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「悟空っ」

 が再度名を呼んでも、子供はにこりともせず、僅かに瞳を眇めたのみだった。
 こんな顔は知らない。その、冷たさしか感じさせぬ表情に、金蝉もも戦慄を覚える。
 そう。その子は、「悟空」には違いなかった。無造作に伸ばした茶のざんばら髪も、丸みを帯びた顔の輪郭も、大食なのが嘘のような小さな体つきも、二人のよく知るままである。が、その耳は長く尖り、丸みを帯びた手の先にも、鋭い爪が伸びている。いつでも感情豊かな金色の瞳も、今は、無機質な輝きをたたえるのみだった。
 何より違和感を覚えさせられるのは、その小さな身体から、威圧的な霊気が噴き出していることだった。
 神通力とも、妖気とも違う、ただ『気』としか呼べぬその力に圧倒され、身が竦む。

「――――!」

 その時、ふと、悟空がにやりと笑った。
 いつもの無邪気な笑みとはまるで違う、昏い喜びをたたえた笑みには、普段の面影は欠片もない。血まみれで倒れるもう一人の金蝉を背にし、ぺろりと唇を舐めつつこちらを見る目つきは、まるで野生の獣のようだった。その異様さに気圧されて、金蝉もも身動き一つ出来ず立ち尽くす。
 そうして、両者が見つめ合うことしばし。突然、悟空が、無言のまま踵を返した。
 横たわる遺骸をひょいっと乗り越えて、小さな体が、彼方へと向かって駆け出してゆく。咄嗟に二人が呼び止めようとしたが、彼はこちらを一瞥もすることなく、しろがねの虚無に溶け込むようにすうっと消えた。
 大人たちの伸ばした手が、虚しく虚空に静止する。

「…………!?」

 そして、消えた悟空と入れ違いに、別の者たちが現れた。
 ふわりと宙に舞うように姿を現したのは、手に手に銃器や刀剣を携えた軍人たちや、女官や、文官たち。天帝城を警護する衛兵たちや、やんごとない身分の神仙もいる。彼ら彼女らは、それぞれに慌てたような顔をしながら、倒れた金蝉の傍で右往左往していた。
 驚きで瞠目する二人の前に、薄紙に描いた絵を何枚も何枚も重ねては剥がすかのように、身分も立場も役割も違う者たちが、入れ替わり立ち代わりやって来る。ある者は心細げに身を寄せ合い、ある者は呆然と立ち尽くし、ある者は慌しく駆けながらひとしきり騒いだ後に、まるで風前の灯火のように淡く儚くかき消えた。その入れ替わる速さはまさに走馬灯のようで、目まぐるしいことこの上ない。
 そしてその誰もが、顔に驚愕や狼狽、憤怒の相を浮かべていた。それらはどれも、平穏を常とするこの天界においては、滅多に目にすることのない表情ばかり。めいめいが好き好きに騒ぐので、まさに動乱の只中に在るかのように、場が一気に喧しくなった。
 が、奇妙なことに、地に倒れ伏した金蝉には、誰一人目もくれない。流れる血はますます地面に赤く広がり、彼らの足元にも及んでいるというのに、衣の裾を気にする素振りも見せないのだ。故意に目を逸らしているのではなく、全く見えていないかのように。
 しかも彼ら彼女らには、実体というものが無いようにも見受けられる。その身にまとう衣服は勿論、体も顔も透き通って、絶えず不安定に揺らめいている。足元にも影がなく、どんなに走っても足音一つしない。そのくせ、喚く声だけはよく響くのだから、不自然なことこの上なかった。
 嘆く仙女の身を突き抜けて、軍人たちが駆けて行く。慌てふためく文官と、大股でずんずん歩く巨漢の衛兵が、互いの体に一瞬潜っては離れる。まるで万華鏡がくるくると色彩を変えてゆくように、次々と新しい顔が現れては消えてゆく。なのに、同じ場所に同時に在りながら、誰も、誰とも触れ合わない。
 その、陽炎のように儚く移ろう人々が行き交う中心で、血まみれの金蝉が、誰にも見向きされぬまま打ち捨てられている。狂騒の中に取り残された遺骸は、余計に惨めでむごいものに見えた。
 金蝉もも、今、何が起こっているのか全く理解ができない。何が何なのか訳が分からないまま、二人とも、ただ呆然と立ち尽くすより他になかった。
 そんな彼ら二人の横を、厳しい顔つきの兵士たちが、無言で通り過ぎて行く。しんがりを走っていた中背の兵の槍の先が、の頭の上をかすめて消える。

