― 6 ―


「どうした?」

悟浄の言葉も終わらないうちに、部屋の外から怒鳴り声が聞こえてきた。

はどこだっ、もう誤魔化されんぞ」
「待ってくださいよ、張の若旦那」

なだめる女将の声をかき消すような勢いで、数人の足音が近づいてくる。

「あーぁ、野暮よねぇ」

はうんざりとした表情で、服の合わせを直しながら立ち上がった。

「なに、客と揉めてんの?」
「遊び方が下手な客なだけ」

ほつれかけた金の髪をなでつけながら、はこともなげに言う。

「金を払えばなにをしてもいいって思ってるンだもの。やってらンないわ」

ここ芙蓉楼は花街の中でも一二を争う老舗である。そこに身をおく妓女達も当然一流、体を売るしかない女などいない。舞や歌、楽器の演奏、詩歌や話芸など、磨き上げた己の技で客をもてなす。
客の側もそれは承知の上で遊びに来るのだ。高い花代をはらっても、妓女達と枕を交わそうとは、客の方からは言い出さない。
金や力ずくでの無理押しなどすれば、『野暮』と指さされて遊郭中の笑いものになる。

「でもまずくねぇ? こーゆー状況で俺がいたらさ」
「ちょっとまずいかもね」

そう言いながらもは慌てる風でもない。慣れているのか、どうでもいいと思っているのか。

っ! 出て来いっ!」

怒鳴り声はもうすぐそこまで迫っている。

「んじゃ、コワイお兄さんが来る前に行きますか」
「どこへ?」

きょとんとするに、悟浄はにやりと笑って見せる。

「愛の逃避行」
「え!?」

悟浄はいきなりを抱きかかえた。世間一般でいう『お姫さまだっこ』というやつである。

っ!!」

部屋の扉が蹴破られ、男達の一団がなだれ込んできた。窓辺に立つ悟浄との姿を見つけ、先頭の男が顔を真っ赤にして怒鳴りつける。

「この妓女がっ! 今度はどこの馬の骨をくわえ込んだっ!」
「骨なら硬いもの。あなたの柔らかいアレよりマシよ」

挑発するようにそう言うと、はこれ見よがしに悟浄の首に両手を回す。
騒ぎを聞きつけて集まった遊郭の者や客が、ぷっと吹きだした。

「こ・・・の・・・」
「まぁまぁ、張の若旦那。ここはひとつ」

張と呼ばれたその男は、なだめる女将を突き飛ばすように振り払った。

「たたっ斬ってくれる・・・」

たちを睨みつけながら、張はずらりと腰の剣を抜く。

「なーるほど。こりゃ、あんたが嫌うのも無理ねェや」
「でしょ?」

悟浄との会話が、張の怒りをまた煽る。

「黙れッ!」

剣を振りかざして張が飛び掛った。
その腹に悟浄の蹴りがまともに入る。

「げふっ」

動きが止まったところを狙って、今度は手首を蹴り上げる。張の手から剣が落ちた。それをすかさず悟浄が部屋の隅に蹴りこむ。

「こいつっ!?」

男達が殺気だって悟浄を取り囲む。

「おのれ…やれっ!! 殺してしまえっ!!」

腹を抱えて蹲ったままの張が叫んだ。手に手に得物を持った男達が飛び掛る。

「おっと」

を抱いたままの体勢で悟浄は、それを身軽にかわす。そして窓辺に足をかけると、に小声でささやいた。

「しっかりつかまってろよ、
「え?」

に聞き返す暇も与えず、悟浄は三階の窓から外へ飛び出した。落ちながら二階の窓の手すりを蹴って、庭に着地する。

「走るぞっ」

を下ろすと、その手を取って悟浄は走り出した。
の部屋の窓から身を乗り出していた男達が、その様子を見て口々に怒鳴り声を上げる。

「追えっ、外に出すなっ!」
「門を閉じろーっ!」

朱塗りの門がぎいっと音を立てて閉じかける。その間隙を縫って悟浄は月牙産をねじこんだ。力ずくでこじ開けた隙間をがすりぬける。悟浄はそれを見届けてあとに続く。二人の後で門が騒々しい音を立てて閉じた。
豪奢な造りの遊郭が建ち並ぶ大通り。塀からのぞく建物からは、色とりどりの灯りがもれる。扇を手に舞う妓女や酔った客の影が、窓の向こうに黒々と浮かびあがる。さざめく楽の音、女達の嬌声。

