作品の根幹を担う「玄奘三蔵」「金蝉童子」二名についての私的考察

〜 別名・凡人たるページ担当者の全く無益で勝手な負け犬的遠吠え 〜
文責:彩都(三蔵・金蝉ページ担当)
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「悟浄 脱へたれ論」
執筆:wwr@悟浄・捲簾ページ担当

「最遊記の特定キャラクターに対する勝手な考察と見解についての論文」
執筆:M@悟空ページ担当
「こうして私はドリ書きとなった」
執筆:眠林@八戒・天蓬ページ担当
「傍観者による最遊記の世界観と臥待月について」
執筆:波水@Confusedページ担当

0.Prologue

三蔵さん、金蝉さんがどれだけ美人か、という皆様周知の点については、さっくり割愛してしまいましょう。
(実は、あの容貌が私的には逆ツボの嵐だったから語りようがない、という事実は黙っておこう……)
原作本編で、外伝で、アニメで(TV版、劇場版共)、一貫して「最遊記」という作品そのものの主題を担うキャラクターである「玄奘三蔵」または「金蝉童子」について、私見主観思い込みキャラ萌え等を交えつつ、その人物像について探れるだけ探ってみようと思います。
異論・反論・苦情に抗議も大歓迎。但しその場合、名前(HNでOK)くらいは名乗って下さいね。



1.Selfish

これまた今更言う話でもないですが、玄奘三蔵という人はかーーなーーり「我侭」です。
はっきし言って性格については、褒めるとこ全然有りません。私的には、一発蹴り入れたいくらいです。原作での『偽者』が登場したエピソードの時に、悟空・八戒・悟浄が「ブン殴ってみてぇ」と心躍らせていましたが、あの気持ちは私も同じです。私がもしもあの場にいたら、皆と一緒にわくわくしながら凶器を用意したことでしょう。多分見事に返り討ち食らうでしょうが。
「玄奘三蔵」という男は、そのくらい困った性格の持ち主です。
(ああ、書き始めたばかりなのに、既に三蔵さんファンの何割かを敵に回した気が……)

ですが。一見、自由気ままに見えて――三蔵さん、実はかなり不自由です。
若くして『仏門の頂点』に立ったが故に、羨望や嫉妬の集中砲火を浴びたであろうことは想像に難くありません。また、妄信的に崇拝するあまり、うざったい 「貴方の御為なら」と安直に全てを捧げて依存する者も居たでしょう。人間、慕われて悪い気はしないものですが、度を超すと却ってお荷物です。慕う本人には悪気はないですから、よっぽどでもない限り改善しません。そうなると、まさに「贔屓の引き倒し」「ありがた迷惑」そのものです。
更に述べるなら、彼に『三蔵』の称号を与えたのは、今は亡き光明お師匠様です。三蔵さんが尊敬し敬愛する唯一にして絶対の存在です。三蔵さんがもし何かやらかせば、下手すりゃお師匠様まで誹謗中傷の的になります。そんな訳で? 相当の忍耐を強いられるような局面も、やっぱり多かったのではないでしょうか。
そんな「半端に邪魔」な連中が相手では、却ってこちらからは手が出せないもんです。殺意剥き出しで襲ってくる敵ならば、正当防衛という名目の元、遠慮無く迎撃出来るんですが……。
(相手を殺したら「過当防衛」じゃないのか? という疑問は、この際押入れに片付けておきましょう)

三蔵さんは時々「信じられるのは自分自身だけだ」とも口にしますが、別の見方をすれば「機会ある度に自分自身にそう言い聞かせている」とも解釈出来ます。わざわざ口にするor考えることで、自分自身を戒めている、とも。本当に人間不信であれば、「他人が信用出来ない」のが当たり前なんですから、いちいち意識する必要なんか無い筈です。
少し本題からずれますが(汗)その点から、お師匠様が如何に三蔵さん(当時は「江流」でしたね)に愛情を注いでいたかが伺い知れます。子供時代が不遇だった悟浄、八戒と比べるまでもなく、その幼少時代は幸福だったと言い切って良いと思います。

三蔵さんが「我侭尊大」で「自己中心的」で「俺様」なのは、そういう境遇故に身に付けた(付けざるを得なかった)一種の処世術ではないでしょうか。
そうやって他人を遠ざけ、周囲の雑音に耳を塞いでいれば、取り敢えず自分の受けるダメージは最小限で済みます。相応のリスクも生じますが、自分自身が潰されるよりはずっとマシです。短絡的で卑怯ではありますが、ある意味では賢い手段とも云えます。己が目的を果たすためには、世間体なんて気にしちゃやってられないのです。多分。(この点については後述します)
勿論、相当の覚悟がないと出来ない所業でもありますが……。

