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「公主。本当に、何もご存知ないのですか?」 二人きりになって暫くしてからのこと。天蓬が、唐突にそう尋ねてきた。 何も知らない、と馬鹿にするのか、と軽い反感を覚えたが、そうではないとすぐに分かった。真摯な顔つきで、辺りをくまなく観察するその目は、冷ややかに物事を見つめ、捉えようとする観察者のものだ。その上に長い前髪と眼鏡が覆いかぶさっているが、鋭さは隠し切れない。 天界軍随一の策士。人づてに聞いた人物評が、の脳裏をふっとよぎる。 「ここに足を踏み入れた時からずっと、不思議に思っていたのですが、この建物の外見から推測される敷地内面積に比べて、実際の内部はあまりに広過ぎます。どこまで歩いても、行き止まりどころか、曲がり道すら見当たりません。 その上、部屋の扉らしきものすらなく、ひたすら廊下が続いているだけです。ただそれだけ、と言ってしまえばそれまでですが、明らかに変なんですよ」 「そんなこと、言われる前から気付いてたわ。 けど、こうは考えられないかしら。ここ、実は迷路のようになっていて、私たち、知らない間にぐるぐる同じ所を廻ってるとか――」 言ってみて、は自分でもちょっと不快な気分になった。 もし本当にそうであるならば、何と無駄な時間を過ごしたことか。こうしている今も、何処かで、あの子が泣いているかも知れないのに。 そう考えて鬱になるの心中を知ってか知らずか、天蓬は、周辺の観察を続けながら、重い口調で言葉を続ける。 「考えてみて下さい。捲簾や金蝉と別れた後、僕たちは、ずっとまっすぐ歩いて来た筈です。 前を見ても、後ろを振り返っても、道はひたすら一直線です。これがもし、歩くだけでは体感できない程の緩やかな曲線を描いていて、仰るとおり、知らず知らずの内に同じところを巡っていただけだとしても、やっぱり、外観と内面積との辻褄が合わないんですよ。 おかしいとは思われませんか、公主?」 天蓬は、わざわざ公主、という言葉を強調しながらそう問うた。 その言い草に些かむっとしたが、返せる答えが見つからない。は、黙り込むより他になかった。 長々と続く水晶の回廊は、どこまで行っても同じ風景が続くばかり。一定間隔で太い柱が並び、その間を、きらめく水晶の壁が埋めている。天蓬が指摘したとおり、扉らしい扉は一つも見当たらない。 がそっと壁面に近付いてみると、水晶の中に、着ている上着の、濃紺の布地に咲く銀の小花が、うっすら映り込んだ。 「それもですね、僕は怪しいと思っているんですよ」 案外近くで聞こえた声に、はっと振り返ってみると、いつの間に近付いていたのか、背後に天蓬が立っていた。 彼はもう一歩前に足を踏み出し、の隣に並び立つ。そして、を真似るように、指先でついっと壁を撫でた。 かすかに眉を寄せたその瞬間、きらりと、眼鏡の縁がきらめいた。 「この建築物に使われている水晶はどれも、透明度が非常に高いです。質が良くて、内包物も殆ど見られません。それ用に加工すれば、立派な装飾品にも出来たでしょう。宮殿を飾るにはうってつけですし、ご婦人方の喜ぶようなアクセサリーにも適していると思います。 そんな最上級品を、こんな惜しげもなく建築材料に使っているだけでも大した贅沢ですのに、壁は凹凸のない綺麗な平面で、柱も見事なエンタシス式です。仕上げも完璧で、どこにも歪みはありません。どれだけの匠が建築に携わったのか、その腕には、ただただ感心するばかりです。 水晶は本来、長い年月をかけて自然に形成されるものですから、この柱でも、もっと素の形状を生かせる建築デザインにしておけば、加工にかかる手間だけでも格段に減ったでしょうに。贅沢ですが、大変非効率でもあります。 全く、大した粋狂と言いますか、無駄にも程があると言いますか――」 「……それは、ここを支配下に置いてらっしゃる、お父様への嫌味かしら」 説明というよりも、まるで自論を自分自身に語って聞かせているかのような天蓬の長台詞に、がぼそっと突っ込みを入れた。 深い思索に浸り込んでいた彼の目が、現実の世界へと戻り、を捉える。そして、反論なら受けて立つと言わんばかりに、ふっと薄い笑みを浮かべた。 「まぁ、それもあるかも知れませんね。 天帝がお住まいの城は、不必要に豪華で、後宮まで抱えているにも関わらず、僕たち実務担当の扱いは、相当ひどいものですから。そのくせ人遣いは荒いですし、平気でこちらに無理難題を押し付けて来ますから。温厚な僕でさえ、時々切れそうになるくらいです。この程度なら、嫌味ではなく単なる愚痴でしかありませんよ」 「そんなに不満がたまってるなら、黙ってないで、お父様に直訴すれば?」 「嫌ですよ、面倒くさい。 それで居住環境が改善されても、それを盾に今以上の激務を押し付けられて、ゆっくり本を読む暇もなくなりそうじゃないですか」 およそ軍高官とは思えぬ台詞に、場の緊張感が少しほぐれた。 