― 5 ―



八戒が台所に戻った時、すでに張の姿はなかった。今、出て行ったところだというの言葉に、八戒は家を出ると急ぎ足で後を追う。
細かな霧に似た雨が、しっとりと黒い髪を濡らしていく。単眼鏡にかかる髪をかきあげると、煙る雨の向こうに張の後ろ姿が見えた。
小走りで追いついて、補充する品物のメモを渡す。張はそれを愛想よく引き受けると、軽い口調でつけ加えた。

「あんた、雨は好きかい」

言葉の意味をとらえそこねて、八戒は相手をまじまじと見た。おそらく他意はないだろう。あるはずがない。

「旅の途中ですから」
「そうか、そうだなぁ」

張は受け取ったメモをごそごそと懐にしまいながら、ぼそりと呟いた。

「昔な、雨が嫌いなガキがいたんだよ」
「え?」

怪訝な顔の八戒から目をそらして、張はさりげなく馬の首をたたいた。

「雨だけじゃねぇ。川だの泉だのにも絶対近寄らなかった。んで雨の日にゃ一歩も家から出てこねぇ。いや出してもらえなかったんだろうな、ありゃ」
「出してもらえなかった?」
「母親にな」

張はどこか含みのある口ぶりで話し始めた。
慶陽の母親は、張や翠玉と同じ村の出だった。なかなかの美人だったが、まだ若い頃に家を飛び出して、数年後に村に戻ってきたのだ。幼い慶陽の手を引いて。母親は家族や周りからどんなに問い詰められようが、父親のことは一切喋らなかった。大方、本人にも父親が誰なのか分からないのだろう、というのが村人達の一致した意見だった。

「だからな、あいつの父親が誰なのか、知ってる奴はいねぇんだよ」


振り返った張の口元が、笑う形に歪む。翠玉の家で見せていた、人当たりのいい顔の下から、別の顔が表れた。

「それをどんな手ぇ使ったのか、氾家のお嬢さんをたらし込んで・・・」
「それで?何がおっしゃりたいんです」

八戒の抑えた口調と踏み出した一歩に気おされて、張は後ずさる。

「ま、まぁあんたらも気をつけるんだな。頼まれた物は明日には届けてやるよ」
「どうもご親切に」

丁寧な言葉使いに冷ややかな口調。八戒の態度ははどこまでも慇懃無礼。張は顔を赤くすると乱暴に馬の手綱を引いた。

「村のモンは、あの家に寄り付きゃしねぇよ。雨だろうが晴れだろうがな」

張は捨て台詞を吐いて八戒に背中を向けた。水滴をしたたらせる森の中、馬を引いた後ろ姿が遠ざかっていく。
八戒は雨粒のついた単眼鏡を外すと、肩布でそれをぬぐった。張の意図がどこにあるのか。仄めかされたことの真偽は分からない。
聞いた限りでは慶陽の母親という女性は人間のようだ、父親は不明だが。

―禁忌の子?―

いや写真で見た慶陽の髪は黒かった。第一それなら翠玉が知らないはずはないだろう。
考えながら八戒はぬかるんだ森の小道をたどって戻り始める。途中に会った水溜りを避けて、脇の茂みへ足を踏み入れた。と、足元に何かが引っかかった感触がした。次の瞬間、肩口をなにかがかすめる。

―っ!?―

とっさに地面に転がって避ける。そこから数センチと離れていない地面に、鋭い矢が数本、並んで突きささった。

「トラップ、ですか」

八戒は用心しながら立ち上がると、地面に突き立った矢を見た。角度から見るとあの辺りから発射されたのだろう。そう見当をつけて葉の繁った辺りに目をやる。
注意深く周りを見回すと、樹々の影や草むらには巧妙に張り巡らされた、細い線が見え隠れしている。数日前、八戒たちはこの森の東で数々のトラップに遭遇した。
あの時もそうだった。細いながらも道なりに進んでいる時には何ごともなかった。だが道をふさぐ倒木を避けて、脇に入ったとたんに数々のトラップの大歓迎を受けたのだ。
ジープの翼をも貫く強力な罠を仕掛けたのは誰なのか。そして何の為に。
八戒は落ちていた枝を拾い上げると、腕を伸ばしてこんもり繁った葉陰を伝う線を軽く引っ掛けてみた。
刹那、水滴を飛び散らせながら、頭上から鋭い影が放たれる。荒く削られた木製の槍が泥水のしぶきをあげて地面に突き立った。さっきの矢と同じ方角、翠玉たちの家を指して。






「俺ら、そろそろ行くわ」
「あら、よかった」
「あんたはいつまでココにいんの、
「さぁねぇ」

そっけないの返事にも、悟浄はくじけない。張を追って八戒が出て行った後、この食堂には悟浄との二人きりなのだから。
食事の後片付けを終えて、外の納屋に向かうのあとを、悟浄はのこのことついて行った。
納屋の隅に積み上げられた薪にが手をかける。

「貸せよ」
「ん・・・」

差し出した悟浄の腕に、は素直に薪の束をあずけた。

「ありがと、悟浄」

そう言っては疲れた笑みを浮かべた。青灰色の瞳はうす赤く濁り、その下には隈がにじんでいる。薪を集める仕草もどことなく億劫そうだ。
それでも大丈夫と笑って見せる。そんな笑顔には覚えがある。

