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 思いもよらぬ質問に、は目を丸くした。
「顔色が悪いぞ」ふっと頬に触れられて、思わず身が固くなる。つい反射的に、その手を振り払ってしまった。
 急に何するのよ、と突っかかったの睨みに、金蝉も、はっと我に返ったような顔をして、気まずげに手を引き込める。「てめェがンな面してんのが悪いんだろうが」と、そっぽを向いたその横顔が、苦虫を噛み潰したようになっていた。
 幼い頃には当たり前だったやり取りでも、大人になればそうもいかない。空気が、更に気まずくなった。

「………………」

 動揺していたと気付かれた事が、やけに恥ずかしい。
 あの、血の色をした水鏡に映った幻影や、聞かされた悲痛な幻聴よりも、その事実の方がいやに胸に引っかかる。何故そんな風に感じるのか、自分でもよく分からないけれど。
 そういえばまだ子供だった時分も、後宮を抜け出して独りで居る度に――あの頃は、身分がそう高くないのに父帝より深い寵愛を享ける生母への妬み故か、幼いに辛く当たる者も少なくなかった――、そうやって、声を掛けられた事があった。だからと云って、素直に頼ったり甘えたりした事は、ただの一度も無いけれど。
 だが、ここで過去を振り返っていたり、つまらない意地を張り合っていても意味が無い。二人は、これまでの自身の経路について互いに簡潔に話して聞かせ、以後の行動について共に考えた。
 捜索活動を行う場合、まず自分が遭難しないよう心掛けるのが第一である。
 だが今は、現在位置などとっくに見失っているし、それ以前に、有り得ないことばかりが起こるこの場所を、常識に当て嵌めて考えること自体が難しい。
 加えて、金蝉は日常ではペンや箸以上に重いものなど持たぬ男であるし、その点ではも大して変わらない。
 例え万が一の事が起こっても、戦ったりするのはまず無理だ。気持ちの上ではともかく、はっきり云って、二人揃って役立たずなのである。
 先行きは暗い。

「……それでも、行かなきゃね……」
「お前に言われるまでも無ぇ」

 迷いとため息は一旦捨てて、二人は前に向かって歩き出した。
 金蝉の甲高い靴音が、静まり返った回廊によく響く。かつんかつんと鳴る度に、辺りの静けさが際立った。
 わざわざ声など上げずとも、この靴音だけで彼がここに居ると、周囲に触れ回っているようなものだ。もっとも、聞こえる範囲内に誰も居なければ、何の意味も無いけれど。
 は歩きながら、一応、時々は壁の陰や壁の隅に目を落とし、紅い星印が描かれていないかと探す。そわそわと落ち着きのないその様に、金蝉が隣で怪訝な顔をした。

「おい、何きょろきょろしてやがる」
「ううん、別に」

 たまに、こんな最低限の会話を交わすのみで、二人は黙々と歩き続ける。
 だが、どれだけ先に進んでも、靴音に反応する存在は現れず、紅い星印も見つからなかった。
 本当に、ここに悟空は居るのだろうか。自分たちは、とんだ無駄足を踏んでいるのではないか? 道中、何度も脳裏に浮かんでは無理矢理にねじ伏せてきた疑念が、また頭をもたげてくる。
 それでも、金蝉もも取り敢えず沈黙を保ったまま、ただひたすらに進み続けた。

「………………」

 そうして暫く歩いているうちに、二人は少し広い場所に出た。
 コンパスで描いたように完璧な真円形ををしたこの場所には、扉もなければ窓もない。まるで飾り気のない素っ気なさと、天井が吹き抜け状なせいもあって、まるで水晶の筒の中に入ってしまったかのような印象を受けた。
 はるか上、ここからでは見る事すら叶わぬ高い天井からは、柔らかい光が降り注ぎ、空間全体を明るく照らしている。今まで通って来た道のどこよりも明るい。一瞬、塔の外に出たのかと錯覚した程だ。
 そして、筒の内側とも云える壁に沿って、反時計回りに、細い螺旋階段が伸びている。
 手すり一つ付いていないその階段は、ずっとずっと上の方まで続いていて、一体どこに繋がっているのか。
 ここから見上げるだけでは、全く分からない。

「……うわあ」

 とんでもなく長い階段は、その終わりさえよく見えない。お陰で、ずずんと気が重くなった。
 他に行けそうな道はないか、と、もう一度部屋中を見回してみるが、やはり上に進む以外には無いようである。
 このまま先へ進むべきか、それとも元来た道を引き返し、他に行けそうな所を探すべきか。が逡巡している間に、金蝉は勝手に結論を出したようだ。躊躇うことなく、階段を登り始めた。
 先を行くその背中で、束ねた黄金の髪が弾んできらめく。一度も振り向こうとしないまま、彼は一人で、とっとと先に進んで行った。
 こんな所で、独り置いていかれては困る。は慌てて後を追いかけると、その左腕をがしっと掴んだ。

「腕組んでいいなんて言った覚えはねぇ。離せ」
「嫌よ。ここで、貴方に勝手に消えられては困るもの」
「冗談じゃねぇ。消えるなら、俺じゃなくてお前の方だろう」
「どうして私がっ!」