「『誰かの為』になんて死んでたまるか 残された『誰か』の痛みがわかるから
 俺の為に生きて 俺の為だけに死ぬ それが俺の誇り(プライド)」
(第14話「Good Night」/コミックス第2巻p.74〜75)
勿論これが全てではありませんが(汗) この台詞が、「玄奘三蔵」という男の本質を表しているのではないかと。
今では誰も信じてくれないと思いますが、「最遊記」を読み始めた当初、私はどっちかっつーと悟浄派でした。(誘った友人が悟浄ファンだったせいですが)
アウトオブ眼中(←死語)だった筈の三蔵さんに一気に傾き、更にその後転落の一途を辿ったのも、この台詞がきっかけ……。


三蔵さんが「三蔵」の法名を戴いたのが、13歳の時。現在23歳ですから、かれこれ10年はそんな人生を歩んできたことになります。……やだなぁ、そんなすさんだ思春期。

一方、金蝉さんはかなり恵まれているように見えますが、実はこの人もかなり不自由。
ある程度の職務を任される立場(山積の書類に自分の印を押す場面からそう推測出来ます)で、天界の責任者の一人・観世音菩薩の血縁者(甥)。地位の高さ=生まれ(人間で云うところの「家柄」でしょうか)ですから、少々口が悪かろうが無愛想だろうが、それだけで周囲も何となく容認してしまうきらいがあると思われます。正面切って苦言を呈する存在など、相当限られているでしょう。
ですが、何をやっても許される立場、というのは、別の言い方をすれば「対等にぶつかり合える相手が居ない」ことでもあります。天蓬元帥や捲簾大将といった友人が居るには居ますが、基本的にあの二人とは(本編の三蔵と八戒&悟浄との関係と比べると)多少の『距離』が有ります。観世音菩薩は「目上」ですから、これまた「対等」ではありません。
本音を曝け出す場所もなく、周囲からは(個性無視とも云える)出自や状況だけで全てを評価される。自力では何にも出来ない(動くこと自体があまり許されない)環境の中で、遠くから要らん雑音だけ聞こえてくる。……ふっ。常人なら胃に穴が開きますぜ。

生まれた時に何も無かった故の不自由と、生まれた時に全てが揃っていた故の不自由。
どちらに転んでも難儀な男だなぁ、と思うことしきり。余計なお世話、と怒鳴り返されるでしょうが。

蛇足。この二人の中間に位置するのが、『王子様』こと紅孩児でしょう。多分。
今回の主旨から外れるので詳しくは述べませんが、彼もまた、突っ込むと面白い……もとい、興味深いキャラクターです。峰倉御大が彼のことを「敵方のポスト三蔵的立場」と仰るのも、何となく頷けます。



2.Ideal

前項でも少し触れましたが、三蔵さんの「理想」はお師匠様であることは、容易に推測出来ます。
何故、と述べる必要はもう無いでしょう。「無一物」はお師匠様の御教えそのものですし、三蔵さん自身、法名を戴く直前(原作2巻)、「俺はあの方に一生お仕えする」とはっきり口にしています。その他にも、三蔵さんがお師匠様の影を引きずっていると推測出来る描写が、原作でもアニメ版でも随所で見られます。(実は私、TV版はあんま見てないんですが)

ですが「理想の人」が故人である、というのが実は癖モノ。
お師匠様自身はもう(現実には)居ない。その分、心の中で美化してしまっていると思われます。
相手が現実に目の前に居る存在なら――相手も人間なんですから(苦笑) 生身の本人が傍に居れば嫌でも失敗や欠点が見えてしまうでしょうが、故人の思い出とは大概、美化されてしまうものです。思い込みとか先入観とか記憶違いが多分に入りますし、そもそも人間の記憶力自体、いー加減で不確かで曖昧なものですから。
(……どうでも良い話なんですが、師匠が命を落としたその直後から翌朝の朱泱さんと会うまでの間には、「空白の時間」が存在しているんですよね。この間に一体何があったのか、お師匠様を殺し聖天経文を奪った連中が、何故三蔵さんを殺さずに退いたのか、個人的にすっごく気になります。閑話休題)
で、非現実的な「理想像」を心の中で作り上げた結果――無理して追いかけて、それでも追いつけない現実が嫌で、自分自身まで嫌いになってしまう。嫌い、とまではいかなくとも、あまり積極的には肯定出来ない。そんな葛藤を常に抱えているような気が。
普段冷静なようで攻撃的だったり、時々妙に短気だったりすることも併せて考えれば、実は三蔵さんてば案外、熱血バカの類に入るのかも知れません。外見の綺麗さと相俟って、(←容貌に付いては触れないつもりじゃなかったのか?) 傍目にはなかなかそうは見えないんですが。

