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「――!?」

 触れていたはずの壁が急に消え、指先が宙を泳ぐ。
 同時に、強い光が全身を包み込み、視界が白く焼ける。は反射的に目を閉じた。

公主っ……!」

 遠くで、天蓬元帥の叫ぶ声が聞こえた。
 が、光が襲いかかったのは一瞬だけ。すぐに消え失せたことに気付き、は、恐る恐る目を開けた。
 すると。

「――!」

 周囲をぴっちりと、高い水晶の壁が取り囲んでいた。
 否、人ひとりがようやく立っていられるだけの狭さしかないのだから、閉じ込められた云うべきか。幸い窒息する程ではないが、己の置かれている状況の急激な変化に、は戸惑った。

―― 何なの、これは?

 試しに、ばんばんと平手でと壁を叩いてみたが、硬い水晶はびくともしない。ただ、叩いた手の方が痛んだだけ。一緒に居たはずの天蓬の姿は傍になく、自分ひとりが、ここに囚われた格好になっている。
 どこかに脱出口はないものかと、狭い空間の中でもがくように身体の向きを変えながら、四方によく目を凝らしてみれば、真後ろに、少しだけ明るい光があった。
 それは、先程現れて襲いかかったような、自ら輝く光ではなく、窓から差し込む灯りのよう。中をよく見れば、丸く穴が開いたように明るいその向こうに、天蓬の慌てふためく姿がある。
 すぐに、は大声を上げた。

「天蓬元帥! 私はここよ、ここに居るわ!」

 だが、いくら呼びかけても、相手には全く届かないらしい。彼はまるでこちらに気が付かない。逆に向こう側でも、こちらの名を力いっぱい叫んでいるようだったが、その声も全然聞こえなかった。
 壁の向こうとこちら側で、互いの視線がぴったり合う。だがやはり、天蓬にはの姿は見えないらしい。
 彼は、目と鼻の先でふうっとため息をつくと、参った、と言わんばかりに頭をかき、踵を返した。

「私が分からないの、天蓬元帥! ここよ、気付いて!」

 は更に声を張り上げたが、虚しく壁に弾かれるのみ。白衣を翻し歩く背中が、次第に遠ざかってゆく。
 彼が立ち去ったのに間を合わせるように、光が止む。四方をぴったりと壁に囲まれた薄暗い閉鎖空間の中で、ひとりだけが取り残された。

―― こんなことって……!

 突然怒った不測の事態が、それに不用意に手を伸ばしてしまった自分の迂闊さが悔しくて、はぎりっと唇を噛んだ。
 まずは、ここから抜け出さねば。そう考え、出鱈目にぺたぺたと周囲の壁を触ってみると、右側が、ちょうど外開きの扉のように、音もなくあっさりと開いた。つい先刻まで、びくともしなかったはずなのに。
 あまりに呆気なさ過ぎて、些か拍子抜けしながらも、は慎重に足を一歩踏み出す。
 すると、目の前が陽炎のようにゆらりと揺らめき、上へと続く大階段が立ち現れた。

「全く、次から次に……」

 虚しいだけと知りながらも、ついぼやきが口をついて出る。はもう一度、大きなため息をついた。
 幅の広いその階段には、ゆるやかな斜線を描く立派な手摺が設けられ、その端には、蓮の花のレリーフがあしらわれている。その全てが、壁や床と同じ無色透明の水晶で出来ており、細やかな光の破片が、きらきらと無数に輝いていた。
 階段の周囲に、誰かが居るような気配はない。階段の途中に踊り場があるせいで、階上の様子も分からない。水晶のきらめきに彩られた無音の時間が、不安を更にかりたてる。
 しばらく思案した後に、は、二、三度、小さくかぶりを振った。その弾みで、髪に挿した簪が、しゃらしゃらとかすかな音を立てる。
 虚空に突然現れたように、また急に段が消えたりはしないか心配だが、背後はあの狭い空間で、両横は高い壁があるのみ。他に進める道がない。仕方なしに、は一歩一歩足元を確かめるようにしながら、無言で登り続けた。
 ちょいと着物の裾をつまんだ手に、無駄に力が入っているのが判る。己の立てる衣擦れの音よりも、やけに速くなった鼓動の方が、やたらと耳についた。
 そんな調子で水晶の階段を延々と登り、彫り物の蝶が優雅に遊ぶ広い踊り場で、約百八十度折れ曲がる。するとまた、背後の壁が、強い光を放ち始めた。

「!?」

 光は壁全体を覆うように強く、その輝きに目もくらむ。が、瞳を眇めてよく見てみると、その中に、うっすら黒い影があるのが分かった。
 思わず身を強張らせたの目の前で、おぼろだった輪郭が次第にくっきりと現れ、姿形が次第にはっきりしてくる。影よりも黒い軍服をまとい、呆気に取られたような顔をして周りを見回す男は、誰あろう捲簾大将だった。

「――――!」

 実体化した捲簾は、しきりに目をぱちぱちと瞬かせていたが、の姿を認めると、唇の端だけで薄く笑った。
 そして、いつの間にか抜いていた軍刀を、実にさり気なく鞘に収める。茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた時には、その身にまとっていた闘気も霧散していた。
 その背後で、壁の光は少しずつその輝きを失い、消える。

「これはこれは公主、突然のお出ましたぁ嬉しいね。だが、ちょいと唐突過ぎやしねぇか」
「それは私の台詞よ、捲簾大将。驚かせないで頂戴。
 あの光は一体何? 貴方、どうやってここに来たの? 一緒にいた金蝉は? 一体、何がどうなってるの?」
「おいおい、会った途端に質問責めかよ。ったく、勘弁してくれよ」