が、眼鏡の軍師はすぐに真面目な表情に戻り、また、無色透明の壁に視線を向ける。 「そんなことはともかく。 この建物に使われている水晶には、どれも過剰な程に手が加えられています。宝飾品じゃないんですから、ここまで加工しなくても良さげなものですのに、まるで自然のままであることを否定するかのようじゃないですか。 そうは思われませんか、公主?」 「……そうねえ」 天蓬の言葉に促され、も同じく壁面を見やった。 なめらかなに磨き上げられた平面は、来た時と寸分変わらぬ、硬質で冷ややかな輝きをたたえている。 この柱や壁を目にして、最初こそ驚きはしたものの、歩き回る内に、段々感覚が麻痺してきたのだろうか。言われるまで、そう不自然なものには思えなかった。が、天蓬が指摘するように、よくよく考えれば妙な代物である。 あの父帝が、何故こんなものを。しかもわざわざ公には存在を伏せ、自らの管理下に置くなんて。そう考えると、自分は、父の「親」としての顔は知っていても、「君主」としての顔は案外知らないのだと、改めて気付かされる。 もっとも。男ならばいざ知らず、皇族の女が政治の表舞台に立たないのは、古くからの慣例どおり。そのことについては、それで当たり前として育ったせいか、特にどうとも思っていないが。 ふっと顔を曇らせたをよそに、天蓬が淡々と言葉を続ける。こちらの感情などお構いなしに。 「先程も申し上げたとおり、不純物の少ない上質な水晶を、こんな完璧な平面に仕立てているというのに、向こう側が全く見えないんです。ここまで丁寧に磨き込んだんですから、少々壁に厚みがあっても、向こう側が透けて見えて当然でしょうに。 かと言って、表面にはっきり鏡像が映り込むこともない。公主もご存知でしょうが、硝子窓の反対面を暗幕か何かで覆ってしまえば、物がよく映ります。硝子鏡と同じ仕組みですね。この水晶も、こんな見事な平面ですから、同様の現象が起きて当然でしょう。なのに、実際はその程度しか映り込まない。 恐らく、内側から発光しているんでしょう。照明が無いのに明るい理由は、そうとしか考えられません。また、そのせいで、向こう側が透けて見えず、鏡像が映り込むこともないんです。 建物の構造と、その材料、両方がおかしいんですよ、この塔は」 言って彼は、白衣のポケットから懐中電灯を取り出し、暫し手の中で弄んだ。 この建物内に、灯りらしい灯りは一つも設けられていないのに、どれだけ奥に進んでも十分に明るく、昼間の屋外並みである。その懐中電灯も、一度も使われることのないまま、持ち主のポケットに入れっ放しのままになっていた。 「この建物の構造と水晶の反射率を併せて考えると、外の光が内に入って来るという事はまず有り得ません」 独り言のようにそう呟いて、天蓬は懐中電灯を仕舞い、煙草を取り出して火を点けた。 ゆるりと立ち昇る煙と一緒に、辺りには、その煙草特有の甘い匂いがほのかに漂う。彼が戯れ半分に、壁に向かってふーっと煙を吹きかけてみたが、特に何の変化も起こらなかった。 「何やってるのよ」 「いえ、何となく」 再び己の思考の内に沈む軍師の目は、ただぼんやりと、己の吐き出す紫煙だけを見つめている。 が、その頭の中では恐らく、様々な憶測や仮説が、無数に立てられては消えていることだろう。その証拠に、「ううん、それだとザイデル収差が……」とか、「いや、トポロジー的には矛盾がないから……」と、傍目にはまるで意味不明な呟きが、その唇から漏れている。一本目が吸い終わるとすぐに、次の一本に火が点けられた。 そうして煙草を四本消費したところで、天蓬は、足元に捨てた吸殻を丁寧に拾い上げ(何故拾うのかと問うと、「証拠隠滅です」という答えが返ってきた)、またのっそりと歩き出した。彼の履いている下駄の音が、静まり返った空間に、からんころんとこだまする。 は遅れを取るまいと、急ぎその後を追い、横に並んだ。 「どうなの、天蓬元帥。何か良い考えでも浮かんだ?」 「いえ、残念ながら。僕なりにいくらか考えてみましたが、直接、悟空発見に繋がりそうな手がかりにはならないですね」 「それじゃ、意味ないじゃないの」 「まぁ、そうなんですが」 あからさまに不満を示したに、天蓬は素っ気なくそう答えた。 けたたましく鳴る下駄の音が、気まずい沈黙を埋める。暫くの間、二人はろくに口も開かなかった。 「………………」 そうして、どれだけの距離を歩いただろう。不意に、の視界の端に、ちかっと閃く光が現れた。 何だろう? 確かめるより先に、光がふっと消えてしまう。不審に思い、こっそりその方向を凝視してみたが、もうそこには何もなく、ただ冷ややかに美しい壁がそびえ立つのみだった。 何だったのだろう、今の光は。密かに首を傾げつつ、は再び、傍らの男に話しかけてみる。 「まぁ、直接関係なくてもいいわ。 天蓬元帥、貴方の立てた仮説とやらを、私にも分かりやすいように説明して頂戴」 「……確固たる裏付けもないままに仮説を喋るのは、僕の好むところではないんですけどねぇ」 |