― III. これはパイプではない ―




――――西方軍が遠征に行ってしまって、ひと月が過ぎた。


天蓬の机に肘をついて、はぼんやりと部屋を見渡した。
今回は長くなるからと、既に天蓬の口から聞いていたので、そんなに心配をしているわけではない。
彼の部屋にあるものは、ほぼ把握してしまっているので、主が居ないからと言って探し物に支障をきたすわけでもない。そもそも、さっきまでこの部屋を片付けていたのはであり、更に、入り口は遠征だからと言って天蓬が施錠していくことも稀であり、加えてその鍵自体も捲簾が「お前さんも持ってたほうが何かと便利だろ?」とずいぶん前に渡してくれたものだ。

整頓して、久しぶりに拭き清めた机の上には、煙草のパッケージが1つ。
は、椅子に深く座ったまま、机上に伏せた手の甲に、ことん、と頬を乗せた。
四角い紙の箱が、目の高さに大きく見える。
微かに、鼻腔をくすぐる、甘い匂い。
目を閉じると、煙草を燻らせながら読書をする天蓬の様子が、まるでその場に居るかのように鮮やかにイメージできる。……そういえば、嗅覚の中枢と記憶の中枢は近いところにある、と、何かで読んだ気がする。

一ヶ月、天蓬の顔を見ていない。捲簾が酒を持って誘いにくる事もない。
悟空は先生と遊び相手が一度に居なくなってしまい、ナタクとも遊べず、ふさぎがちらしい。金蝉の機嫌も普段より更に悪くなっていて、それはそれは、「からかい甲斐があるぜ」と、彼女の上司は笑っていた。

自身の日常は、そんなに普段と変わりはしない。軍人を恋人に持つ他の天界の女性のように、逢えない不安や待つ身の不幸を嘆くほど暇を持て余しているわけではない。
それでも、仕事の合間にこの部屋に来て、本を読んでもあまり身が入らず、仕方なく片付けなどしてしまう自分が不思議だ。以前は、独りの方がずっと読書に没頭できたのに。

は瞼を開けると、机上にうつ伏せたまま、まだ開封されていない小さな箱を、つっと指でなぞった。触れるたびに、カサカサと音がする。逃げるように少しずつ位置を変える箱からは、相変わらず、この部屋に染み付いた、あの人と同じ匂いがする。

日が高くなってきて、窓からさす光が、額縁のように机を区切っていく。
そういえば、眠れないままに、明け方からこの部屋に居たのだった。
夜も明けぬうちから掃除なんかしてしまった。隣室ではうるさくはなかっただろうか。ああ、でも、この辺りの部屋はみな、軍の関係者のものだから、今は無人なのかもしれない……。

かさり、ぱたり。
の指は、パッケージを弄ぶことを止めない。
そろそろ、身支度をして仕事の準備をしないとならない時間だ。
なのに、この小さな箱から手を放す気がしない。
変ね。私は、煙草なんて嗜む事はないのに。

かさり、ぱたり。
チェーンスモーカーの天蓬を怒れない。
こんな仄かな香りなのに、意識に絡み付いて離れない。



心を占めるのは、小さな直方体と甘い香りとあの人の記憶。

これは煙草ではない。

今はまだ、何か、べつのもの。









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