 鼻先が摺り合わんばかりに詰め寄ったの言葉に、捲簾は、降参の形に両手を挙げた。
「俺もよく分かんねーのよ」へらっと浮かべた笑みには、若干の虚勢が見え隠れしている。が、口にする言葉に、偽りの気配は微塵もない。どうやら、訊くだけ無駄のようである。
 早々に追求を諦めたが視線を外すと、彼は、「やれやれ、本っ当に気の強えぇ姫様だな」と言い、小さく肩をすくめた。

「そう言うあんたこそ、天蓬と一緒に居たんじゃねぇのか。あの軍事オタクはどうしたんだ?」
「生憎、私も何がどうなってるのか、全然分からないの。
 気が付いたら天蓬元帥と離れ離れになってて、訳が分からない内に、こうして貴方に出会ったんですもの。出来ることなら、私の方こそ、何が何なのか教えて欲しいわ」
「へー、奇遇。俺も似たよーなもんなの」
「ああ、そう」

 返答が多少ぞんざいになったのに、特に意味は無い。単に、他に言えることが無かっただけ。
 それに取り敢えず、自分も嘘は言っていない。真実を全て述べてもいないけれど、そう大した問題にもなるまい。
 この場所が異様であることは、すでにこの男も認識しているだろう。が、正直に何もかも明かすのはためらわれた。何故そう思うのか、自分でもよく分からないけれど――この奇怪な現象を認めるのが、何となく嫌だったのだ。認めたら最後、気力が萎えて、もう一歩も歩けなくなるような気がして。
 そう、今は絶対に弱音は吐けない。あの子を、何としても見つけて連れ帰らねば。
 そんな風にが思惟に耽っている隣で、捲簾は、何なんだかねぇ、と呟いて、もう一度辺りをぐるりと見回した。

「ここが立ち入り禁止な訳が、なんとなーく分かる気がするわ。いつの間にか、こうして独りにさせられちまうわ、あちこちで変なモン見せつけられるわ、危なっかしいことこの上無ぇや。下界の現場仕事の方が、数百倍マシだな。
 あのチビが、マジで心配だな。この、迷路みたいにぐねぐね曲がった道だけでも厄介で――」
「――何ですって?」

 捲簾の愚痴を聞きとがめ、が訊き返した。
 途中で二手に分かれたとはいえ、同じ建物内を歩いていたはずである。なのに「道がぐねぐね曲がっていた」だなんて、彼と自分の辿った道は、あまりにも違い過ぎやしないか。
 不審に思って訊いてみると、捲簾は怪訝そうに首を傾げながら、自身の通ってきた道の様子を、順を追って話してくれた。
 曰く、廊下は右に左にと何度も折れ曲がり、まるでミラーハウスのようだったとか(ミラーハウスという意味が分からず、が尋ねると、彼は、『鏡張りのでっかい迷路みたいなモンよ』と答えてくれた)。
 曰く、その廊下には、一定間隔で水晶の神仏像が置かれていて、些か気味が悪かったとか。
 曰く、鏡を置くように、ふち飾りの付いた水晶の板が壁に掛かっていて、その中に様々な光景が――本人は言葉を濁していたが、恐らくそれらは、この軍大将が遭遇してきた戦場の風景ではないかと思われた――次々と映し出され、ひどく嫌な気分になったとか。
 曰く、ふっと陽炎のように実体のない人影が現れて、知らん顔で彼らのそばを通り過ぎて行ったとか。
 話を聞けば聞く程に、自分たちの辿ってきた行程との差異が際立ってくる。同じ建物の中なのに、何故、ここまで違っているのだろう。彼がああして突然現れたことも含め、全てが謎めいていた。
 が眉間にしわを寄せて悩んでいると、捲簾は、「あんたは違ったのか?」と、却って不思議そうな顔をした。
 ここで黙っていても、多分何の益にもならない。そう判断したは、自分の体験したこと、見たものを――彼らと別れたあの分岐路からここに至るまでの道のりを、かいつまんで話して聞かせた。その話の中には勿論、天蓬の立てた仮説についても、自分の分かる範囲で入っている。
(但し、天蓬の仮説について述べていた時には、彼は「如何にも奴らしい屁理屈だな」と言って、指で耳をほじっていた)
 そうしての話を聞き終えたところで、捲簾は、また水晶の壁に視線を移し、うーんと唸り声を上げる。

「何つーか、あんたを疑う訳じゃねぇんだが、にわかには信じらんねぇ話だな」
「それはお互い様。私だって、貴方の話が信じられないわ」

 こんな会話を交わす間もずっと、彼は、壁や階段をじっと見ている。まるで心ここに在らずといった顔をしたままで、その手が煙草のパッケージを取り出し、一本咥えて火を点けたのだが、その所作も、殆ど無意識で為したようだ。ふっと吐き出した煙の向こうに、眉間に寄せた縦じわが見えた。
 その横顔に、巷の女たちを惹きつける色男の面影はない。眼差しは、抜けば玉散る業物のように鋭い光をたたえつつ、ひたすら周辺の状況を探り続けている。
 その表情や目つきはまさに、数多の戦場を駆け抜けてきた猛将のそれ。

「捲簾大将?」

 が呼ぶと、彼の視線が、こちら側に戻ってきた。
 途端に、その顔が、勇猛と誉れ高き軍大将から、笑みを絶やさぬ伊達男のそれに変わる。

「どうかされましたかね、公主?」

 ふざけ半分なその口振りも、普段聞き慣れた通りのものだ。
 その見事な変化ぶりに、半分呆れ、半分感心しながらも、は改めて問うてみる。

「で、貴方は、天蓬元帥の出した仮説については、どう思って?」







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