― 8 ― 早朝の爽やかな空気を、硝煙の匂いが侵食していく。磨きぬかれた鋼の銃は、鈍く朝日を反射しながら、細く白煙を吐き出す。その銃口を高く天に向けて。 「なんの真似だ」 銃を持つ三蔵の右腕にしがみつき、高く掲げているのは。 「敵じゃないンです」 全身の力をこめて銃口を獣から外し、は懇願する。 「撃たないで下さいな」 翠玉の両腕を振りほどいたときに破れたのか。服の両肩が裂け赤い爪あとがのぞいている。 そんな二人を翠玉は不思議そうに見ていた。 「どうして うつの?」 小首をかしげながら、翠玉は傍らの獣に寄りそう。 「すきにしていいって いったじゃない」 獣は喉の奥で唸り声をあげた。人間だった頃の面影はかろうじて留めてはいる。だが不自然に筋肉が盛り上がった体から放射されるのは、気も狂うほどの飢餓感。 「慶陽はね びょうきなの だれかをころせば らくになれるの だから」 うっとりと笑みを浮かべる翠玉の琥珀色の瞳には、ただ一人しか映ってはいないのだろう。 「ころされてね」 そして瞳が映した像を、心は幸せだった昔の姿に変換させ、目の前の現実を否定する。 「慶陽?じゃあアレが翠玉ちゃんの旦那だってのか?」 「悟空、貴方が見た時は?」 悟空は首を振った。 「違う、俺が見たときは髪も黒くて、もっと・・・普通の人間だった」 だが三蔵達に対峙する者は、人ではなかった。 燃えるような紅い髪。血の色そのままの瞳。額には烙印めいた紋様。 「どっから見ても立派な妖怪だろ、ありゃ」 「おまけに正気ではないようですね」 自我も思考も崩壊し、ただ本能のみに忠実になった生き物。旅の途中でうんざりするほど見てきた、暴走した妖怪の姿がそこにあった。 ただその髪と目の色が意味するところは、誰も口にはしなかったが。 獣は牙をむき出して唸った。ゆらりと前に突き出した腕の先には、殺戮に慣れた爪が鈍く光る。 悟浄達は低く構えると、戦闘体勢をとった。妖力を込めた腕の中に、それぞれの得物が現れる。 「ようかい? なんのこと?」 翠玉は愛しそうに獣の肩から背中へと手を滑らせる。そこには紅い剛毛がたてがみのようにみっしりと生えていた。 「慶陽は びょうきなの でも 三蔵さまの ちをのめば きっとなおるのよ ねぇ?」 翠玉は同意を求めるように、三蔵を振り向いた。 必死に腕を押さえるをそのままに、三蔵は右の手首を軽くひねって銃を投げる。 宙に弧を描いた鋼の凶器を、左の手が受け止めた。 翠玉の笑みが凍りつく。次の瞬間、銃声が響き獣のわき腹から血が噴き出した。 「どけ」 無造作に振り払われて、は足元のぬかるみに倒れこんだ。銃は再び火を噴き戦いが始まった。 痛みで更に凶暴さを増した獣が、正面にいた悟空に向かって突進する。空を切って振り下ろされた獣の太い腕を、悟空は如意棒で受け止めた。そのまま低い位置から跳んで獣の腹を蹴り上げる。 げぼっと息を吐いて獣はのけぞった。剥き出しになった分厚い胸板を狙って、八戒の気功砲が炸裂する。 それを紙一重で避けたのは、獣ならではの本能のなせる業なのか。 体勢を立て直した獣の顔が苛立たしげに歪む。どうやらこれまでの獲物たちとは違うことに気づいたようだ。 逃げもしないし悲鳴もあげない。それどころか反撃してくる。 「慶陽っ」 手負いの獣は駆け寄ってくる気配に、反射的に拳を振り上げた。 拳の下にいるのは、何が起きているのか分からずに立ち尽くす翠玉。 捻り合わせたロープのように筋肉が盛り上がった獣の腕めがけて鎖が飛ぶ。翠玉の顔すれすれの位置で、岩の拳はその動きを鎖に拘束された。 「女に手ぇ上げてんじゃねぇぞ」 悟浄は錫杖から繰り出した鎖を右手で手繰った。獣と悟浄の間で張り詰めた鎖がぎりぎりと軋む。 「やめてぇっ!」 どちらに向かって言ったのか。それは叫んだ翠玉自身にも分かってはいないのかもしれない。 一瞬、鎖を引く悟浄の手が緩む。すかさず獣は力任せに鎖の絡んだ自分の腕を一旋させた。 「ちぃっ」 「きゃっ」 悟浄と翠玉は一塊りになって地面に叩き付けられた。とっさに翠玉をかばって地に這った悟浄に獣が迫る。 が、不意に獣は横に飛んだ。刹那、今まで獣がいた場所に、銃弾が打ち込まれる。弾が掠めた脚の痛みに呻く間も与えずに、次々に攻撃が繰り出される。 戦いのさなか、まだはぬかるみの中にいた。服にじわじわと染みていく泥水の冷たさにも気づかずに。 ―あの時・・・― 出会ってしまった雨の日に、迷わずあの四人を追い出していれば。 悟空が二階に上がったことに気づいていれば。 昨日の夜、いや今朝でもいい。慶陽の様子を自分の目で確認していれば。 