2 ―― 斜陽 天宮を辞する日、が最後に訪問した部屋には、主は居なかった。 無人になってから、もう随分長い事経ったその部屋――天蓬の私室は、あの爆発で破損した大量の物品も全て処分され(謀反人の蔵書、所持品なのだから、当然だろう)、壊れかけたデスクだけが、ひっそりと残っていた。 傾き始めた陽光が、窓から部屋の奥まで入り込んでいた。既に薄く積もっていた埃が、乱された空気によって舞い上がり、平行な光の軌跡を描き出す。 スポットライトのように照らされた床を踏む。かつん、と靴音が、剥き出しの壁に反響して、随分と大きく響いた。 は、部屋の中央まで歩むと、暫くの間、目を閉じて佇んだ。 視覚にも、聴覚にも拠らずに、この部屋の気配を、覚えておきたかった。 体を包む空気には、僅かな火薬の匂いの影に、懐かしい匂いが残っていた。 古い紙の匂い。インクや墨の香り。 長い間、天宮の書庫にも負けないくらいの書籍が詰まっていた部屋だ。爆発に晒され、残滓が運び出された今でも、部屋に染み付いた“書物の匂い”は、簡単には消えるまい。まるで、本や文書の1つ1つに魂があってそれが未だに滞っているかのように、部屋にはその気配が残っていた。 は、ゆっくりと目をあけると、壊れて、空になっている書架を1つ1つ確認しながら、部屋を一巡りした。 どこに何の本が収まっていたか流石に全ては覚えていないが、それは持ち主も似たようなものだった事だろう。でも、望む本を探して何冊も目次を確認した事や、ふと目に付いた背表紙に惹かれて何時間も読みふけった日の事など、そこかしこに思い出すものは多かった。 (…………あのソファも、処分してしまったのかしら…) この部屋での定位置だったソファも、無くなっていた。あれは、天蓬の私物だったのだろうか?。デスクが残っているという事は、これだけは備品で、簡単には処分できなかったという事か。つくづく官僚的な仕事だと、彼女は自嘲気味に微笑んだ。 自身も天宮に仕えていた者であり、その辺りの事情をよく判ってはいたが、いかにも皮肉な措置ではないか。 一通り、部屋の中を回ってしまったので、は最後に、その残されていたデスクに近づいた。 天板の上を、そっと指でなぞる。辿った所に、薄く、線がつく。 彼がきちんと椅子に座っている事はあまりなかったが、やはり、デスクの周囲には、天蓬の気配がより濃く残っている気がした。主と共にあった日は、この上には、書籍も書籍以外のものも、ごちゃごちゃと仕舞われたり乗せられたりしていたものだ。処分に当たった者は、さぞかし大変だったろう…。 デスクの引き出しに手をかけて引いてみる。 重厚なデスクは、あの爆発でも破損は少なかったらしい。中身もなくなった引き出しは、軽く、あっけないほどに簡単に開いた。 両翼の書類入れの中はやはり空っぽで、インクの染みや、小物が当たって出来たらしい傷だけが、妙に生々しく過去の中身の存在を主張していた。 ぼんやりと何を探すでもなく、1つ1つを確認していたは、右側の一番上の引き出しを開けて、息をのんだ。 かさり 軽い音を立てて、奥から転がり出てきたのは、皺のよった、茶色の、空っぽの煙草のパッケージ。 微かに、チョコレートの香りが、鼻腔をかすめていった。 は、身じろぎもせずに、その小さな紙くずを見つめていた。 長い長い逡巡の末に、彼女は結局、それに触れる事をせず、静かに引き出しを戻した。 机の天板に手をついて、しばらく息を整えてから、やっとは顔を上げた。 彼女はもう1度部屋の中央まで戻ると、残されたデスクに真っ直ぐ向かいあった。 そして、少しだけ微笑むと、くるりと踵を返し、ドアのノブに手をかけた。 扉を閉じる音と、鍵を回す音に続いて、静かな足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。 部屋は再び、静寂に閉ざされ、二度と、開くことはなかった。 |