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「捲簾大将! 何処に居るの!?」 大声で叫んでみるが、返事は返って来なかった。 そんな馬鹿な。言葉もないを他所に、壁や床の水晶は、ただただ冷ややかな輝きを放つのみ。どれだけ大声で呼びかけても、手当たり次第に壁を強く叩いても、何の変化も起こらなかった。 念のため、少し道を引き返してみるが、やはり彼の居る気配は無く、あの紅い星印が残っているだけ。こんなものでは、気休めにもならない。 あの男は、軍事にも色艶にも長け、引き際も潔いと評判ではあるが、何もこんな時まで鮮やかに消えてみせることはないではないか。何の前触れも無く現れたからって、同じように姿を消さずとも。 そもそも、何故こうなるのだろう。とにかく訳が分からなくて、頭が混乱して、いっそ泣きたいような気にもなるのだが。 ―― こんな所で、泣いてたまるもんですか。 他に誰も居ないのに、それでも意地を張ってしまうのは、子供の頃からの心ぐせ。 常に、皇族としての誇りを忘れぬよう――『三つ子の魂百まで』なんて古人の言葉が、いつか読んでいた本にも載っていたような。 ひたひたと、心の中にまで侵入してくる怖れや不安を追い払うように、は頭を軽く左右に振り、再び力強く歩き出した。 天蓬とも捲簾ともはぐれてしまった今、自分の身を護るのは、自分自身しか居ない。あの子を見つけ出せたなら、勿論その責任も二人分。 天帝の娘として後宮に生まれ、蝶よ花よと育てられたこの身には当然、武術の心得など全く無い。武器も、護身用の懐刀しか持っていないが、それでも、いざという時には何とかせねばなるまい。腕に自信が無かろうと、弱音を吐く猶予など、一切無いのだから。 怖れと意地と、相反する二つの思いを抱えつつ、はきっと顔を上げ、先を目指して歩き始める。 すると。どこからともなく、声が聞こえてきた。 「………………?」 遥か遠くから、まるでこだまのように儚く響く声なので、最初は幻聴かとも思った。 だが、違う。よくよく耳を澄ませてみると、確かに、子供の声が聞こえる。しかも、よく聞き覚えのある声だ。 何と言っているのかは分からない。が、胸を裂くような悲痛な叫びに、は思わず息を呑んだ。 「……那咤……?」 そんな筈がない。 あの野心家につけいる隙を与えぬよう、悟空探索に関わった者たちには緘口令を敷いていたし、自分たちも十二分に注意を払ってきた。城内で偶然出会った時でも、ある程度は勘付いた様子ではあったけれど、事実の全てを掴んでいるようには見受けられなかった。 元より、自分の臣下には重々気を配っている。漢奸に成り下がるような者など、身近には一切置いていない。それは天蓬や捲簾も同じであろうし、金蝉の所は、あの観世音菩薩が君臨しているのである。万が一にも、こちらの動向が漏れる心配はあるまい。 それに、もしばれていたとしても、まさか、いきなり闘神太子を送り込むような真似もするまい。 天蓬と捲簾が事前に懸念していたように、ここは天帝直轄の禁域の中。かの男がどれだけ宮中で権勢を誇ろうと、臣下の身である以上、禁域に無断で足を踏み入れたとなれば、間違いなく重い罪に問われる。もし、巧く罰を逃れたとて、上層部からの信用度は急降下することだろう。 自らの権威拡大に血道を上げるあの男が、そんなへまをするとは思えない。もし罠を張るなら、塔の中ではなく出口の方だろう。とにかく、ここに那咤が来るなんて、絶対に有り得ない。 理屈ではそう判っている。だが聞こえてくるこの声は、確かにあの子のものに相違ない。 血を吐くようなその悲しい叫びに、悟空の、無邪気で無垢な声が重なり、遠く近く響き渡る。 ―― 何で、何でこんなっ……! ―― ともだちだもんな。ずっとずっと。 ―― もう嫌だ、もう何もかもが! 聞いている内に、それらの声は、足元から発されているのだと分かった。 はっと見ると、床に落ちていた赤い染みが、少し大きくなっていることに気付く。せいぜい点に過ぎなかった筈の赤は、が視線を向けたその途端、みるみる内にたっぷりと水気を含み、大人の顔一つ分の大きさにまで膨れ上がっていく。色も、黒ずんだ赤から、鮮やかな赤に変貌していた。 まるで血みたいじゃない。吃驚して声もないの気持ちを映すかのように、水面に、様々な幻影がよぎる。 那咤が、刀を片手に泣いていた。 天蓬が、銃と刀を振りかざして、大立ち回りを演じていた。 捲簾が、不敵な笑みを浮かべながら、血刀を晴眼に構えていた。 金蝉が、これまで見たこともないような厳しい顔をして、自分の叔母を殴りつけていた。 悟空が、床に倒れ伏し、ぴくぴくと身体をひくつかせていた。 そして彼ら四人の頭の上では、一際美しく咲く桜が、はらはらと花を散らせていた。 映る彼らの姿は全て、不吉な赤い色の中。風も無いのにゆらゆらとさざめく水面が、地獄の血の池をも連想させる。