雨の日に過去の惨劇を思い出し、一人滅入ってたりするのも――もしかしたら、三蔵さんが「強く」在り続けるためには、必要なことかも知れません。例えるなら、鋼を鍛えるために一旦火で熱し、その後に何度も何度も鎚で叩くように。

で、前項で述べたように「我侭」で自己防衛を図るのも、がんじがらめに自分を戒めて痛めつけ続けるのも、全て「理想」を追い求めるため。理想を追い、自分の道を貫くためなら、自身が如何に傷つこうが命を落とそうが構わない、と考えているのかも。
生き方を貫く為に死んだら本末転倒だろうが、と突っ込んでやりたい所ですが、皆様忘れてはいけません。彼はまだ23歳です。思考が多少ぬるくて当然です。この年齢で「非の打ち所のない人格者」だったりしたら、却ってその方が恐ろしいです。
別の見方をすれば――三蔵さん自身、己の道を貫くために大切な物は何か、と模索を続けている最中なのかも……。(あの「カミサマ篇」や、昨年夏に公開された「劇場版幻想魔伝」でも、何となくそんな一面が伺えます)

スペースの都合上、詳しく書けなくなってしまいましたが(泣)金蝉さんは逆に、「大切な存在(=悟空)を守るために、自分は何をすべきか」と模索しているように見受けられます。今までぬるま湯だった環境(←言い過ぎ?)の中で、己の成すべきことを捜している最中だと……。

「お前は、誰かの太陽になれるか?」

外伝の冒頭で提示されていたこの主題を、一番色濃く反映しているのが、金蝉童子という人ではないかと。

金蝉さんと三蔵さん、二人とも「最遊記」の主題を担う重要人物ではありますが、その点でも二人は全くの正反対です。そんな二人の在り様が、ひいては本編と外伝の「違い」をも表しています。(←贔屓目?)
「金蝉童子」と「玄奘三蔵」は確かに同じ魂ですが、全くの同一人物ではありません。同様に、「本編」と「外伝」は同一世界で展開してはいますが、あくまでも別の物語として描かれています。原作者である峰倉御大ご自身、はっきり明言しておられます。
ですが。それぞれに進み行く道のどちらにも、所謂「模範回答」は存在しないことが、個人的に大変興味深く思えます。

でもそーいう人って、一歩間違うと、目的を果たした後は完全に燃え尽きるんですよね。企業戦士の定年後みたいに。
こいつ大丈夫なんか? と密かに思うことも。(それこそ余計なお世話でしょうが)



3.Charismatic

「カリスマ」という言葉を辞書で調べると、このように書かれています。

【 Charisma (ドイツ) 】
(1)超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力。預言者・英雄などにみられる。M=ウェーバーは、このような資質をもつ指導者に対し人々が人格的に帰依する関係をカリスマ的支配と呼び、伝統的支配・合法的支配に対する支配類型の一概念とした。
(2)転じて、一般大衆を魅了するような資質・技能をもった人気者を俗にいう語。
― 小学館「大辞泉」第二版より
…………………。
ま、まぁ、確かに三蔵さんは、平気な顔して銃を片手で連射したり(反動は無いのか反動は? しかも横に構えてるし)、空中からハリセンを召喚したり、妖怪を素手でぶん殴ったり、李厘ちゃんを片手で吊り上げたり、清一色の投げた点棒を受け止めたり、挙句に妖怪から「悪魔の化身」と呼ばれたりするよーな男なんで、「超人間的」という形容詞も何となく納得出来ないこともないんですが……。(問題が違います)

それはともかく。
「カリスマ」たる者、何らかの素質を持っていることは確かなようです。最近は「カリスマ」という言葉自体が濫用されがちですが、本来、誰もがなれるものでは決してありません。
ほら、学年に一人か二人くらい居ませんでした? 特別何をしてる訳でもないのに、妙に目を引いてしまう人って。平々凡々な顔立ちをしてたって、学校みたいに皆と全く同じ服装してたって、そーいう人は目立ってしまうんです。それこそ、内面からにじみ出る輝きがある、とでも言いましょうか。
……で、三蔵さんの場合、容貌もあのとおりですから。更に性質が悪いというか何というか……(ぶちぶちぶちぶち)

