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っ! 伏せろォーーッ!」

空気を震わせる怒声。
反射的にはその場に伏せた。
連続する金属音。獣の横を掠めて鉄鎖がうねる。
曲線を描いて飛来した牙形の刃が巨木の幹を抉り、ロープを断ち切った。
暗く繁る巨木の枝の中で、留めを失ったトラップが破裂する。

「息、止めてぇーッ!」

が叫ぶ。
その場に駆け込んできた悟浄、悟空、八戒は、とっさに鼻と口を押さえて呼吸を止めた。ただ言葉の通じない獣だけが獲物に向かって飛び掛る。その頭上に、空から黒い雨が降り注いだ。
獣の動きが止まった。
不快そうに首を振り、全身を濡らす黒い液体を両手で拭い取ろうとする。不意に吐くような声を上げ、獣は地面に倒れた。咳き込み、のたうつ獣の上に、黒い液体はしたたりつづける。

「くっせぇ・・・」
「吸い込んじゃ駄目です」

悟浄達は臭いの薄くなる場所を求めて移動し、自然とのいる場所に集まった。
三人の目は充血し、涙が溢れて止まらない。吸い込んだ異臭混じりの空気は喉を焼き、頭の芯を痺れされる。いつもと変わらないのは三蔵との二人のみ。

「おい、見ろっ!」

五人の視線が獣に集中する。黒く溜まった液体の中で、もがきながら獣の姿は変わっていった。
耳は短く丸みを帯び、背中を覆うたてがみが抜け落ちていく。鋭い爪は平たく変わり、額の刺青めいた痣も薄れて消える。
まるで魔法にかけられたような、いや魔法が解けていくような光景。

「妖怪忌避剤、だな」

三蔵の言葉には黙って頷いた。
普段、護身用に持っているものの、数倍の濃度を持つ黒い忌避剤。それは妖怪には致命的な毒となる。人と妖怪の混じった体は、自らの命を守ろうと妖怪の性を内に閉じ込め、人の性で外側を覆う。
巨木の下で動かなくなった体には、もう妖怪の特徴は無い。ただ髪だけが赤いままで。

「知らなかったんですか、慶陽さんは自分のことを」
「そうみたいね」

は気を失ったままの慶陽に近づいた。黒い水溜りに無造作に足を踏み入れる。人間の体にはこの忌避剤は害をもたらさない。
慶陽の傍らに膝をつき、呼吸があるのを確かめる。浅くではあるが息はあった。心臓も動いている。
はほっと息をつくと、慶陽の両腕の間に手を入れて抱えあげようとした。が、意識の無い男の体は女の力ではなかなか思うようには動かせない。

「さわらないで頂戴ね」

手伝おうとした悟浄を押しとどめる。

「危ないから・・・」

小声で付け足して、は慶陽の体を黒い水溜りからなんとか引きずり出した。
自分の片袖を破りとって、慶陽の体を拭っていく。傷口の泥をふき取り打撲の痕を辿る。骨は折れてはいなかったが、酷使された筋肉の腫れがひどい。
薬を含ませようとして慶陽の口をこじ開けると、ぼろりと歯が抜け落ちた。痩せて色が薄くなった歯茎からは血も流れない。

―ここまで衰弱したら、もう・・・―

思いを顔に出すことは無く、は黙々と手を動かした。それを見守る悟浄たちも、無言のままだった。
いつの間にか日は高く上り、繁った葉の間からも木漏れ日が射しこんで来た。まだ雨を含んだ草や葉はきらきらと光を反射し、空に向かって伸びていこうとする。
久しぶりに顔を見せた太陽を歓迎するように、小鳥達が囀る。長い雨に蕾を閉ざしていた花々は、ゆっくりと頭をもたげて色鮮やかな花弁を広げ、それを待っていたように蜂や蝶が飛び交う。
ふいに小鳥の歌声が止み、飛び立つ音がした、と思うと茂みの一つが揺れた。
茂みの中から姿を現したのは翠玉だった。慶陽たちを追って森をさ迷ったのだろう。
乱れた髪には葉や小枝が絡まり、服はあちこち破れている。
急に開けた場所に出て戸惑ったように翠玉は辺りを見回す。その瞳が捜し求めていた者を見つけた。

