― 14 ―





 誰だろう。天蓬か捲簾かとも思ったが、それにしては少し背丈が足りない。
 警戒しながら二人が見つめていると、人影は、次第に濃さを増していた。それと同時進行で、霧が少しずつ晴れてゆく。
 相手の顔が、はっきりとした。

「!」

 そこに立っていたのは――他でもない、悟空だった。
 だが、先程とは違い頭に金鈷こそ嵌めているが、姿形がかなり違う。背は今よりも高く、顔立ちにもあどけなさと精悍さが同居する。大きな金色の瞳には強い意思の光が宿り、朱塗りの棍を携える腕にも、力強さがみなぎっていた。
 その手首や足首にも、重い鉄の枷はない。まさに自由を謳歌しているといった風情が、頭の頂から足先にまで満ちていた。
 これはもしかして、将来の悟空の姿だろうか? 二人が戸惑うを他所に、彼はゆっくりとこちらに歩いて来る。
 腹減った、という呟きに、保護者が「この馬鹿猿が」と眉間にしわを寄せた。

「……悟空?」

 恐る恐る、が声をかけた。
 しかし、彼は応えない。それどころか、声をかけられたことにも気付いていない様子だ。ぶつぶつと何やら不満を述べながら、しきりに辺りを見回すのみ。その眼は明らかに、目の前の金蝉やではなく、もっと遠くを見つめていた。
 これもまた、塔が見せる夢の一片、現実と虚構のあわいに立つ幻想の片鱗だろうか。それとも、健やかに育てと願う自分たちの願望が、ひとときの幻を創り出しているのか? 不朽と不変を声高に謳うこの天界で、悟空のこんな成長した姿を目にするのはいつなのか、今は想像もつかないけれど。
 それでも、と手を伸ばそうとして――は、己が姿が、薄く透けている事に気が付いた。
 はっと振り向くと、傍らの金蝉も、自身の異変に気付いたらしく、驚きで目を大きく見開いていた。
 何度も目をぱちぱちとさせながら自らの掌を凝視するその立ち姿も、同様に半透明になっている。何故こうなったか知る由もないが、ふっと息を吹きかければ、彼も、自分も、そのままかき消えてしまいそうだ。
 これでは、どちらが夢で現実か分からない。

「金蝉!」
「分かってる。いちいち騒ぐんじゃねぇっ」

 確かなのは、互いにかけ合う声ばかり。心許ないこと甚だしい。
 そんな二人の困惑も知らず、大きな悟空は、がくりと肩を落としてその場に座り込んだ。
「あーあ、まじ、腹減ったなあ」地に突き立てた棍にもたれ、彼は、誰にともなくそうぼやく。と同時に、腹の虫が派手に鳴った。
 ふて腐れたようなその表情も、仕草も何もかも、二人のよく知る悟空の面影がある。例え姿形が大きく違えども、先刻のあの威圧感たっぷりの小さな異神よりも、こちらの方がずっと親しみが持てた。この悟空の姿はまさに、金蝉やの望む未来図を、そのまま形にしたかのよう。
 もしや、この塔の影響で、本物の悟空が急成長を遂げたのではなかろうか? 愚ともつかぬ思いがの頭をよぎるが、馬鹿馬鹿しいと自ら一笑に伏す。ぱっと髪を振り払った右手が、一瞬消えてまた現れた。
 ため息をついたの目の前で、悟空がぽりぽりと自分の頬をかいている。やはり、こちらに気付く様子はない。

「………………」

 金蝉が、そっと手を伸ばそうとして、無言のまま中途で引き込めた。
 儚く揺らぐその横顔に、はっきりとした苦悩の色が見て取れる。それはこの異常な事態のせいか、それとも養い子に手が届かぬせいか。どちらにしても、ここまで感情があらわな彼の顔は、滅多に見られるものではない。
 金蝉は、悟空を見ている。悟空は、金蝉の向こうにあるものを見ている。
 両者の眼差しは、交差する事のないまま、静まり返った空間に留め置かれている。辺りを包む静謐と、未だにうっすらと漂う白い霧が、曖昧模糊とした世界の中に、ずっしりと横たわっている。
 二人の不毛な見つめ合いは、いつまで続いた事だろう。先に動いたのは、悟空の方だった。

「あ! やっと見つけた、――」

 彼は、金の瞳に喜色を浮かべ、ぴょこんと跳ねるように立ち上がった。
 その笑顔には屈託がなく、まさに輝かんばかり。だが、その眼差しは、そこに佇む保護者ではなく、ずっと遠くだけを見ていた。
 悟空が、力いっぱいにぶんぶんと大きく手を振って、何処かの誰かに呼びかける。だが、口にされているその名前が誰のものなのか、金蝉にもにも全く分からなかった。
 繰り返し、知らない名を呼ぶ養い子の姿を目にし、金蝉の端正な横顔が、苦しげに歪む。

「――悟空!」

 金蝉の声が、虚無の空間に響き渡る。
 それでも、呼ばれた当人は振り向きもしない。長い棍を肩に担ぎ、嬉しそうに走り出した。
 その身体が、目の前で手を差し伸べた保護者の体を通り抜けて行く。金蝉の伸ばした手は、悟空に触れることなく宙を泳いだだけ。くっと眉を寄せた彼の姿が、陽炎のようにぐらりと揺らいだ。
 信じられぬという表情をして、彼が背後を振り返る。釣られて、もそちらに視線を向ける。
 すると、そこでは。異界の装束に身を包んだ見ず知らずの男たちが、悟空を待ち構えていた。