ですが、「カリスマ」は一人で成立するものでもありません。
当人の周囲に他人が在り、その人々が当人を支持して初めて、カリスマは「カリスマ」になれるのです。賛同を得られないまま人の上に立ったところで反発されるだけですし、下手すりゃ存在そのものを根底からひっくり返されかねません。我々が住む平和な現代日本と違い(異論はあるかも知れませんが、世界全体から見れば日本はまだまだ平和です)、彼らの生きる世界は不安定です。はっきりと描かれてはいませんが、「異変」発生以降、政情不安は更に酷くなったとも考えられます。となれば、群集は自然と「強い者」「英雄」を求める方向に傾くでしょう。
そんな中で。最高僧の称号を持ち、素質も教養も実力も充分に備え、おまけに金髪美丈夫、とくれば……も、もし、もしも三蔵さん本人さえその気になってれば、それこそスター○ンやヒ○ラー(トラブル防止のため一応伏字)の如き絶対権力者になれたかも知れません。もっとも、三蔵さん自身は前述のとおり「自分のことで手一杯」ですから、結局そうならなかったのですが。

ついでに言うなら、本来「カリスマ」とは孤独なものです。人より先を行き、道を指し示すその分だけ、周囲との間にズレが生じます。増してや我が道を徹底的に貫こうとするなら、誰も付いて来ない可能性だって充分に有ります。
我が道を貫く、自由に生きる、とは――代償に、そんな「孤独」を背負うのではないでしょうか。私見ですけど。

……いまいち話が逸れました(汗)
「玄奘三蔵」という男があれだけ人を惹きつけるのは、持って生まれた天性の素質に加え、第2項で述べた「道を貫かんとする強い意志」を備えているからこそ、のような気がします。多分、どちらが欠けても駄目ではないかと。
我侭ですけど。態度でかいですけど。めちゃめちゃ攻撃的ですけど。それでも現に、八戒も悟浄も(悟空は別格。彼はまさに「一体」ですから)付いて来ていますもの。

普段は仏道の戒律(不殺生、不飲酒等)を破りまくっていますが、強さを求め理想を追うその様は、「求道者」の姿そのものです。日常生活での姿が是か非かは明言を避けますが(汗笑) 良くも悪くも「嘘が無い」男だからこそ、人の心を惹き付けて止まないのでしょう。この文章を書く、私自身も含めて。

逆に三蔵さん側にとっても、悟空は勿論、悟浄や八戒の存在は(本人が意識する以上に)大きいと思うのです。
最初の項で述べたとおり、三蔵さんは幼少時代、沢山の愛情を受けて育った人です。だからこそ、本当は誰よりも「他人の存在」を必要としているのかも知れません。
私にも巧く言えないんですが(汗)「自分自身が必要とされることを、必要としている」のだろうなぁ、と。

「最遊記」第一話であの三人が言った「俺は死ぬまで俺だけの味方」という台詞を、「RELOAD」第一話では三蔵さん自身が口にしています。他人と常に距離を置いていた(現に三人がその台詞を言った時、三蔵さんは完璧に“傍観者”でした)彼が、自分の意志で、その言葉を口にしたのです。見逃してしまいがちな箇所ですが、考えればかなり劇的な変化だと言えるでしょう。
カミサマ篇クライマックスでの「俺には俺の決めた生き方が、玄奘三蔵の唱える『無一物』がある」の台詞と併せ、これから何がどのように変わってゆくのか、行く末に何を見出すのかが、楽しみです。

もっとも。彼が進む道そのものは、これから過酷になる一方なのでしょうが。



4.Epilogue

考えてることの半分も書けなかったのですが(それでも普段書く小説より倍以上長いとはどーいうこった?)、徹底的に書き切ると本当にキリがないので、この辺で止めておくことにします。
(本当は「悟空の存在」についても書きたかった…あまり語ると墓穴掘りますけど
ですが……すみません、最後にも一つ言わせて下さい。


「我侭勝手も大概にせぇよっ、この極道坊主っっ!」


これだけの長文書いておきながらシメがそれかい、と、自分でも呆れてはいるんですが(ぉ
ありったけの悔しさと腹立たしさと心配と愛情を込めて。

(2002.9.20 掲載)
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