― 6 ―



「あれ・・・」

悟空が台所に飛びこんだ時、そこは無人だった。小さな鍋だけが火の上でことことと湯気を立てている。

「コーヒー・・・・は・・・これじゃないよな」

鍋のフタをとって中をのぞきこむ。途端に鼻を押さえてのけぞった。

「臭っせぇ、なんだよコレ」
「染料よ」
「うわ!?」

驚いて悟空がふり返ると、いつの間にか背後には翠玉が立っていた。

「あ、あのさ、コーヒーある?」

そう言えばこの人はいつも足音を立てない。なぜか腰が引けてくるのを押さえて悟空は聞いた。

「二階に来て」
「二階にあるの?コーヒー」
「彼がね 気分がいいから お客様とお話してみたいって言うの」
「悪いけど俺・・・三蔵が待ってるから」

どこか話が噛みあわない翠玉から、悟空は二三歩あとずさった。彼女はなんだか苦手だった。
作ってくれる食事は美味いが、同じテーブルで食べていても、一緒にはいないような気がする。同じ部屋にいて同じ物を見ていても、彼女の目には自分とは違うものが映っている。そんな気がして仕方がない。
そのまま背中を向けて部屋に戻ろうとした悟空の腕を翠玉が捕らえた。ひやりとしたその感触に、一瞬悟空の背筋に寒気が走る。

「いっしょに来てね」

そのまま翠玉は有無を言わさずに、悟空の手を引いて歩き始めた。

「待てよ」

手を振り払うタイミングを逃がして、悟空はそのまま二階に引きずられて行った。
はじめて足を踏み入れる二階は薄暗かった。廊下の奥の部屋の扉がきしんだ音をたてて開き二人を招き入れる。

「慶陽 お客さまを連れてきたわ」

翠玉が後ろ手に扉を閉ざすと、部屋を照らすのはもうランプのほのかな明かりだけだった。窓には厚いカーテンがかかり、外の光は入る隙もない。まだ午後も早い時間のはずなのに、この部屋は真夜中のまま時が止まったようだ。
そして動かない空気はもったりと重い匂いがしていた。百合の花のような、薬臭いような。無意識の内に悟空は手をあげて鼻をおさえた。

「気になるかい、この匂い」

悟空は声のした方向に顔をむけ、暗がりに目をこらした。

「初めまして」

部屋の奥に彼はいた。
ベッドから半身を起こして座る二十歳ぐらいの男性。短く切った黒い髪や、きちんと整えられているパジャマは、手厚い看護を受けているからなのだろう。
ただやはり長い病気のせいか顔色は悪い。そしてやつれた顔にはサングラスがあった。

「目が弱くてね」

思わずまじまじと見てしまった悟空に、慶陽は苦く笑って説明した。

「これぐらいの明かりでもまぶしいんだ」
「そう・・・なんだ」

そう言われれば、そういうものなのかな。と悟空は素直に納得する。病気なんだから、と。

「君たち旅をしているんだって?」
「う、うん」

翠玉にやんわりと背中を押されて、悟空はベッドの横に立った。

「よかったら旅の話を聞かせてくれないかな。僕は育った村から出たことがないんだ」
「けど」
―三蔵が待ってるから―

言いかけた悟空の膝の後ろがぐっと押される。かくんと腰を落とすと、尻の下にはいつのまにか椅子が置かれている。驚く悟空の目の前で翠玉は扉に近づき鍵をかけた。
ふり向いた翠玉は、どこか焦点が合わず、危うそうでいて奇妙に強い瞳で悟空に微笑みかける。

「ね、いいでしょう?」

あれぐらいの扉なら簡単に蹴破れる。そう見て悟空は慶陽に向き直った。慶陽は少し困ったように悟空と翠玉を見ている。

「君が嫌なら・・・いいんだよ」

彼は遠慮がちにそう言うと、ほっと息を吐いて掛けている毛布に視線を落とした。

「ごめんね、無理を言って」

長い病気でずっと寝ていて、退屈なのだろうこの人は。なんだか妙な家だけど、食事は美味かったし怪我をしたジープも休めた。話をするぐらいは構わないだろう。悟空はそう考えて口を開いた。
三蔵は怒るだろうけど。

「いいよ。あのな、前に砂漠で・・・・・・」

悟空の話に耳を傾ける慶陽は、楽しそうだった。

「すんげぇでっかい怪物で、悟浄が殴ってもぜーんぜん効かねぇの」
「それで?」
「三蔵が急所を狙って銃で一発!」
「へえ、凄いなぁ」

気が付くとベッドの反対側に翠玉が座っていた。慶陽を見つめる翠玉は穏やかな笑みを浮かべている。

「いつも宿はどうしているんだい?」
「野宿もよくするぜ。そういう時はもう腹減ってさ」

慶陽は笑ってサイドテーブルにあった菓子を指さした。

「よかったら食べるかい」
「いいのか?」
「どうぞ、僕はあまり食欲がないから」

悟空は遠慮なく菓子に手を伸ばしてほおばった。ふわりしたカステラに似た菓子は、ほんのりと甘い。

「うめぇー・・・んぐっ」

飲み込んだ固まりが喉につかえる。

「はい」

用意よく翠玉が湯気の立つカップを差し出した。一気に飲みほして悟空は照れて笑った。

「さんきゅ」

一息ついてやっと辺りを見わたす余裕が出た。暗さになれた金茶の瞳が、病人の部屋をくるりと見て取る。
カーテンの影からは、窓を打ちつけた分厚い板がのぞいていた。あれも外の光を入れないためなのだろうか。
ベッドの上の棚には香炉が置かれ、この甘ったるい臭いはそこから漂っているようだ。臭いを吸い込むと鼻の奥から、じんと痺れていくような気がする。