噛みしめた歯の奥からは、じゃりっと砂の感触がした。 もしもを百万積み上げても、状況は変わらない。 獣はじりじりと追い詰められていた。妖怪達から「悪魔」「極悪人」呼ばわりされているあの四人が相手なのだから無理はない。もう勝負がつくのは時間の問題だろう。 暴走していたから。不幸な境遇だから。それは幾人もの命を奪ったことの免罪符にはならない。 まして彼ら四人は売られた喧嘩の買取価格を、人間か妖怪かで差をつけたりしない。 その姿勢に文句を言える筋合いではないが。 「でもね・・・」 はゆっくりと泥の中から立ち上がった。 「途中で放り出すわけには・・・・いかないのよねぇ」 懐から細い紐を取り出すと、は長い髪をきりっと一つにまとめて縛った。 泥のついた指先を素早く袖でぬぐい、唇に当てて思い切り息を吹き込む。場違いに陽気な指笛の音が修羅場に響いた。 獣の注意が自分に向いた一瞬を逃がさずに、は素早く懐から細身の短剣を取りだした。光る刃を左手首にあてて思い切りよく横に引く。 赤い血が流れる腕を見せつけるように高く上げると、は一声叫んで森の中へと駆け出した。 「鬼さん、こちらっ!」 必ず獣は追ってくる。 手強い男四人と、ひ弱な女一人。どちらの肉がより柔らかく引き裂きやすいか。それに何よりも新鮮な血の匂いが飢えた獣には魅力的なはずだ。 森の中を駆け抜けながら、は予想が当たったことを、背後に迫る足音で知った。 繁る枝をなぎ払い濡れた草を蹴って、凶暴な気配が近づいてくる。 は森の細い道をはずれ、更に奥へと走った。その行く手を倒木が遮る。とんっ、と弾みをつけてそれを飛び越えながら、の青灰色の瞳は目印を見つけていた。 生い茂る下生えの間をすり抜けて走るの後ろで、鋭い何かが砂袋に刺さるような音がした。続いて怒りの咆哮があがる。 それを皮切りに、次々にトラップが発動していった。森に入る者にではなく、道をはずれて森から出ようとする者に向けて仕掛けた罠が。 鋭く削った木の槍や落とし穴が次々に現れ、獣の行く手を阻む。だがこれまでと違い、完全に暴走した獣を捕らえられるはずはない。 だが今は獣の足を少しでも遅らせることができればいい。 ―このまま、あそこへっ!― 自分が仕掛けたとはいえ、いちいちトラップの場所を確かめる余裕は今のにはない。勘と視界の隅をよぎる目印だけを頼りに罠を避けながら、森の奥を目指してひた走る。 「つっ!?」 不意に頭を仰け反らせて、の足が止まった。ふり向くと垂れ下がった枝に巻き毛が絡み付いている。は手にした短剣で髪の一房を引き切った。 その僅かな間に獣はに追いついた。獲物を見つけて勝ち誇ったように唸り声をあげる。その唾液で濡れた牙が肉の歯ごたえを求めて、がちがちと噛み合わされた。 は手にした短剣を握りなおした。獣から目をそらさずに、後ずさりしながら、手近なトラップの位置を思い出そうとする。 獣は舌なめずりをしたかと思うと、に飛びかかった。その肩口に鈍い音をたてて如意棒がめりこむ。 「お前の相手はこっちだろっ!」 前にのめった獣の後ろから、小柄な体が勢いよく現れる。 「悟空くんっ」 「大丈夫かっ、」 如意棒を斜めに構えて悟空は獣に向かった。 「駄目っ!」 「っ・・・と」 に制されて、飛び出しかけていた悟空はたたらを踏む。 「殺さないでっ」 は左腕を獣に向かって振った。まだ塞がりきらない傷口から血が飛び散り獣を挑発する。 敵と獲物との間で迷う獣の足元に、突然青白い光球が弾けた。飛び退いた獣はそのままに迫る。 は無防備な背中を獣に向け、森の更に奥に向かって再び走り出した。 「援護します。そのまま走って!」 の目的を知っているかのように、背後で気孔がはじける音がした。 ―あれは八戒さん?― 振り向くこともできずに、はただ走りつづけた。 やがて追う者と追われる者は森の最奥にたどり着いた。そこに在るのは一本の巨木。辺りは黒々と繁る枝葉に遮られて、差し込む日の光も弱々しい。 そのせいで下草や若木が育たないのだろう、ぽかりと開いた空間が広がっていた。 地を這う太い根をよじ登り、は巨木の幹に飛びついた。頭上の枝から幹へと張り巡らされたロープに、手にした短剣の刃を当てる。 が、刃はロープの上を滑るだけだった。 ―切れないっ!?― 雨に濡れ日に乾きをくり返したロープは固く締まり、細い短剣を受け付けようとしない。 さらに力を込めては刃を前後に動かした。だが、切れたのは外側の繊維がわずか二三本。 飢えと怒りと憎しみの全てを叩きつけるように、獣が雄叫びを上げて迫る。それでもはロープに食い込んだ短剣から手を離さない。 |