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 光と軍大将の睨み合いは、どれだけ続いた事だろう。
 大の男が、刀に手をかけて真顔で壁と対峙する構図は、傍から見ればかなり間が抜けている。
 だがここは、一切の常識が通用せぬ異界の中。油断すれば足元をすくわれると、既に身をもって知らされているのだ。馬鹿だと笑える筈がない。
 光が、一層輝きを増す。捲簾が、すらりと腰の刀を引き抜いた。かちゃりと鍔がかすかに鳴って、辺りの空気を引き締める。
 が、しかし。捲簾が一歩足を踏み出したと同時に――その光は、すうっと音も無く消えた。

「………………」

 何も起こらないことを確かめてから、彼は、静かに刀を収める。
「肩すかしかよ」と愚痴る様は、本気で残念がっているようにしか見えない。

「何か起きたら困るでしょうに」
「そりゃそーなんだけど」

 ここで立ち止まっていても仕方がない。とにかく進もう、という事で、二人の意見が一致した。
 だが帰り道はおろか、現在位置さえ見失ってしまっている事に、今更ながらに気が付いた。これでは、二重遭難ではないか。その事実に今まで気付いてなかったのも、我ながらちょっと情けない。
 どうしようか、と思案に暮れつつ、ふと傍らに目をやると、連れの軍大将は、床に跪き、何やらごそごそしている。

「……何をしてるの、捲簾大将?」

 と、が問うと、彼は、まるで悪戯の現場を抑えられた子供のようにばつの悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
 お偉方には内緒にしてくれよ、と言って彼が指差した先には、紅色で描かれた小さな星印。

「いやな、同じトコ歩いてたらすぐ分かるよーに、こうしてずっと目印付けてんのよ。
 ここでも効果あるかどうかは、全然分かんねぇけど」
「でもどうして、女物の口紅なのよ? まさか貴方、実は密かに女装の趣味でも――」
「ンな訳ねえだろ。人聞きの悪いこと言わねぇでくれよ。俺は、女の格好するより女を飾る方が好きな、至って健全な男だぜ?
 本当はこれ、贈り物のつもりだったんだよ。運悪く、相手に渡し損ねちまったけど」

 次に会うまでに、新しいのを用意しねぇとなぁ。
 そう言いながら広げられた掌には、小さな貝の器に入った女物の口紅が、ちょこんと乗っている。
 二枚貝の内に塗り込められたその色は、真紅よりもなお深い紅。一見、黒にも近いようにも見える。そんな濃い紅色の表面には、うっすらと緑の艶を帯びた、油の膜が張っている。一目見ただけでも、なかなかいい品だと伺えた。
 誰への贈り物かは知らないが、やはり噂どおりに女心を掴むのに長けた男だ。妙なところで感心しつつ、は改めて、壁に描かれた星印に目をやった。
 透明な水晶の壁の上に、鮮やかな紅い色が浮かんでいる。なるほど、これなら目印に十分だ。

「あんたにはずっと黙ってたけど、俺、一旦自分が通った道には、こうして印付けてたんだよ。他に適当なモンが無かったから、これ使う羽目になっちまったけど。
 ま、こんだけ分かりやすい印があるんだ。知らねぇ間に同じトコぐるぐる歩いてたって事になったら、すぐに分かると思うんだが」
「でも、こんな所なのよ。もしかしたら、ひとりでに消えたりして……」
「ヤな事言うなぁ。俺、敢えて黙ってたのによ」

 そうぼやきつつ、捲簾はポケットからまた煙草を取り出し、火を点けた。
 こちらに煙がかからないようにと気遣っているのか、少し顔をそむけ、上に向かってゆっくりと煙を吐き出している。
 落とした灰が、はらはらと床の上に散った。

「でも、よ」

 くゆらせる煙草が半分になったところで、捲簾がもう一度口を開いた。
 今度は一体何を言い出すのか。訝るが振り向くと、彼は、意味ありげな笑みを浮かべている。
 いつの間にか、体と体が触れる距離にまで近付かれていた。

「折角手に入れた物だったんだ。
 どうせなら、この紅、壁なんかに塗るよりも、あんたの唇に塗って見せて貰いたかったな」
「どうして」
「あんたが、綺麗だから」

 真面目な口調で吐かれたその台詞に、がぴくりと眉を吊り上げた。
 傍らの軍大将を見る表情が、にわかに険しさを帯びる。が、言った本人は全く動じず、余裕の笑みさえ浮かべていた。
「こんな時にどういうつもり?」刺々しさを増したの問いに、彼は、思ったことを言ってるだけよ、と、平然と答えるばかり。一向に引き下がる気配がない。
 ゆるやかに広がる煙草の煙が、二人の間の境界線を、更に曖昧なものにさせる。