 はぐれたくない、と素直に言わないのは、意地の成せる業かもしれない。
 そんなに、金蝉はふん、と馬鹿にするように軽く鼻を鳴らしたが、力ずくで腕をほどくような事はせず、またそれ以上文句も言わなかった。こちらの歩調に合わせてくれたのか、歩く速度も少しだけ緩まる。
 但し、お互いに反感を覚えてもいたので、暫しの間、険悪な雰囲気ではあったのだが。

「………………」

 そうして二人、仲悪く腕組みしながら、無言で階段を登り続ける。
 階段沿いの壁には、やはり扉や窓は一つもなく、つるりとした表面が、なめらかな光沢をたたえている。
 どこまでも透明であるくせに、他の場所と同様、向こう側が透けて見えるということも、鏡像が映り込むこともない不思議な水晶の壁は、間近で見ていると、内に吸い込まれていくような錯覚に襲われる。いや実際、一度は中に取り込まれ、あんな風に、違う場所に放り出されてしまったのだが。
 そんなことを考えていたせいだろうか、金蝉が不意に、さっさと歩けといわんばかりに肘で小突いてきた。
 やっぱり、いちいち癇に障ることをする。は、きっと彼を睨み返した。

「あのね、言いたいことがあるんなら、はっきり言えば?」
「無駄口叩く気なんざ無ぇんだよ」

 腕を組んだそのままで、二人は互いにそっぽを向いた。
 こんな所で、独り取り残されるのは嫌ではあるが、一緒に行く人物との相性が悪ければ、それはそれでなかなか辛い。それも、真に仲が悪いのではなく、そうでもないのについつい意地を張るような相手となれば、尚更に。
 せめてもう少し、相手が優しく接してくれたなら、自分だってもっと柔らかくなれるのに。

 ――やだ。私ったら、こんな時に何考えてるのよ。

 脳裏に浮かんだ想像を追い払おうと、は二、三度頭を振った。
 隣で、金蝉が訝しげな顔をしたが、「何でも無いわ」の一言でやり過ごす。我ながら些か不自然な応対をしてしまったと後悔するが、くじけて口を滑らせたら負けである。は、口を貝のように固く閉じた。
 なんて、現実離れした空想だろう。優しくて愛想良いこの男の姿だなんて。
 もしそんなものが実現したら、天地がひっくり返るとまでは云わないが、周囲は間違いなく大騒ぎになる。それでも、観世音菩薩はきっと、その騒ぎすら余興として楽しむに違いないが。
 隣でそんな勝手な想像図が描かれているなどとは露知らず、金蝉は、相変わらずの仏頂面で、黙々と歩き続けていた。
 天より差し込む光が、その端整な横顔を一層見映えよく照らしている。
 顔の輪郭を覆う柔らかな金髪も、光に透け、まさに黄金の輝きを放っていて、その容貌をより美しく彩っていた。眉間の縦じわさえ無ければ、完璧なまでの美貌である。
 男のくせに、何でこんなに綺麗な髪なんだろう。は時々、やっかみ半分で髪を引っ張ったりいじったりするのだが、(そしてその度に怒鳴られてもいる)、こうして間近で見ていると、やっぱり羨ましくなってくる。自分もこんな髪ならばと思ったことも、実は一度や二度だけでは済まない。悟空が「たいようみたいだ」と言ったと聞いた時には、密かに同意したものだ。
 とにかく、見た目だけは綺麗なのだ、この男は。その愛想の無さや、怒りっぽさはともかく。
 その上、普段着ている服も白一色のシンプルなものばかりで、絢爛豪華な装いを好む他の天界人とは、常に一線を画している。黄金の髪に白の装いは、異文化世界の神の遣いに多く見られるというが、そんな先入観も関係しているのかいないのか、巷では、些か近寄り難い程の美貌だとも囁かれているらしい。
(個人的には、その近寄り難さは、無口で頑なな性質と仏頂面とが醸し出した代物だとも思う)
 本人は全く自分の容姿に頓着していないが、宮中に出入りする女たちの中にも、密かに心寄せる者が少なからず居るようである。噂では、気持ちが逸るあまりにしつこく媚び寄って、思い切り不興を買った者も居るとか居ないとか。
 あの観世音菩薩の近親者らしく、口はひどく汚いし、性格もあまり褒められたものではない。が、黙ってさえいれば、その顔に慣れている筈のでも、たまに男女の区分を飛び超えて、己の容姿に劣等感を抱いてしまう程の美丈夫である。
 こんな時には、つい見惚れてしまいそうで、何だかとても憎らしい。

「……くそ。どこまで続いてやがる、この階段は」

 忌々しげに吐き捨てて、金蝉が、一旦その場で足を停めた。の腕を解き、段の上にどっかと腰を下ろす。
 己の背後を振り返り、先を見上げるその表情には、疲れと焦りと苛立ちとが露わになっていた。
 疲れているのはも同じだ。彼より数段下にそっと座り、そっと階下へと視線を移す。
 随分登ってきたものだ。地上がずっと下に見える。もしここから落ちたら、神たる身でも多分ただでは済まない。ちょっと想像してみただけでも、ぞっと背筋が寒くなった。
 そして金蝉と同様に、これから行く道へと目を転じてみれば、澄み切った水晶の階段が、はるか先まで続いている。
 見ているだけで、どっと疲れが増してきた。

「あのガキ、何でこんな所に来やがった」

 金蝉が小声で、吐き捨てるように呟いた。







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