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情人というのは退屈なものだ。 と悟浄は思い始めていた。芙蓉楼での生活は快適だ。食事は上げ膳据え膳だし、掃除やらの雑用は寧々がやっている。 の情人宣言のおかげで支払いは気にしなくていいし、他の妓女達ともお近づきになれる。はそういうコトには口を挟まない。 はいつも昼過ぎにもそもそと起きだす。着替えて食事をとると、夕方まで部屋でぼうっとして過ごす。 気が向けば楽器を爪弾いたり手紙を書いたりもするが、悟浄の膝に頭をもたせて、ぼんやりと風に揺れるカーテンを眺めていたりする時間の方が多い。 そして夕方、遊郭に灯りが点る頃、は湯をつかって身支度をゆるゆると始める。 鏡台の前に座って、髪を結い上げ、瞼に藍をはき、唇に紅をさす。客から贈られたらしい衣装や装身具を着けていくうちに、は妓女の顔になっていく。 「ん〜」 首飾りをつけようとして、首の後ろに回したの手がもたつく。 「ほらよ」 悟浄が後ろに立ち、首飾りの細かな留め金をとめてやる。 「ありがと」 すっかり支度が出来上がったは、悟浄の前でくるりと回って微笑んでみせる。 「どう?」 「いーんでない」 「じゃあね」 そう言っては部屋を出て行く。毎晩のように呼ばれて、行くことは行くのだが、すぐに戻ってくる時もあれば、明け方近くまで戻らない時もある。 その間、悟浄は暇なのだ。 もともと女性にはまめな性格だから、芙蓉楼にも他の遊郭にも、顔なじみの妓女は何人かできていた。彼女達の部屋に行けば、一緒に夜を過ごす相手に不自由はしないだろう。 だが、なぜかその気にはなれなかった。 夜遅くに戻ってきたは、ベッドにもぐりこむと悟浄の横で丸くなって眠る。 化粧を落とした寝顔と軽い寝息。 昼下がりの部屋で、悟浄と他愛もない話をしながらもらした、小さなあくび。 そんなものを思い出してしまうと、なんとなく他の妓女と遊ぶ気がなくなってくるのだ。 ただそういうの生活に付き合うと、芙蓉楼から、というよりもこの部屋からほとんど出ることがない。 には当たり前の生活なのだろうが、悟浄はそろそろ体が鈍ってくるのを感じていた。 ―そろそろ帰らねぇと、マズいかもな― 芙蓉楼に来て、そろそろ一週間になる。八戒に連絡を入れていなかったし、このままでは流石に心配するだろう。 『連絡ぐらい入れてくださいね』と、あの凄みのある笑顔で言われたくはない。 ただ何となく言い出しそびれて、芙蓉楼に居つづけていた。 その日もは昼過ぎに起きだした。いつものように午後を過ごし、いつものように身支度を始めた。 やがて日も暮れ、花街に灯りがともる。気の早い客が店に上がりはじめ、迎える妓女達のさざめくような声が聞こえ始める。 「姐さん。張の旦那がお上がりです」 「ん〜〜」 呼びに来た寧々に、は気のない返事を返した。 「もうお待ちですよ」 「具合が悪いって言っといて頂戴」 「そんな…」 困った顔で寧々は扉の前に立っていたが、別の方から呼ばれてそちらに走っていった。 その様子を見ていた悟浄は、さりげなく聞いた。 「いーの?行かなくて」 「ん……」 返事ともため息ともつかないものを返すと、は低い箪笥の上に置いてある、金魚の水槽に近づいた。脇にあった小箱から餌を取り出して、ぱらぱらと水面にまく。金魚は目と口を丸く開けて、餌をぱくつき始めた。 は丸い水槽に顔を寄せて、その様子をぼんやりと眺めている。すこし傾けた首筋に、赤味のかかった金色の髪が、ゆるい波を作りながら一房こぼれる。こめかみの辺りからぐるりと巻いた黒い編みひもは、今日は花の形に結ってある。 ―そういや、いつも着けてんな。あの黒いヤツ― 悟浄はの隣に立つと、水槽をのぞきこんだ。 「金魚、好きなんだ?」 「別に、そういうわけじゃないけどね。いいなぁって」 ―いいか? 金魚が? ― 紅い体をたゆたわせ、小さな水槽の中で生きる観賞用の魚。確かに飢えることも、危険な目にあうこともないのだろうが。 「広―い海で泳ぎたいと、思ってんじゃねぇの? コイツもさ」 「金魚は海じゃ生きらンないわよ、淡水魚だもの。それにねぇ…」 丸い水槽のふちを指先でなぞりながらが言う。 「生まれる前からここに居て、ここしか知らなかったら、どこかに行きたいとも思わないンじゃない?」 「つまんなくねぇ?そーゆーのってさ」 「さぁね」 会話が途切れた。 空気がなんとなく重い。 間がもたずに部屋を見回した悟浄は、鏡台の上に置かれた写真に目を留めた。鏡の後ろに半分隠れていて、今まで気がつかなかった。近寄って見ると、写真の中では明るい金色の髪をした女が、赤ん坊を抱いていた。 着ている服から、赤ん坊は女の子だと分かる。母親だろうか、女は愛しそうに赤ん坊を抱きしめて微笑んでいた。その写真をしばらく眺めた悟浄は、女の顔立ちがに似ていることに気づいた。 「コレって、もしかして?」 「あぁ、そぅ。私の母親」 「へぇ、美人だな」 よく見れば写真の部屋は、今いるの部屋と同じ場所だと分かる。 「綺麗な人、だったわよ。純情でね。来ない人をずっと待って……待ちくたびれて死ンじゃった」 「へぇ……」 悟浄にはなんと言ったらいいのか分からない。 『母親』を持ったことが無い自分が、母親を失った人間になにを言えるというのか。 「小さかったからよく覚えてないンだけどね、私。母さんが死んだ時、ここの女将さんがお経を読んでくれって、馴染みのお坊様に頼んでくれたの。でも断られてね。あれは悲しかったなぁ」 「断った? なんで?」 「卑しい妓女の為になんて経はあげられないンだって。遊びには来るくせにねぇ……」 そう言ってはくすくすと笑いながら、悟浄の手から写真立てを取り上げた。 「なぁんてね」 「あ?」 「妓女の身の上話なんて、本気にしちゃダメよぉ」 の両腕が悟浄の肩にかかる。 「からかってんのかよ?」 「どうでもいいじゃない。親とか昔の話とかなンて」 そう言うの笑顔は、どこか作り物めいている。 「まぁな。俺はあんたが今ここにいりゃ、それでじゅーぶんよ」 「ありがと」 は笑って悟浄にしなだれかかった。ゆるく波うつの髪が悟浄の肩にかかる。 顔と顔が少しずつ近づいて、互いの呼吸が感じられるほどになる。 前かがみになったの胸元に、悟浄の手がすべりこんだ。半開きになったの口元から、吐息がも れる。 その時、ふっとが顔をあげた。 |