3 ―― 天漢 “その日”が来た事は、朝から何となく、判っていた。 日が高くなってからゆっくりと起き出して、いつもより時間をかけて、念入りに、身の回りを整理する。 この館に来た時に、既に私物は殆ど処分していたし、数日毎に届けられる消耗品も、有難い事に、必要最低限のものだけだったから、掃除は大した作業ではなかった。それでも、燃え尽きようとしているの身体では多少の時間を要したが、最後の最後まで自分で身辺を整える事が出来た事を、彼女は、嬉しく思った。 「あの人ったら、自分では何にも片付けないで、逝ってしまったからね……」 でも、彼なら、充分な時間を与えられたとしても、今際の際まで本を読み続けていただろう…と思い直し、は、独り、くすくすと笑った。 たった1人で使っていた部屋をきちんと整理すると、もう、日が傾いていた。 は、ゆっくりと時間をかけて邸内を見回り、やり残した事が無いのを確認すると、外に出て、正面の扉を静かに閉めた。 残光の差す庭の真ん中で、最後の時間を一緒に過ごしてくれた建物に向かって深く礼をし、そして、彼女は振り返らずに、静かに館を出て行った。 休み休み歩いたので、川縁に着いたときには、既に、日が暮れかけていた。 群青色に染まった空を背景に、薄桃色の花を満たした大木が立っている。その下に、はそっと腰を下ろした。 もう、立ち上がる事は出来ないだろうと、自分の身体を他人事のように冷静に分析する。 力が尽きる前に、この、気に入りの場所にたどり着けた事に安堵して、彼女は、暫し目を閉じて考えた。 ……私は幸せだ。 天界人として長く長く生きて、初めてこの世界に倦んだその時に天命が訪れるとは、何と幸運な事だろうか。 後に残して気にかかる係累も居ない。遣り残した事も心残りな物も、取り立てて、もう、ありはしない。 なにより、あの人の居ない天界で、これ以上生きていて何の意味があるだろう? ゆっくりと目をあけると、水面には、花びらが薄い雲のように流れていくのが見えた。 風が吹いて、樹上からも幾万の花が舞い落ちる。 その更に上、天界の空にも、1つ、2つ、と、星が瞬き始めた。 あの人――天界で一番の変わり者と揶揄され、いつも書物の山に埋もれて甘い香りの煙草を燻らせていた、天界随一の軍師。 初めて、私と数多の知識を共有してくれた男性。あれらはもう、二度と世に出ることは無いかもしれないけれど、これでいい。これで、充分だ。 山の端の紫暗も消え、空が、光点で満たされ始めた。 下から見上げると、花びらか、星なのか、判然としないほどの、白い霞に包まれて、は手を差し伸べた。 眼下には、花を満たした川が流れ、 天には、星の満ちた――――天の川。 「…………天蓬」 名を呼んでおいて、は、一瞬、躊躇する。 あの人の顔が、ぼんやりとしか思い出せない。 ちゃんと目を見て話していたつもりだったのに…………。私、そんなに本ばかり見ていたのかしら……?。 「……ねぇ、天蓬……」 2人で交わした言葉は全て覚えているのに、あの眼鏡の奥の瞳の色だけ、妙に思い出せないのが歯痒い。 満ち足りていた心に、僅かな細波が走った瞬間、思ってもいなかった言葉が、口をついた。 「…………待って……い…て…」 その言葉を攫うように、突風が、花びらを吹雪の如く巻き上げた。 風を孕んで、彼女の薄い衣装が大きく膨らみ――――そして、ゆっくりと、厚み無く、地に伏した。 満開の桜の下には、もう、誰も、居なかった。 |