ただただ静かに咲いて散るだけの桜の花すらも、激戦の光景に重なっているせいか、より儚く、悲壮なものに見えた。 全身傷だらけになりながらも、懸命に戦い続ける男たちの周りを、武装した大勢の兵が取り囲んでいる。手に手に刃を持ち、彼らの捕縛を図るその軍勢は、誰が指揮しているかまでは分からないが、天界の正規軍のようだった。 有り得ない、けれど幻にしてはやけに現実味の漂う戦いの光景が、次々と水面に消えては浮かぶ。 その、段々と熾烈さを増してゆく映像に反比例するかのように、呆然と立ち尽くすの全身から、みるみる血の気が引いていった。 「――もう止めてっ!」 これ以上見たくなくて、聞きたくなくて、は目を瞑り、両耳を塞いで大声で叫んだ。 心臓がばくばくと鳴って、やたら煩い。身体も、がくがくと震えている。先程までの意気込みはどこへやら、膝から力が抜け切って、は、へなへなとその場にくず折れた。 べたりと床に座り込むだけでは足らず、右手を前に付いて、ようやく自らの身体を支える。そんなを馬鹿にするかのように、響く声と声の向こう側で、どこかの誰かが嘲笑っていた。 そんな時である。の視界の端を、ちらりと、黄金色の光がよぎった。 ―― !? はっと顔を上げると、何度か見たあの光の球が、ちろちろと宙を舞っている。 光は、の周りをくるくると巡ると、ふっと右手の壁に貼り付いた。そしてその場に静止して、こちらを誘っているかのように、ゆっくりと明滅する。一つ瞬きする度に、その輝きは、少しずつ強くなっていた。 それがまるで、闇の中で見る一片の灯りのようにも見えて――は、警戒するのも忘れて、その光の方へと手を伸ばした。 指先が触れる直前、光の球は蛍のような丸い形から、さらりと流れる長い糸のような形に変わる。 その輝きに縋るように、は、思い切り力を込めてそれを引っ掴んだ。 すると。 「痛っ……!」 腕の中に突然、白い人影が転がり込んで来た。 あまりにその勢いが良過ぎて、も、その人物も、ほぼ同時にその場に倒れ込んだ。 否、光を掴んでいたが下に、新たに現れた方が上に覆いかぶさるようになったので、傍目にはまるで、床に組み伏せられたような格好だ。幸か不幸か、恥ずかしさよりも痛みが先んじて、体勢など気にするどころではなかったけれど。 したたかに打った腰や尻をさすりながら、改めて相手を確かめてみれば、何故か、幼馴染の憎らしい顔が間近にある。 即座に、互いが嫌そうな顔を浮かべた。 「いきなり何しやがる、この馬鹿が。離せ」 「ちょっと何よ、その言い草は。貴方こそ、一体何処から出て来たのよ!」 怒りの色を浮かべた二対の瞳が、至近距離で睨み合う。 だが、今の自分たちの姿勢が、かなり不謹慎な格好になっている事に気がついて、慌てて相手から身を離す。一瞬、指先が触れ合ったが、それにも気付かぬ振りをした。 こんなに顔と顔が近付くのは、がふざけ半分に、金蝉の鼻なぞ抓んでからかう時くらいのものである。それ以外では一切、こんなに近距離まで迫ったことも、迫られたこともない。口さがない一部の者が、自分たち二人は恋仲なのだと噂しているらしいが、そういう事実は全く無いのだ。 周囲に誰もいないことが、これ程ありがたいとは思わなかった。そして、目と目が合ったその瞬間、胸が少しだけ高鳴ったのも、相手には絶対に悟られてはならないことである。 床にぺたりと座り込んだそのままで、がじりじりと後じさる。金蝉はその場に膝を付いたまま、ばつの悪そうな顔でそっぽを向いている。 何故、これしきのことで動揺したのだろう。たかが幼馴染のこの人物なんかに。 この時だけ、二人の思いは完全に一つになっていた。 「でも本当に、変な現れ方しないで頂戴。驚いたじゃないの」 「煩せぇ。そっちこそ、いきなり人の髪引っ張りやがって」 「――髪?」 言われて、ははっと己が掌中に目をやった。 確かに掴んだはずのあの光は、いつの間にか指の合間をすり抜けて、消え失せてしまっている。 その代わりといっては何であるが、憮然としたこの男の広い肩から胸元にかけて、まばゆい黄金の髪が一房流れ落ち、きらきらときらめいていた。 あの光の正体は、これだったのか? 端正で不機嫌そうな男の顔を眺めながら、は一人首を傾げる。 「ところで、そちらの首尾はどうなのよ? ……って、訊くまでもなさそうね」 「お互いにな」 何故か互いに背を向けて、二人それぞれに立ち上がった。 そして、また同時に深いため息を付く。別に間を合わせているのではないのだが、どういう訳かいちいち所作のタイミングが一致してしまうのは、単なる偶然にしても笑えない。もっとも、今はそんな呑気にしていられるような状況ではないのだが。 喜劇じみた邂逅をもたらした水晶の塔は、澄ましたように、静かなきらめきをたたえている。 その現実が、無性に憎らしい。 「それより、お前……どうした。何かあったのか?」 「え?」 気まずい沈黙の後に、金蝉が、不意にそう問うてきた。 |