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「どうって訊かれてもねぇ」

 短くなった煙草の煙を盛大に吐き出して、彼は参ったように顔を歪めた。
「奴は普段から理屈っぽ過ぎんのよ」とこぼしながら、吸い終えた煙草を足元に捨て、踏み消す。厚い靴底に潰されて、吸い殻はぺしゃんこのゴミになり、そのまま放置された。
 その吸い殻は拾えと言わんばかりに睨みつけるをよそに、彼はズボンのポケットに手を突っ込み、天を仰ぐような姿勢で、暫くうんうん唸っていた。

「あんたの気に入りそうもねえ答えだけど、考えれば考えるほど分かんねー事だらけだから、結論は保留ってとこだな。
 首尾よく目標を発見するまで、周囲の警戒を怠るべからず。少なくとも現時点では、俺にはこれしか言えねぇわ」
「随分慎重なのね。意外だわ」
「悪うござんしたね、肉体派の切り込み隊長で」

 の言葉の裏側を察したか、捲簾は皮肉っぽく微笑んだ。
「取り敢えず先に進もうぜ」口元の笑みはそのままで、彼が、恭しく一礼する。分かってるわ、と短く答えて、は、残り半分となった階段を再び登り始めた。
 そうして二人で階段を登っている間、この軍大将は、ずっと軽口を叩き続け、を辟易させていたのだが――よく見ると、そのふざけた発言とは裏腹に、立ち振る舞いは意外と礼儀正しい。
 決してこちらより先には出ず、しかし離れ過ぎにもならぬよう、絶妙な間合いを保ち続けている。その左手も常に、佩刀の鞘にかかっていた。流石ね、と、口に出さずに褒めてみる。
 そうこうしているうちに、やがて段が途切れ、広い場所に行き当たった。どうやら、上の階に辿り着いたらしい。

「ここは……?」

 がらんと開けたその場所は、延々と回廊だけが伸びていた下の階とは全く雰囲気の異なる、丸い形の大広間だった。
 壁には大きな扉が十二個もついており、それぞれに虎や竜、獅子などの、猛々しい姿が彫られている。勿論それらも、全て水晶で出来ていた。
 広々とした空間の中で、細部まで丹念に仕上げられたそれらの彫刻を眺めていると、その出来栄えの良し悪しを見るより先に、得体の知れない威圧感を覚えさせられる。かっと見開いた獣たちの眼に宿る輝きが、扉に近付くなと無言で警告していた。
 中央には、蓮の花を模した高い台座に乗せられた、等身大の天女の像が、ぽつんと一つ立っていた。
 妙齢の女性の姿を写したその水晶の像は、透き通っていてとても美しいが、身体の艶かしい曲線や、まとう薄衣のしわの一つ一つまで丁寧に造られていて、今にも動き出しそうだ。表面にたたえる輝きが、余計に不気味さを醸し出している。
 双手を大きく広げたポーズも、きっと深い慈悲を表しているのだろうが、まるで、襲い掛からんとばかりに身構えているようにも見える。考え過ぎだ、と分かっているのに、何となく。
 例えるなら、この天女が裁定者で、自分は裁きを待つだけしかない無力な咎人。台座が高いせいで、天女が、無機質な微笑みをたたえてこちらを見下ろす格好になっているせいだろうか、そう思えて仕方がない。
 つまらない想像だと、自分で自分を嘲笑ってみる。だが、このぬぐい切れない畏れは、一体何故だろう?