―餓鬼が余計な気をまわすんじゃねえよ―

腹違いの兄の笑顔。
母親と兄とで住んでいた家。訪れる人などいなかったが、それでも年に数回、扉がたたかれることはあった。
破れたカーテン。壊れた家具。傷だらけの子供。すえた匂いが充満する家の中で何が起こっていたのか。一目見れば分からないはずがなかったのに、誰も何も言わなかった。
他人の家の事情に余計な口をはさむような真似をしなかった、というわけだ。あの頃の自分は幼すぎて気が付かなかったが。
分からないわけではない。好きこのんで人の家の厄介ごとに、首をつっこむ馬鹿はいない。まして妖怪と人間との間にできた子供と、夫に捨てられて壊れかけた女の為に。
だがあの時、差し伸べられる手が一本でもあったなら。

―兄貴は母さんを殺さずにすんだのかもな―

壊れていく母とその原因の異母弟を、一人で必死に支えていた兄は、今の自分よりも年下だった。

「ま、余計なお世話かもしんねぇけど」

あの頃の家の空気と、この家の空気はよく似ている、他所ものの介入を許さない、淀んで湿った空気。
密閉された家の中を、身内同士だけに通じるルールが支配しているからか。

「よかったら話してみねぇ?」
「また厄介ごとの種を拾うって、三蔵様に怒られるわよ」

は冗談で話をそらした。どうやら雇い主の情報を漏らす気などないらしい。それはそれで立派な心がけだが、雇われているだけのはずのが何故そこまでするのかひっかかる。
しばらく二人は無言で薪を集めていた。納屋の中は湿気を含んだ木と藁と土の匂い。
そして天井から吊るされた薬草の匂いがした。
明り取りの小窓から差し込む光の中に、舞い上がったほこりがきらきらと浮かび上がる。
やがてがぽつりとつぶやいた。

「美女と野獣って知ってる?」
「ああ、アレだろ。優しいお姉ちゃんと怖いケダモノが、真実の愛に目覚めてメデタシメデタシって」
「ひどい話よねぇ」
「どこが?」

種族の違いも魔女の呪いも乗り越える、愛の力を称えた話のどこに文句があるというのか。
は手にした薪で、コンコンと納屋の壁をたたき始めた。

「獣が好きで好きで好きで。死ンだと思って大泣きしてたら、勝手に王子様になって生き返っちゃうのよ?獣に惚れこんだヒロインの立場はどうなるのよ」

そうきたか。

「そりゃ見た目とココロは関係ない、っつー話でショ」
「だったら獣のまま二人で幸せになってもよさそうなもンじゃない」

は持っていた薪で壁を殴りつけた。薪は鈍い音を立て、湿った土の床に落ちる。
足元に転がった薪を、悟浄はだまって拾い上げた。
は何時でも何処でも誰にでも愛想がいい。職業柄なのか元々なのか。それがこうまでイラつくのも、それを剥き出しにするのも悟浄は初めて見た。
気まずそうにうつむくには、いつもの余裕は見当たらない。

・・・あんたさ、何か隠してねぇ?」

言ったあとで自分の迂闊さに気が付くのはいつもの事だ。すっと顔を上げたは、もう普段の顔に戻っている。
隠し事なんて何もありません。という愛想良しの女の顔。

「スリーサイズは ひ・み・つ」
「いや、それ知ってるし」
「いやぁねぇ。いつの間にチェックしてたの」

一瞬見せた本気が、冗談と笑顔に埋もれていく。
もどかしい。手探りした指先が一瞬何かに触れて、また離れて行ったような気がする。

「あんた、なにやってんだよ。ココで」
元技芸の旅の香玉売り。
どこかの酒場か市場で会うのなら、なんの不思議もない。それが妓楼やどこかの金持ちの屋敷でも構わない。
だが、森の中の一軒家で病人の世話をするというのは。

「だから、翠玉さんのご実家に頼まれて・・・」
「そんだけ?」

張の口ぶりからすると、氾家はかなり裕福な家らしい。それが娘と病気の夫を、こんな森の中に二人でいさせるだろうか。手伝いの人間をよこすなら、旅の人間を雇うより元からいる使用人を使う方が自然だろう。

―なんなんだ?この家はよ―

三蔵や八戒なら理論立てて推理するところだろうが、悟浄は理屈抜きに肌で感じ取るタイプだ。この家に滞在するようになってから、違和感は日に日に強くなっていった。
その只中にを置いて、自分達は明日にでも旅立たなくてはならない。なんとかケリをつけようとしてみたが、らちがあかない。
はだだをこねる子供を見るような目で悟浄を見ていた。

「なんつーかさ。俺にできることねぇ?」

手探りを続ける悟浄に、はしれっとした笑顔で応える。

「じゃあね、ひとつお願いがあるンだけど」
「なに」
「早くココから出て行って頂戴な」

悟浄はぐっと拳を握りしめた。

―あんたなぁ・・・―

怒鳴りつけたいのをなんとか押さえ込む。

「そんなに信用ねぇんだ?」
「そういう問題じゃないの」
「あぁ、そーですか」

薪の束を抱えて、悟浄はに背を向けた。納屋の戸を蹴り飛ばして開けると、台所に向かって歩き出す。足の下でぬかるんだ地面がぐちゃぐちゃと音を立てた。

―勝手にしろっつーの!―

パンツの膝の辺りまで泥が跳ね上がる。それにも気づかなかった悟浄は、納屋に一人残ったのため息にも気づくはずは無かった。

「ごめンなさい悟浄。でもね・・・あなたにだけはココにいて欲しくないの」



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