「…………」

 そんな騒ぎがひとしきり続いた後に、どこからともなく、琵琶や竹笛の調べが聞こえてきた。
 消えてゆく不安顔の者たちと入れ替わりに、薄紅や水色や橙など、色とりどりの薄衣をまとった舞姫らが、優雅な音楽と共に虚空に浮かび上がる。
 次いで、楽しげに酒盃を傾ける神仙たちが姿を現した。
 ほろ酔い気味に頬を赤く染め、舞や楽を肴に酒を酌み交わす様は、ごくありふれた宴の光景そのままである。楽しげに笑うたくさんの声が、辺り一帯に響き渡る。歌や楽器の音が、一段と大きくなった。
 だが、倒れた金蝉の体は、血溜まりは、消えずにそのままの形で残っている。そのせいだろうか、響く楽しげな笑い声が、ひどく虚しくて寒々しい。舞姫の踊りが一差し終わったところで、その光景はふっと消えた。
 歓談の余韻が残る中、次に、忙しげに書物や書類の山を整理している文官たちが姿を見せる。その傍らで女官たちが、楽しげにきゃあきゃあとお喋りしていた。向こう側であくびをした黒い軍服は、天界軍に所属する者か。
 先刻の不吉な狂騒が嘘のような平穏な風景が、同じく互いに交わらぬまま、虚空に次から次へと描き出される。その誰もが、何でもないような顔をして、それぞれの日常を過ごしていた。
 中央に、金蝉の遺骸を残したままで。

「――もう、もう止めてよ」

 たまらず、が目を背けた。
 喉の奥から搾り出したその声に、金蝉がはっとこちらを振り返る。その視線を感じながら、は、きっと前方を睨み据えた。
 だが、その叫びも聞こえなかったのか。が睨みつける視線の先で、だらりとした笑みを浮かべた女神が、暢気に琵琶をかき鳴らしている。場に集う者の誰一人として、こちらを振り向こうとしない。
 の細い肩が、小刻みに震える。それは多分、腹の奥底からこみ上げる怒りをこらえているせい。
 ぎゅっと拳を握りしめるせいで、掌に爪が深く食い込む。が、気が高ぶっているせいで、痛みすら感じない。

「一体何なの? 何がしたいの? 誰の仕業か知らないけど、悪ふざけもいい加減にして頂戴っ」

 怒るあまりに、声が些か上ずった。それでも、享楽に浮かれる者たちに、その声が届いた様子がない。
 と、その時、俯いたの視界の端を、まばゆい黄金の光が横切る。それが、ずっと黙っていた金蝉の髪のきらめきだと気付くまで、約二秒程かかった。
 彼は、の真ん前で仁王立ちになり、前方を見据えている。今、どんな表情をしているのかは、向けられた背中に阻まれて分からない。
 自分よりもずっと背の高い幼馴染の背中が、心なしか大きく見えた。

「おい、馬鹿猿! いつまで隠れてるつもりだ、とっとと出て来いっ!」

 凛としたその声は、目の前の光景をも飛び越えて、はるか彼方まで響き渡った。笑いさざめいていた神々が、一斉にこちらを振り返る。
 一瞬の沈黙。その後に、憚るようなひそひそ声が、あちらこちらから噴出する。

(清浄なる天界にそぐわぬ、下賎の子が)
(忌むべき異端の子が)
(何故、この天界を自由に闊歩出来たのか。嗚呼、嘆かわしい)

