― 7 ― 一行が翠玉の家を出たのはまだ日も昇りきらない早朝だった。やっと光が射しはじめた空には雲の一つもなく、今日の晴天を約束している。 「お元気で」 一行を見送るのは一人。 「あの、翠玉さんは?」 「まだ眠ってるの。ゆうべ遅かったみたい」 「そうですか、ではよろしくと伝えてください」 丁寧に挨拶を交わし、八戒は肩に止まる白龍に微笑みかけた。 「行きましょうか、ジープ」 一声鳴いて、小さな龍は翼を広げる。ぴんと張った白い皮膜には、もう傷跡すら見つけられない。 「んじゃな」 「さよなら悟浄」 別れの口づけを頬に受けて、は悟浄に手をふった。 朝日がまぶしさを増していく。今日からまた、いい天気になってしまうのだろう。目を細めては空を振り仰いだ。翠玉たちの家を陽射しが照らし出していく。それを眺めていたの顔が不意にこわばった。 ―何の・・・音?― それは家の中から響いていた。正しくは二階の奥、慶陽の寝室から。無理矢理に押さえつけていた力を、壁に叩きつけるような鈍く激しい音が早朝の空気を震わせる。 ―まさかっ― 同じように音を聞きつけたのだろう。不審な顔で二階を見上げる四人を残し、は身をひるがえして家に駆け込もうとした。それを華奢な人影がさえぎる。 「どこへ行くの、」 「翠玉さんっ、どいてっ」 「駄目よ」 翠玉はの肩を両腕で押さえつけて告げた。蜂蜜色の瞳が憎しみをこめてをにらむ。 「慶陽は殺させないわ」 「何を言ってるの。早く彼をとめないと」 「おかしいと思ったの。父さんたちがあの人の看病に人をよこすなんて」 翠玉はの言葉に耳を貸そうともしない。 「そうなんでしょう。父さんたちに言われて、慶陽を殺しに来たんでしょう」 「違うわ、お願いそこをどいて」 今、理由は分からないがおそらく慶陽は薬が切れたのだろう。そして雨は止んでしまっている。もう幾らも起たないうちに太陽が姿を現すだろう。 そんな状態で慶陽があの四人の前に姿を現したらどうなるか。最悪の事態を予想して、焦るを捕らえる翠玉の指には一層力がこもった。細い指先がの肩の肉に食い込む。 「じゃあどうして彼は治らないの。それどころかどんどん衰弱してるじゃない」 「それは・・・」 口ごもったに翠玉がたたみこむ。 「あなたが調合した薬茶を飲んだら、あの悟空っていう子は倒れたわ。慶陽を殺す気だったんでしょう、少しずつ毒を飲ませて!あの薬香だってっ!」 「違うの、お願い。落ち着いて頂戴」 は翠玉を落ち着かせようと手を伸ばした。 「イヤっ、もう誰も信じない。慶陽っ、慶陽ーっ!」 半狂乱になっても、叫ぶのは愛しい人の名。 甲高い悲鳴に応えるように獣じみた雄叫びが響き、家全体がきしんで揺れた。窓を釘付けにしていた厚い板は内側から蹴破られ、こなごなに砕けて三蔵たちの足元に転がった。外の光を遮っていたカーテンはむしり取られ、千切れて風に飛ばされていく。 そして破壊された二階の窓から、紅い獣は光の中へと躍り出た。 「外に出ては駄目よ慶陽」 「どうして、母さん」 「今日は雨だから・・・」 「どうして雨だとダメなの」 「髪が濡れたら染め粉が取れちゃうでしょう。せっかく綺麗に染めたのに」 なぜ髪を黒く染めなくてはいけないのか。 なぜ自分の目と髪はみんなと違って紅いのか。 なぜ周囲の大人たちは自分と母親を嫌うのか。 答えては貰えない数々の問い。 「僕のお父さんは?」 それを聞くといつも母親は黙って彼を見つめ、きつく抱きしめて言うのだった。 「とても優しい・・・ヒトだったわよ」 そんな母を見るのは切なかった。思いやりは問いを押さえ込み、心に鎖をかけていく。 僕は大人しい、よい子でいなくてはいけないのだ。 僕は雨の日には外に出てはいけないのだ。 村の子供達に混じって遊んだり喧嘩をすることもなく。常に目立たず控えめにふるまって。 黙ったまま母は逝き、なにも聞かずに恋人は訪れ、つまづきながらも穏やかな日々が続いていた。 ある日、異変が始まるまでは。 ふっと記憶が飛び、気がつくと手が血で濡れていた。そんな日が月に一二度。やがて数える暇もないほど頻繁になっていくのに時間はかからなかった。 それはいつも血のざわめきから始まる。体中に荒々しい力が溢れ、奥底から昏い衝動が突き上げる。 柔らかな肉を引き裂きたい。 温かな血を全身に浴びたい。 脈打つ命をこの手で握りつぶしたい。 生々しい夢から覚めて目を開けば、口元から胸にかけて血まみれになった自分がいた。その足元に転がるのは、食い散らかされたような無残な死体。 混乱した。 だが恐怖も嫌悪も感じなかった。口中にあふれる鉄錆の匂いは不思議に甘い。こんな爽快な気分になったのは、生まれて初めてのことだった。なにも悩まずに動けることも。 快感を追い求めれば、加速度をつけて堕ちていった。 恐怖に見開かれた獲物の目は、抉り取ってしまいたくなるほど可愛らしい。命乞いから悲鳴に変る瞬間の絶叫は、なんど聞いてもうっとりする。 人の倫理も常識も引きちぎってしまえば、獣の自由が手に入る。 ただ雨の音と哀しい瞳がそれを引き止めた。 「どうしたの、しっかりして 慶陽っ!」 あれハ誰ダろう 母さん? そレとも? あァソウだ 雨の日にハ外に出テはいケない。 正気に返って部屋に閉じこもれば、爪の間にこびりついた血の匂いに吐き気がした。 閉じた目の裏に浮かんでは消えるのは、無残な死体のデスマスク。 途切れのない雨音は、耳の底から断末魔の呻き声を浮かび上がらせる。 どうナってしマウのだロう。 僕ハ一体なんなンダ。 だが永遠に降り続ける雨はない。 日の光は雨が作る細い銀の檻を打ち壊し、彼の前に道を開く。溢れる日光の下で、冴えわたる月光の中で、心ゆくまで血と暴力に酔いしれるのは、なんて愉快なのだろう。 黒く染めても染めても、髪は返り血を吸い上げたように、その紅さを増していく。耳がとがり、額には刺青をいれたように文様が浮かび、少しずつ人の形から遠ざかっていく。 体も、そして心も。 まルデ・・・妖怪のよウダなァ。 そう考える自我も日に日に薄れていくようだ。 自分が何者なのかも、もうどうでもいい。 ただ獲物の手足をもぎ取り、なま温かい内臓をすすり上げるのが、楽しくて楽しくてたまらない。 さあ、鬱陶しい雨は上がった。 ムカつくような薬香の匂いも、もうしない。 殺殺殺殺ャッーーーー!! 紅い獣は牙をむいて咆哮した。それは人であれば歓声と呼ばれたことだろう。 「な・・・んだよ、あれ」 「分からんか」 一瞬の迷いも見せずに、三蔵は銃を取り出し狙いを定めた。 「敵だ」 昨夜までは慶陽と呼ばれていた者の眉間に、ぴたりと照準を合わせ、白い法衣の最高僧はためらいもなく引き金をひく。 雨上がりの森。したたる緑と光の中で、悲鳴と銃声が交錯した。 |