「慶陽っ!」

翠玉は駆け寄ると達には目もくれずにその場に膝をつき、慶陽を胸に抱きしめた。

「しっかりしてっ、慶陽っ!」

翠玉に揺さぶられても慶陽は目を閉じたまま動かない。

「イヤっ!目を開けてぇっ!」

翠玉は傍らに立つ三蔵を見上げた。

「あなた三蔵法師なんでしょう、偉いお坊さんなんでしょうっ!だったら・・・だったら助けてよぉっ!」

つい先程、殺されろと言った相手に救いを求める。それはエゴだと言われれば、返す言葉はないけれど。
血を吐くような哀願は、すすり泣きに変わっていった。

「お願い・・・助けて・・・」

この世界に五つあるという天地開元経文。その一つ、魔天経文を肩にかけて佇む、白い法衣の三蔵法師。金の髪は木々の間からこぼれる光を受けて冠のように輝く。

「人助けが坊主の仕事だってのは、誰が決めたんだ」

金糸の髪の下では、眉間の皺がくっきりと深い。

「そうだろ普通は」
「普通じゃありませんしね」
「三蔵って坊さんだったっけ」

小声で囁きあう外野を、紫暗の瞳が一睨みで黙らせる。

「てめぇはそいつの何を見ていた」
「なに・・・を・・・?」

翠玉は慶陽に視線を落とした。
こうして日の光の下で彼を見るのは、何ヶ月ぶりになるのだろう。染めを繰り返して艶の無くなった髪は、赤茶けて枯草の手触りがした。
げっそりと頬のこけた顔には生気が無く、閉じたまぶたは時々ひくひくと痙攣する。まるで悪夢にうなされているように。
異変が始まってからは、日の光に怯え雨の音にうなされて、安らかに眠れた夜など彼にはほとんど無かったろう。
慶陽の痩せ細った腕はだらりと投げ出され、指先が力なく丸まっている。その爪が黒ずんでいるのは、染み付いてしまった血のせい。

「そいつは昔から人殺しが趣味だった、とでも言うのか」
「そんな・・・」

翠玉は弱々しく首を振った。

「俺を喰ったところで、そいつは助からん。喰われてやる気もねぇがな」

三蔵の言葉には、道を説こうだの、諭そうだのという気配は微塵もない。救いが欲しくて伸ばした腕は、くるりと回って己に返る。

「慶・・・陽・・・わたし」

もう一度、光の中で笑いたかったね。
二人で。

「わたし・・・」

生きていて欲しかったね
どんな姿になっても。

「ごめんなさい」

気がついてしまったね。
終わらせる方法に。
翠玉の手が震えながらの短剣に伸びる。だがその手はやんわりと押さえられた。

「大丈夫よ。翠玉さン」

はそっと翠玉の乱れた髪を撫でた。

「三蔵様は助けてくれるわ」
「おい・・・」

低く咎める声には構わず、は翠玉の目を真っ直ぐに見ながら、優しく言い聞かせる。

「ずっと西の方にね、牛魔王っていう悪い妖怪がいるの。その妖怪が妖術を使うせいで、病気になる人が増えているの。慶陽さんみたいに・・・」

背後で悟浄達が身じろぐのが分かった。
当然の反応だろう。「異変」の原因と玄奘三蔵法師の旅の理由を知っている者は、ごく限られている筈なのだから。

「三蔵様はね、その牛魔王を倒す為に、西に向かって旅をしているの。だから・・・」

幾つもの嘘と事実を積み重ねて、虚構を組み上げよう。一つの嘘をつき通すために。
目の前の現実を、分かりやすく信じやすい、おとぎ話に作り変えて。

「三蔵様が牛魔王を倒せば、慶陽さんの病気も治るのよ」

涙に沈んでいた翠玉の瞳に、かすかな光がともる。

「本当に?」
「本当に」

は深く頷いた。

「よかっ・・・た・・・」

淡く微笑んで翠玉は瞳を閉じた。そのまま糸が切れたように慶陽の上に倒れこむ。
折り重なった恋人達の体の上では、緑の木漏れ日が静かに揺れていた。



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