「女ってのは男と違って、そこにいるだけでも場が華やいで、荒んだ気持ちを潤してくれるもんなんだよ。あんた程の美人なら、尚のこと、な。
 あんたには、なかなか言えるタイミングが無くって、今まで言ってなかったけど」
「………………」
「あんたの唇なら、きっとこの紅もよく映えるぜ」

 この男、本気なのか、冗談なのか。たたえる笑みが邪魔をして、見定めることが叶わない。
 だが、その程度のことで惑わされる程、もか弱くも世間知らずでもなく。

「ねぇ、まさかとは思うけど、それで私を口説いてるつもりなの?
 だとしたら、あんまり捻りがないわね。天界一の色男の評判は、一体どこに行ったのかしら」
「あー、本気で行きたいのは、俺もやまやまなんだけどねぇ。
 流石の俺でも、天帝が目に入れても痛くないつってる公主様にゃ、迂闊に手は出せねぇよ。
 天蓬の言ったとおり、俺の首が飛ぶだけじゃ済まねぇから」

 大げさに肩を竦め、おどけて見せた彼の表情に釣られて、もぷっと噴き出した。そのせいで、周囲の雰囲気が少しだけ和らぐ。
 意気地なしね、と言ってやると、「あんたがその気なら話は別だぜ」と、抜け目ない答えが返ってきた。 いつの間にか、息がかかりそうな程顔が近寄ってきていたので、ぴんと鼻先を弾いてやる。すると、情けない笑い顔が、元通りの距離にまで離れた。

「冗談でも本気でもどっちでもいいわ。今はとにかく、悟空を探すのが先よ」
「へぇへぇ、分かってますって」

 その会話を最後にして、二人は再び、長い廊下を歩き始めた。
 じゃらじゃらと鎖の絡んだ重たげな靴音が、遠くの方まで響いている。辺りが静か過ぎて、その音ばかりがやけに耳についた。「嫌だねぇ」とぼやいた捲簾の言葉も、虚しく空回りするばかり。
 段々、焦りが苛立ちに変わっていく。何も起こらないことが、却って腹立たしくなって来た。
 その気持ちに釣られて、歩調が少し速くなる。「焦りは禁物だぜ」と諫める捲簾の言葉も、右から左に流れていった。
 そんな感じで歩くこと暫し。少し先の方に、ぽつんと、赤い丸印があるのが見つかった。
 やっぱり、いつの間にか同じ道を歩いていたのか? 苦虫を噛み潰すような顔をして、は足早にそちらに近付く。捲簾も、急いでその後に従った。

「捲簾大将、これも、貴方が付けたものね?」
「いや、こんな印に覚えは無ぇなぁ」

 こちらの問いに、彼は首を捻るばかりだった。
 の指し示すその印は、壁ではなく、床の上に描かれている。
 その形も、先程のような星印ではなく、少しいびつな円の形。中まで塗りつぶされている、というよりは、まるで赤い雫をそのまま落としたかのよう。
 その色合いも、鮮やかな紅ではなく黒ずんだ赤。捲簾は、「まるで血みてぇだな」と呟いた。

「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ。こんな所に、そんなものある訳が」
「っつーてもなぁ、見れば見る程、似てるように見えんだよ。あんたはこの天界から出た事ねぇだろうから、いまいちピンと来ないんだろうけどな。
 もし本当に血なら、問題は、誰の、ということになるんだが――」

 思考を巡らせる捲簾の表情が、次第に真剣みを帯びていく。
 口にこそ出さないが、その頭の中には、様々な考えが浮かんでいることだろう。顎をしきりに擦りながら、彼は、ずっと続けていたチェーンスモークすら止めて、じっとその印の赤を見据えていた。
 そして道は、少し先で、約九十度左に折れ曲がっている。その曲がり道に沿うように、その赤い印が点々と続いている。如何にもこちらを誘っているようで、明らかに怪しい。
 だが、他に進めそうな道はない。捲簾は再び刀を抜くと、

「見てくる。あんたはここで待っててくれ」

と言い残し、一人で先に行ってしまった。
 ちょっと待ってよ、とが制止するのも聞かず、彼は走るような早足で道を進み、その角で折れ曲がる。重たげな靴音が、どんどん遠ざかっていった。
 置いてきぼりを食らったは、仕方なしに、その場で彼を待つことにする。冷たい静寂が、ひたひたと身に染みてきて、ぞくっと背筋が震えたが、何でもない、何でもないと自分に言い聞かせ、ぐっとその場に踏みとどまる。
 暫くして、急に角の向こうが明るく光った。
 嫌な予感がする。は慌てて、彼の後を追った。
 だが。

「――!?」

 が、同じく道を折れ曲がったとき――そこにあったのは、点々と続く赤い印のみ。
 先行した筈の捲簾の姿は、影も形もなくなっていた。







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