「遅せぇんだよ、この馬鹿猿。――」

 悟空が彼らの輪に入って行ったと同時に、鋭い目をした若い男が――それはが下の階で見た、あの金髪白装束の男だった――、力一杯彼をはたき倒した。
 その男に、悟空も負けじと喚き返したようだが、その会話はこちらには届かない。だが、二人が言葉を交わすその姿には、金蝉とのそれとは些か雰囲気は異なるものの、何人たりとも割り込めない空気が漂っている。ここで、金蝉が立ち尽くしているのも知らないで。
 風変わりな錫杖を携えた赤い髪の男は、咥え煙草をくゆらせながら、悟空にちょっかいをかけようとしていた。
 片眼鏡の男はにこやかに微笑み、肩に止まらせた白い竜を撫でながら、始まろうとする喧嘩の仲裁に入っていた。
 そして。最初に悟空を殴った金髪の男が、こちらに背を向けるようにくるりと踵を返す。そして、咥えた煙草に火を点けながら、皆を先導するように早足で歩き出した。
 談笑する彼らの後ろ姿が、次第に遠くなる。霧はいつしか荒野に沈む赤い夕陽に変わり、彼らの行く道を照らしていた。

「――悟空!」

 消えようとする背中に追いすがるように、金蝉が再度声を張り上げた。
 けれど、誰も振り向かない。彼らは二人の存在にすら気が付かないまま、笑いながら遠ざかって行く。男たちの輪の中心で、悟空もやはり笑っていた。
 彼らの姿が消える寸前、沈む夕陽が光を増した。赤い陽光と巻き上がった砂埃が、二人の目をくらませる。

「………………」

 世界が再び白一色に染まり、息苦しい程の静寂が蘇った。
 いつの間にか、透けていた体が元に戻っている。周囲を覆っていた白い霧も消え失せ、元居た場所、水晶柱の屹立する薄暗い回廊に戻って来ていた。
 だが、そうだと自覚するまでにも、少しばかり時間がかかった。

(何も知らぬは愚かなり、愚かなり――)

 頭上から降ってくるしわがれた声に、がはっと我に返る。
 慌てて周囲を見回してみるが、やはり誰の姿も見当たらなかった。空気の澱んでいるような気配はするが、その正体が見定められない。誰かが見下ろしていたような気配もしたが、それもただの思い過ごしか。
 苛立たしげに眉を寄せたの傍らでは、金蝉が、未だ呆然と佇んでいた。驚きとも苦悩ともつかない顔をして、悟空の消えた方をじっと見つめている。
 ぽうっと淡く灯る水晶の光が、未だ呆然と立ち尽くす彼の横顔を、仄かに照らしている。黄金の髪が、光に透けてきらめいていた。

「……金蝉」

 そっと声を掛けたが、反応らしい反応が無い。
 腕を掴み、強く揺さぶって初めて、その眼がこちらに向けられる。ようやく焦点の合ったような瞳には、狼狽の蔭が濃く残っていた。

「………………」

 互いに、掛けられる言葉がない。沈黙が息苦しくて、どちらからともなく視線を外した。
 無意識にこぼしたため息が、暗がりの中に吸い込まれてゆく。ちらりと様子を伺い見ると、金蝉はまた、眼差しを遥か彼方に、大きな悟空の去った方へと向けていた。
 たった数歩分の距離が、やけに遠い。泣きたいような、怒りたいような、複雑な気持ちを持てあまして、はそっと自らの腕で、自分自身を抱きしめる。
 突き刺さるように注がれていた無数の悪意も、今はもう感じない。それが却って、やりきれない虚しさを際立たせた。
 ふっとため息をついた拍子に、髪が一房肩に落ちる。は、くっと顔を上げると、己に発破をかけるように勢いよく髪を振り払った。

「行きましょ。ここでぼうっとしてても、仕方がないわ」

 がそう言うと、金蝉はぴくりと片眉を吊り上げた。
「俺に指図するんじゃねぇ」抗議の声が上がったが、はくるりと背を向けてやり過ごす。相手がどんな顔をしているのかなんて、ちっとも見たいと思わない。
 そのまますいっと歩き出せば、少し遅れて、甲高い靴音がかつかつと辺りに響きながら、後ろから付いてきた。その音と共に、刺々しさを存分に孕んだ気配が、背中越しに伝わって来る。
 周辺には、何の気配もない。目まぐるしく幻影が現れて消えたのが嘘のように、しんと静まり返っている。自分たちの立てる足音だけが、耳に聞こえる全てだった。
 そうして、細い回廊を歩くことしばし。突然、

「声が、聞こえねぇか?」

と言って、金蝉が急に立ち止まった。
 もその場に足を停め、何事かと訝しみながら振り返る。

「どうしたの?」
「この声は間違いねぇ、あの馬鹿猿だ。べそかいてやがる」
「え?」

 言われても耳を澄ませてみるが、やはり何も聞こえない。
「こんな煩せぇ声が聞こえねぇのか」如何にも馬鹿にしたような物言いが、まともに癇に障る。

「そう言われたってね、何も聞こえないんだから仕方ないでしょ。
 大体ね、貴方にしか聞こえないなんて変よ。幻聴なんじゃないの?」
「てめェ、俺を馬鹿にすんのか」
「思ったことをそのまま言っただけよ」

 金蝉がきっと睨みつけ、がぷいっとそっぽを向いた。
 ぴりりと刺すような険悪な空気が、二人の間を占める。そうして過ごしている内に、かすかに、誰かの泣いている声が、の耳にも聞こえてきた。
 金蝉の言ったとおりに。

「…………!」

 じゃらじゃらと重たげな鎖を引きずる音が、段々と近付いてくる。
 そして、灯っては消える光の下に、泣きじゃくる小さな子供の姿が現れた。







>> Go to Next Page <<

>> Back to Last Page<<


>> Return to index <<

Material from "Giggurat"