「どうかしたかい?」

そう口を開いた慶陽のパジャマの衿元には、点々と黒いシミがついている。髪と同じ色のそのシミは、他にもどこかで見た気がする。

「なんでもない。えーと」

あれはどこでだったろう。

「ずっとこの家で暮らしてんの?」
「ええ」

翠玉と慶陽が笑みの視線を交わしてうなづく。

「前は僕と僕の母とで住んでいたんだけどね」
「母親?」
「死んだんだ」
「そっか」

親しい者を亡くす。それはきっと哀しくて辛くて・・・・・・怖い。

「でもさ今は二人で・・・」
―よかったな―

そう言おうとした悟空の手からカップが転げ落ちた。拾おうと手を伸ばし、そのまま悟空は床に倒れこむ。

―あれ・・・なんで―

起き上がろうとしたが手足に力が入らない。目の前が次第に暗くなり、体中から力が抜けていく。

「やっぱり・・・・だったのね」
「もう駄目だね、僕は・・・」

ゆっくりと回りだした部屋の中で、悟空はそんな会話を聞いたように思った。眩暈の中にとりとめなく浮かんでは消える物たち。
『染料よ』と言った翠玉の乾いた顔。鍋で煮えていた黒い液体。青白い煙をくゆらせる華奢な香炉。
誰かが吐き捨てるように言っている。

なんて信じるんじゃなかった」

不意に悟空の頭の中に白い手が浮かんだ。ジープの怪我を調べるの細い指先についた黒いシミ。慶陽のパジャマに付いていたのと同じ色の。
どこかで見た色だと思ったのは、の指先でだったのか。
納得すると急にまぶたが重くなった。立ち上がろうという気が起きなかった。不快ではない。ただずっとこうして微睡んでいたい。

―三蔵、コーヒー・・・・待って・・・―

悟空の頭がことんと床に落ち、規則正しい寝息が始まったのはすぐのことだった。



「悟空?悟空」

鼻の下に冷たいものが押し当てられた。と思うとツンとする臭いが悟空の頭を目覚めさせた。

「大丈夫?悟空くん」
「・・・?」

ぼやけた視界がゆっくりと像を結び、心配そうなの顔になった。

「俺、なんで? そうだコーヒー」

体を起こすとまだ頭がふらつく。気が付くとそこは四人が泊まっている部屋のベッドだった。
ベッドの横で体を乗り出しているのはと八戒。少し離れた場所に悟浄が立ち、その向こうに三蔵がいた。眉間のしわがここからでもはっきりと見えるぐらいに深い。やけにけむいと思ったら部屋の空気は煙草の煙でうっすらとかすんでいた。

「薬香に酔っちゃったのね」
「薬香?」
「慶陽さんの部屋でね、焚いているの」

窓をあまり開けられないあの部屋で、臭いを消したり病人の気分を落ち着かせたりするために、香を焚いているのだとは説明した。

「少しキツい香だから、慣れない人だと酔うことがあるの」

気遣わしげには悟空の様子を見守る。

「悟空くん、あの部屋で何か口にした?」
「なんかカステラみたいなのと、茶をもらって食ったけど」
「そう・・・」

の視線が観察するように、悟空の様子を探る。やがて立ち上がって三蔵に軽く頭を下げた。

「申し訳ありませン」
「てめぇが謝ることじゃねぇ」

そう言いながらも三蔵の眉間の皺はくずれない。山盛りの灰皿に手にしていた煙草をねじ込んで、短く言う。

「明日、朝には発つ」

異議の声は誰からも上がらない。

「そう、ですか。じゃあ張さんに頼んだ物は、森の西側の街で受け取ってもらえるようにしておきますから」
「いいだろう」

安堵と後悔が入り混じったような表情で、は部屋を出て行った。

「まったく、なんでも拾って食うからブっ倒れんだよ、この欠食猿が」

悟浄が悟空の髪をわしわしとかき回す。

「猿っていうな。それに拾ったんじゃないっ、ちゃんともらったんだ。あの慶陽って奴に」

言い返して拳を振り上げた悟空は、ふっと八戒に向き直った。

「なぁ八戒。血が出る病気ってあるのか?」
「呼吸器系や消化器系の疾患の場合、吐血することはありますが・・・どうかしましたか?」

悟空は鼻をこすりあげた。まだ奥に薬香の匂いがこびりついているような気がする。

「あの慶陽って奴」

甘ったるい薬香の下に隠されていたのは間違いようも無く。

「血の匂いがしてた」



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