「なんだよ、おい」
「駆け落ちかい? の姐さん」

花街の人ごみの中を悟浄とは走り抜けた。
背後から張の手下達の声が迫る。

「逃がすなっ!」
「捕まえろーーっ!」

妓女の逃亡は重罪だ。それを手助けした者も同罪である。
遊郭同士はそれぞれ抱えている妓女を見張り、逃亡した時は互いに協力し合って捕まえることになっている。

遊郭の門から、手に手に棒や剣を持った男達が飛び出してきた。

さん、店に戻ってもらうぜ」
「そっちの男を捕まえろっ!」

取り囲まれて、二人の足が止まる。

―ち…―

悟浄は舌打ちして辺りを見回した。自分ひとりならどうにでもなるが、今はがいる。囲みの薄そうな所を探して、突破するしかないか。
男達の輪が、じりっと狭まった。
悟浄はを後ろにかばって、月牙産を構えなおす。

「やっちまえっ!」

その時、今にも殴りかかろうとしていた男達に、いきなり頭上から水が浴びせられた。

「ぺっ、なんだっ!?」

ひるむ男達に、今度は枕が飛んでくる。

「なにしやがるっ!?」

皿、椅子、花瓶。
通りの両側に並ぶ楼閣の窓から、次々に物が飛んできた。投げているのは楼閣の窓に鈴なりになった妓女達だった。

姐さーん、早くぅっ」
「悟浄、頑張ってーっ」

口々に叫びながら、妓女達は手当たり次第に、男達に向かって物を投げつける。
壷、灰皿、香水壜。
中には客に手伝わせて、テーブルを窓から投げようとしている妓女までいる。高そうな壷の直撃をくらって、男達の一人が頭を抱えてうずくまった。

「こ、こいつら!?」
「やいッ、てめぇら何のつもりだっ!」

男達の包囲の輪がゆるむ。その隙をついてが走り出した。

「悟浄、こっちよ!」

は囲みを素早くすりぬける。

「さーんきゅ」

悟浄は援護射撃の妓女達に、軽く片目をつぶって見せると、の後を追った。

「きゃーーーっ! 悟浄ーーっ」
「ざけんなっ、待ちやがれっ!」

嬌声と罵声を背中で聞いて、悟浄とは細い路地に飛び込んだ。薄暗い迷路のような路地を、は迷いもせずに駆け抜ける。
豪奢な楼閣が並ぶ大通りからほんの少し裏に入れば、同じ花街のはずなのに、そこは別の世界だった。
すえた匂いのする狭い通りには、うすぼんやりとした明かりがまばらに灯り、明るさよりも暗さを広げているようだ。
安っぽい香水の匂いをまとった女が角に立ち、通りかかった男達に誘いの視線をなげながら、脚を組み替える。
男の怒鳴り声、女の悲鳴、物が壊れる音が一瞬響き、また暗がりに呑まれてゆく。道端にうずくまる男達は、何も聞こえていないように酒瓶をあおる。
じめついて滑りやすい路地の石畳の上を、悟浄とは走り抜けていった。

「こっち!」

やがて唐突に二人の視界が開けた。
街外れに出たのだろうか、風に草と水の匂いがする。池のほとりのようだ。さざめく水面に月が映る。
さくさくと草を踏みしめてが歩く。悟浄が無言であとに続く。
は小さな小屋の前で足を止めた。








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