公主?」

 捲簾の呼び声で、ははっと我に返った。
 訝しげにこちらを見ている彼に、何でもないわ、と答えつつ、頭を軽く左右に振って、つまらない考えを追い払う。そう、今は、ぐずぐずしている暇はない。
 そして、改めてずらりと並ぶ扉に目を向ける。半ば無意識に、ため息がこぼれた。

「仕方ないわね。捲簾大将、貴方、そちらから順番に開けてみて頂戴。
 こっちは私がやるわ。半分ずつ、手分けしましょう」
「おいおい、何の準備も無しにか? 幾ら何でも無謀だぜ、そりゃ」
「そうでもしないと、先に進めないでしょ。文句言わずにさっさとやって」
「……へえへえ」

 捲簾は呆れたような顔をしながらも、こちらの言ったとおりに、右側にある扉の前に立った。
「頼むから、やばいモンは出てくれんなよ」笑い混じりに言う彼の台詞は、口調こそ軽いものの、全く冗談に聞こえない。
 が、は、ためらいを振り切るように勢い良く、扉を開いた。



 一つ目の扉の向こうには、宮殿の玉座があった。
 天帝は背もたれに深く身を預け、瞑目したまま微動だにしない。何度も嘆息するその表情には、深い苦悶の色がにじんでいた。周囲で騒ぐ臣下の声も、聞こえているのかいないのか。そういえば、いつもぴったりと傍に付いている筈の李塔天が、影も形も見当たらない。
 外朝には滅多に立ち寄らないのだが、明らかに変な光景であると分かる。父帝のこんな表情も、直に目にするのは初めてだ。
 とにかく、やたら心地の悪い空気ばかりが漂っていた。

 二つ目の扉の向こうには、鈍色の空に包まれた荒野があった。
 昼か夜かの区別も付かぬ薄闇の中、一列に並んだ青白い灯火がちろちろと揺らめいている。遠くからは、言葉にならぬ呻き声が、多数聞こえてきた。
 どす黒い岩肌の覆う大地の上を、襤褸をまとい、虚ろな表情を浮かべた群集が、並んだ灯火に従って、ぞろりぞろりと歩いて行く。先頭も、末尾も見えない長い行軍は、一体何処に向かっているのか。皆目見当も付かない。
 生ぬるい風が、頬を掠めた。

 三つ目の扉の向こうには、深い緑が広がっていた。
 鬱蒼と茂る森の中は、昼だというのに仄かに昏く、人や獣の気配も全く無い。時折、遠くで鳥の囀る声が響くのみ。
 濃厚な緑と土の匂いにむせ返りそうになりながら、よくよく目を凝らしてみると、木々の立ち並ぶその先に、びっしりと札を貼られた大岩があるのが見えた。
 何故かその岩の周囲だけは、草木一本生えておらず、青空の下にむき出しで晒されているかのよう。
 中は空洞であるらしく、片面には、頑丈そうな格子が嵌められている。中に誰かが囚われているのかどうか、ここからではよく分からない。
 降り注ぐ陽光の明るさとは対照的に、その岩牢の周りには、寂しさばかりが満ちていた。

 四つ目の扉の向こうには、やけに見慣れた風景があった。
 絢爛豪華な建物と建物の間にひっそりと設けられた、猫の額のような狭い庭。地面にはびっちりと石畳が敷き詰められ、中央にひょろりと細い木が一本植えられているだけの寂れた場所。
 花どころかろくな緑も無い故に、わざわざ立ち寄る者もない、まさに誰からも忘れられた場所。そう、ここは天帝城の片隅にある、小さな小さな中庭だった。
 そういえば昔、堅苦しい行儀作法や宮中儀礼の勉強が嫌で、よくここに逃げて来たんだっけ。懐かしさに浸っていると、目の前を、子供が二人駆け抜けて行った。
 一人は、華やかな宮廷装束に身を包んだ女の子。もう一人は、黄金の髪をなびかせた、白い衣装の男の子。
 驚くに気付きもせずに、二人は、互いに憎まれ口を叩き合いながら、あっという間に通り過ぎてゆく。