 口々に囁かれるは、悪意に満ちみちた言葉ばかり。嫌悪も露な眼差しが、金蝉に集中する。
 だが、彼は全く怯むことなく、それを真正面から受けて立った。虚空に見えない火花が散り、辺りの空気が、にわかに温度を下げる。
 幼馴染の、こんな威風堂々とした立ち姿を見るのは初めてだ。いつもの物静かな彼からは、とてもじゃないが想像がつかない。一瞬見蕩れてしまった自分が、少しだけ可笑しかった。
 そんなの驚きなど露知らず、金蝉は、非難の声を、眼差しを打破するように、一層大きく声を張り上げた。

「てめェらなんぞに用は無ぇ。俺が呼んでいるのは、あの馬鹿猿だけだ。
 隠してねぇで、とっとと出しやがれ」

 不退転の意思を全身にみなぎらせた彼の言葉に、ざわめく神々の幻影が、怯んだように後じさる。
 動かないのは、未だ横たえられたままの、もう一人の金蝉の遺体のみ。

「返せ、今すぐ」

 金蝉がそう言ったその瞬間。
 世界に幾つもの亀裂が走り、やがて粉々に砕け散った。

「…………!」

 幾百、幾千、幾万もの破片が、四方八方に降り注ぐ。
 それらは冷たく硬い輝きを放ちながら、粉雪のように花嵐のように虚空に舞う。だがその破片は全て、地に着く寸前に、跡形もなく消え去った。
 光の破片が散るせいか、辺りは真昼のように明るい。きらきら、きらきらと振り降りる光の嵐の中、目を瞠って立ち尽くした金蝉との耳に、また、無数の囁き声が届く。

(知らぬくせに)
(分からぬくせに)
(愚かな)
(何と愚かな。曲がりなりにも神である者が)

 老若男女の声が入り乱れ、誹謗の言葉を投げかける。二人はそれらの声の主を求め、慌てて周囲を見回すが、どこにもその姿はない。なのに無数の嘲笑う声が聞こえ、侮蔑に満ちた視線を感じる。
 無知よ愚かよと罵る者たちの言葉の中身は、普段よく聞く陰口と同じ。注がれてくる視線に潜む悪意も。醜い感情むき出しな声が、眼差しが、二人の神経を逆撫でする。どうしようもない程の居心地の悪さを感じたが、もう、不可思議現象に驚いているどころではなかった。
「貴様どもに何が分かる!」金蝉が大声で怒鳴り上げると、囁き声がふっと消えた。一瞬の沈黙を置いて、嘲笑の声が一層大きくなった。
 くっと顔を歪めた彼の視線の先で、遅れて降ってきた光の破片が、きらりときらめいて消える。

(何も分からぬはそなたたちであろう。痴れたことを言うよのう)

 しわがれた声が頭上で呵呵大笑し、小さなつむじ風を巻き起こす。それを合図にするかのように、場が一気に静まり返った。
 光と声との乱舞が止んだ後には、先刻と同じ、白一色の静謐の世界が広がる。血まみれの遺骸も、いつの間にか消えていた。

「…………?」

 と、その時。視界が曇った。どこからともなく霧がたちこめ、急速に濃くなったのだ。
 濃く漂う霧は、伸ばした自分自身の腕の先さえもぼやけさせる。は慌てて、金蝉の方へとすり寄った。

「くっつくな、鬱陶しい」
「仕方ないでしょ、こんな状況なんだから」

 憎まれ口を叩き合う間にも、霧はどんどん濃度を増してゆく。
 今度は、何が出て来るか。不安な気持ちを互いに隠しつつ、大人気なく二人が肘で小突き合っていると、すぐ傍に突然、新たな気配が現れた。
 よくもまあ、こう次から次に。些かうんざりしながら、二人がそちらに目をやると、

「…………?」

 白い霧の向こう側に、うっすら人の影が現れる。







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