たちの虚ろな顔ばかり。斬っても斬っても数が減らない。いつ終わるとも知れない戦いに、次第に焦りと苛立ちが募る。 そんなを何処で見ているのか。また、清一色の声が聞こえてきた。 「自分に刃向かう者は、誰彼構わず皆殺しですか? 本当に、恐いお人ですねぇ」 ますます、あの人に似ていますよ。清一色の呟きに、が露骨に顔をしかめた。 一体誰と比べているのか。先程の話の男か女か、それとも違う何処かの誰かか。に知る術は無いが、勝手に見比べられるのは腹が立つ。「訳分からない事言ってんじゃないわよ!」敵の一人を薙ぎ切ると同時に、大きく声を張り上げた。 すると。不意に、暗闇の中に白い影がふっと浮かび上がった。清一色本人だ。彼はにやりと口元を笑みの形に歪めると、くるりと踵を返して走り出した。まとう白装束の裾が、袖口が、空気を孕んで大きく膨らむ。 がその後を追う。有象無象の敵たちが、更にその後に続く。追っているのか追われているのか、混迷に満ちた追走劇が始まった。 重い体に鞭打って、はひたすら彼を追い続ける。時折、行く手を黒い影が遮るが、正体を確かめる前に斬り伏せた。 その度に清一色は肩ごしにこちらを見やり、いわくありげににやりと嗤った。無彩色の世界の中で、傷の痛みが、闇が、静謐が、五感を次第に狂わせてゆく。右、左、左、また右。走る白い影を追って、何度も道を折れ曲がる。そうしている内に、自分が一体何処を走っているのか、段々分からなくなってきた。 が、それでも、は彼を追い続ける。蒼い魔剣を振りかざし、ただひたすらに。 ―― 絶対に、逃がしてなるもんですか ―― ふつふつと湧き上がる感情は、怒りか、それとも憎しみか。正体不明の感情が、心の中で激しく渦巻く。 そんな追走劇の中、また、一つの人影が前に立ちはだかった。が、問答無用で斬りつける。が、その影は、斬撃を難なくかわし切ると、の両肩をがしりと掴んだ。 痛めた箇所をまともに掴まれて、激しい痛みがまた起こる。苦痛に顔を歪めるを、その人影は、敵は、覗き込むように自らの顔を寄せてきた。 「――!」 至近距離で見たその顔は――かつて慕い、憎み、自らの手で殺めた男の顔だった。 両親を亡くしたを引き取り、一年半だけ養父として一緒に暮らした実の伯父。義理の妹にあたる母に横恋慕し、父を、自分の弟を心から妬んで、結局は二人とも死に追いやった男。を手元に引き取ったのも、慈悲や愛情などではなく、死んだ母の身代わりにするためだと後で知った。幸い、魔の手が伸びる前には家を出て、事なきを得ていたのだが。 彼は、あの時と――復讐劇に終止符を打ったあの日と同じように、歪んだ笑顔でを見つめる。 『お前を愛しているよ。だからお前も、私を愛して――』 彼が全て言い終えるより先に、は千尋を横薙ぎに振るった。あの日、あの時と同じように。 男の体が、ゆっくりと後ろに倒れてゆく。その様もあの日と全く同じだ。いや、倒れてゆくのと同じ速さで肉が削げ、目が落ち窪み、全身が朽ち果ててゆく。スローモーションでくず折れる体の上を、何匹もの蛆虫が、何匹ものムカデが這い回る。 現実とも悪夢ともつかぬその光景に、は言葉もなく立ち尽くした。 「――おや、どうかしましたか。随分顔色が悪いですよ?」 背後から唐突に、からかうような清一色の声がした。 |