 五つ目の扉の向こうには、屍が累々と横たわっていた。
 道沿いに背の低い粗末な建物が並ぶ、これまでまるで見たことのない風景。舗装されてもいない道の上に、一目で妖怪と分かる者たち――直に妖怪の姿を見たことはないが、顔の痣や長い耳のお陰で、すぐにそうだと分かった――が、顔に苦悶の相を浮かべ、恨めしげに天を仰ぎながら絶命している。腥い匂いが、強く鼻を突いた。
 天界には存在するはずのない、まさに地獄絵図と呼ぶにふさわしい光景。その中心に、ただ一人、生きて立っている男が居た。
 まばゆい金糸の髪を頭上に戴いたその男は、血の海の真ん中でふてぶてしく煙草をふかし、死者たちを傲然と見下している。まとう白い着物の裾には、点々と赤い染みが付いていた。
 男は、立ち去り際に一瞬だけ、ふっとこちらを振り返る。まるで、の存在に気付いたかのように。
 射抜くような紫の瞳には、何故か、既視感を覚えた。



「……何なのよ、これは」

 次々と現れた異様な光景に圧倒されて、は、半ば無意識にそう呟いていた。
 ふと右側に視線を向けると、捲簾が、二つ隣の扉を足で蹴って閉じている。ばたん、と大きな音が、広間いっぱいに響き渡った。
 目と目が合ったその瞬間、彼は、薄く笑って首を横に大きく振った。
 お互い、何を見たか訊かないでおこう、とでも言うかのように。

『この塔の中には、時空の歪みが封じられているんです――』

 ここに来る前に聞いた眼鏡の軍師の言葉が、の脳裏に鮮やかに蘇る。
 ならば、あれらの光景は、いつか何処かに存在するものなのだろうか。その意味するものは?
 分からない。は、考えるのを早々に諦めて、六番目の扉に手を掛けた。
 どうか、今度こそ先に進める道がありますように。切実にそう願いながら、ゆっくりと手前に引く。が手をかけた六つの中で一番重い音がして、最後の扉が開かれた。
 すると、

「やっと進めそうな道が出てきたな」

と言って、捲簾も、脇からひょこっと中を覗き込んできた。
 扉を開いたその向こうには、奥へと続く回廊がある。延々と先まで伸びているが、直線ではなく、緩やかな曲線を描いている。下の階と同様、壁も床も天井も、無色透明の水晶製。
 この広間とは対照的に、飾りらしい飾りは何もない。にとっては、既に見慣れた景色だった。
「では、行きますかね」捲簾は先に扉をくぐり、危険が無い事を確かめてから、を招き入れる。無論、その左手がずっと、刀の柄にかかっている。
 こちらが目前を通る時には頭を下げ、それから控えめに隣に並んで歩く。巷の浮ついた噂とは随分違う、武官らしい所作だった。
 それが本気か冗談か、その境目がいまいち分からない。もっとも、そんな違いが分からなくても、今まで一度も困ったことはないどころか、ろくに意識した事すら無かったが。

―― やっぱり、軍大将の肩書きは飾りじゃないわね。

 隣を歩く男の横顔を盗み見ながら、は密かにそう考えた。成る程、普段の態度が少々ふざけ気味であっても、こうしてちゃんと礼を弁えられるなら、眼の肥えた城の女官たちも、心がよろめいて当然だろう。
 自分は、男同士の付き合いの中で彼が見せる、大雑把なところを何度も目の当たりにしているせいか、それとも口説かれた事自体がないせいか、特に何とも感じないけれど。
 そんな事を悠長に考えていられる程、長い廊下の中には、何も無かった。
 二人分の足音だけが、静かな空間の中に大きく響く。そうして暫く歩いていると、ふっと右手の壁を、小さな光の球がよぎった。

「あれはっ……!」
「悪りィ、あんたはちょっと離れててくれ」

 さっと顔色を変えたをかばうように、捲簾が一歩前に出た。
 手は既に、刀の柄を握っている。鋭い目をして光を見据えているが、唇の端には、うっすら笑みが浮かんでいた。まるで、危険自体を楽しむかのように。
 ぴんと張り詰めたような緊張感が、みるみるうちに空気の中に染み渡り、しばし、場を支配する。
 闘神太子にも引けを取らぬ、勇猛果敢な無敗の軍神。
 常日頃から、周囲の女官たちから聞かされていた賞賛の言葉が、ふとの脳裏を掠めてゆく。







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